日本一の大天狗の実態とは?異端の天皇だった後白河法皇 その9

 土佐坊昌俊は平家物語によれば、頼朝より命を受けて義経討伐を行うために鎌倉を出発し、上洛したという。

 実際、彼は義経を襲撃し義経を殺そうとしたが、頼朝からの刺客というのはあくまで義経側の主張にしかない。

 これに関して、呉座勇一先生は頼朝が誰かを粛清する時には、必ず鎌倉にて実行させている点を指摘している。

 例えば、現在鎌倉殿の13人にて、佐藤浩市氏が演じている上総広常は、鎌倉の頼朝邸にて双六をしている時に、梶原景時に粛清された。

 また、甲斐源氏の有力一門であった一条忠頼も、同じく鎌倉に招かれた酒宴の席で粛清されている。

 頼朝は日本史の中でもかなりの謀略家である。彼は謀略を実行する時は基本的に徹底的に実行を隠匿し、確実に成功する算段を整える。

 後白河法皇とは対極的に、彼は謀略の使い方を心得ていた。決して乱発することなく、正当性を掲げて実行するのである。

 だからこそ彼は荒くれ者の坂東武者達を束ねることに成功した。

 今回の土佐坊の一件は、あまりにもお粗末であり、結果として彼は義経を討ち果たせずに逆に殺されてしまった。

 だが、これで義経は頼朝と敵対する上での正当性を得ることが出来たのである。

 この襲撃事件に対しては九条兼実は義経に同情し、頼朝の冷酷さを嘆いていた。

 正当性を得た義経は伯父行家と共に、後白河法皇に頼朝討伐の宣旨を要求した。

 流石に後白河法皇は頼朝と本気で戦うつもりはなかったのだが、後白河法皇には義経に対抗できるような兵力が存在しない。

 相手は義仲すら打ち破り、平家一門をことごとく入水させ滅亡に追い込んだ源義経である。

 その為に後白河法皇は仕方なく宣旨を出したのだが、ここで行家と義経にとって最大の誤算が起きる。全く兵力が集まらなかったのだ。

 まず、畿内の武士たちは義経の手で壊滅させられていた。それに、義経には武蔵坊弁慶らの郎党はいても、頼朝のような部下はいない。

 比叡山延暦寺や興福寺などの寺社勢力も、この時頼朝とは親密な関係を築いていたために全くあてにならない。

 そのため、義経と行家は後白河法皇が宣旨を下して一か月も経たぬうちに都落ちしてしまった。

 その後、行家は頼朝に討伐され、義経は最終的に奥州藤原氏の元に向かうも、最終的に頼朝の威に屈服した藤原泰衡に襲撃され、自害した。

 そして後白河法皇は頼朝に対して弁解をすることになった。そして、関東から上洛してきた武士たちは「二品(頼朝)忿怒の趣」と頼朝が激怒していることを伝えたのであった。

 当然ながら院近習たちも頼朝からの報復に戦々恐々となった。

 そこで、院近臣である高階泰経が弁明することとなり、彼は討伐の宣旨を義経が院宣を出さなければ宮中で自殺すると脅してきたという言い訳をした。そして、彼は「天魔の所為」というとんでもない言い訳をした。

 要するに、得体の知れない怪物が書かせたことという言い訳をしたわけだが、これは子供が「宇宙人に洗脳された」「異次元人の仕業だ!」というのと全く変わらない子供じみた子供だましの言い訳である。

 当然ながら頼朝はこれに激怒し、こう返信した。

「朝敵を討ち滅ぼし政務を院に返したという功績があったのに、どうして追討院宣を出すのか。義経・行家の追討で諸国が疲弊して人民が滅亡するならば「日本国第一の大天狗は、更に他の者にあらず候ふか」」と。

 そう、日本一の大天狗発言というのはこの苦しい言い訳に対する皮肉なのである。

 天魔のせいにした後白河法皇を、頼朝はだったらアンタは天狗だよなと皮肉ったのだ。

 ちなみに、天狗について平家物語では、「人にて人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、左右に羽根はえ、飛び歩くもの」と定めている。

 端的に言って妖怪変化であり、いかに頼朝が後白河法皇の態度に激怒していたのかが分かる。

 研究者の間でも、この返信が高階泰経なのか、後白河法皇に向けたものなのかは議論されている代物ではあるが、頼朝が後白河法皇を謀略家などとは全く思っていない。

 そもそも、頼朝を討伐するということになれば、また治承・寿永の乱に逆戻りする可能性すらあった。仮にも治天の君ならば、天下万民の為に尽くすのが為政者としての道である。

 だが中にはこの一連の動きを、頼朝の台頭を嫌った後白河法皇による陰謀だという説があるが、仮にそうであったとしてもこの体たらくぶりを見れば、後白河法皇が無能であったのが分かる。

 宣旨を出しても兵は全く集まらず、義経と行家は逃走してしまったのだ。戦うことすらできず、最終的に頼朝の怒りを無駄に買うことになった。

 尤も、呉座勇一先生はこの一連の動きに関して後白河法皇の陰謀論も、頼朝が逆に義経達を利用して、後に要求する「地頭守護」設置を要求するための策だったことも否定している。

 後白河法皇はそこまで無理に頼朝と戦う必要性もなく、頼朝にしても義経に宣旨をさせる前に無力化する方法がいくらでもあったのである。

 無理に陰謀を企むだけの必要性がなかったのだ。

 しかし、後白河法皇はこの一連の失態から頼朝から、全国に守護と地頭を設置することを飲まざるを得なかった。

 後白河法皇は頼朝を振り回すどころか、むしろ義経や行家の暴走に振り回され、頼朝の怒りを買い、頼朝の権力強化の提案を受け入れることになった。

 頭の切れる人間であればここまで事態が悪化することはなかっただろう。

 一応、後白河法皇は周囲をひっかきまわしてきたのもまた事実であった。

 だが、それはむしろ後白河法皇が部下の統率を取れず、一度決めたことを平気でひっくり返したり、その場しのぎの策を実行して下手くそな言い訳をして、よりえげつない要求を飲むという、傍から見れば自業自得の愚者の行動を取っているのだ。

 こうして、日本一の大天狗であった後白河法皇は、武家の棟梁となった源頼朝によって、調伏されてしまったのであった。

 

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