山本寛氏は「言論の自由」をご存じではないらしい

 先日、山本寛氏のブログがあまりにもひどい内容だったために反論を書いた。

 それなりに反響があり、読んでいただいた方々にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

 今回はさっそくというか、山本寛氏が再び反論というか、アクションを取られたようなのでそれを読んだのが、あまりにも内容が酷かったので絶句した。

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 自分が攻撃されたわけでもないのに「無茶苦茶な論理を批判」しなければならないのかと山本寛氏は述べているが、この発言に私は呆れている。

 そもそも、現代日本には思想、言論の自由、表現の自由が認められている。

第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十一条
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 これが例えば山本氏の個人情報や、体のハンディやセクシャル要素に対する侮蔑、本人への誹謗中傷であれば、私の主張の方が問題であろう。

 その場合は私は潔く、氏に謝罪をするつもりである。 

 だが、私があの記事を書いたのは単純に山本氏の主張がおかしいと思ったからであり、その根底にある下の世代への侮蔑を正当化し、しまいにはロシアの侵略に対して苦しんでいるウクライナの人々に対しても無礼であると多い、反論したに過ぎない。

 自分が読んでおかしいと思ったことを書いたことが許されず、自分が読んで面白いと思ったことを書いたら許される、またはその逆になるような事態になれば、それこそ日本のあらゆる表現、小説やマンガ、アニメ、ドラマ、映画といった創作物は死に体となるだろう。

 仮にも表現する側にいる人間が、このような言い方をしてくること自体、論外だ。

 自分をちやほやしてくれる意見だけは取り入れて、自分に対して批判してくる意見に対して反発しているだけでは何も変わらない。 

 そして、内容や主張がおかしいのであれば、それを指摘するべきだし、批判を許さず肯定だけを喜ぶのはクリエイターとしての禁忌ではないか?

 的外れであれば無視すればよく、おかしいと思ったならば反論する自由は山本氏にもあるのだ。

 だからこそ、私はてっきり「あなたの主張はおかしい!」という反論が来るのかと少々身構えていた。

 ところが、やってきたのはこんな駄文であり、分かったことは山本氏は自分を常に肯定するだけの信者にちやほやされていたいだけの人間だったということである。

 だが、山本氏のように勘違いしている人は意外に多い。批判をすれば個人攻撃、肯定することだけをただひたすらに求めるという人間は、言論の自由というものをはき違えている。

 大勢の人間がいれば、その意見は多様になる。パンと米、どっちが好きかという選択をさせるとパンが好きで米が嫌いだという人もいれば、その逆、あるいはどっちも嫌い、どっちも好きという答えになる。

 そして、その意見そのものを封殺することはできないのである。

 だが、批判が必ずしも的を射てるわけではない。全く見当違いな批判になっていることもあるのだ。

 また、氏のような人は自分の意見や考えを持つ人を嫌う傾向にある。自分がある人は他人に盲目的に従うことはしない。

 だからこそ、自分というものを持たない人達を信者にし、その小さいコミュニティの中で生活しようとするが、自分の気に入らない意見や言葉はひたすら排除していく。

 そうした組織が最終的に滅んでいったのは、歴史を学べばすぐにわかる。

 ちなみに宗教ですらルターは「聖書に免罪符を売れとか言ってない」と主張したし親鸞は「善人ですら救われるのに、悪人が救われないわけがない」と主張した。

 日蓮に至っては「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と従来の仏教を批判して「法華経こそが正しい」と主張している。

 宗教ですら、こうして批判をしていくのだ。普通の人間が何を読んで、どう思ったかという行為は極めて自然な行為に過ぎない。

 ちなみに、山本氏は私がプーチンと共鳴しているというが、プーチンはウクライナ侵攻を反対した人々を問答無用で逮捕するというとんでもない暴挙に出ている。

 果たして、そんなプーチンと共鳴しているのは誰なのでしょうね?

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