口絵2

『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!~羊獣人の来訪者~』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第一巻収録(第二話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

口絵2

「簡単なこと。ウルウル=ドリィメリィ特等皇女は、ケムリュエに帰るわ」

 『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!』
            ~羊獣人の来訪者~
   
 クロックワイズ・メカニクス。
 それがぼくの務めている歯車機構工房だ。
 大きな時計塔が見下ろす蒸気の街アンティキティラ、その西の外れに位置している。いまでこそ多くの歯車機構工房が建ち並んでいるが、ぼくの祖父が立ち上げたこの工房こそがその第一号。まだ理論段階だった技術に本格的に取り組んだ、当時は最先端の工房だった。
 ぼくの名前は、クスト=ウェナクィテス。犬耳に犬尻尾がチャームポイントな犬獣人(ファミリシア)の血族。種族の特徴としては忠誠心の高さが挙げられて、リンケイシアの騎士団では重宝されているみたいだ(運動がからっきしのぼくには関係ない話だけれど)。
 祖父は蒸気を利用した歯車機構技師の第一人者だった。街の時計塔をはじめ、階差機関(ディファレンシャルエンジン)を利用した解析技術、いまだに模倣すら出来ないとされている虫歯車の特徴的な技術など、多くのことを為した。しかし、その機械式撥条時計で培った想像力の翼は、皮肉にも寿命という時間を味方につけることはできなかった。多くのことを成し得ず、それは弟子の課題として遺された。
 弟子――、クロックワイズ・メカニクスの主任技師はぼくではない。祖父は一時期、ぼくに技術継承をしようとしたのだけど、結局はウルにこの工房を継がせることにした。ぼくはただの事務員であり、そのことにとても満足している。
「ふわああぁぁあ、おはよー」
「おはようございます、ウル」
 階段から降りてきたのはパジャマ姿でクッションを抱えたままの少女。ナイトキャップからは可愛らしい巻き角がはみ出ている。
 ウルウル=ドリィメリィ特等工女。羊獣人(オビスアリエス)。本来、人間社会を嫌い、群れで生活をしている羊獣人であったが、彼女はへんてこで、とあるきっかけでこの工房に飛び込んで弟子入りを志願してきた。彼女こそが祖父の一番弟子であり、現在この工房のただ一人の主任技師でもある。
 食卓のテーブルで眠そうにだれている彼女に、朝食の用意をするのはぼくの役目だ。彼女は朝がとても弱く(そのわりに羊らしく夜はすぐ眠ってしまうのだが)、お昼くらいにならないとエンジンがかからない。
「今日のドレッシングは何にしますか?」
「おまかせで~」
 基本的には草食の彼女に合わせ、大盛りのサラダと目玉焼きがいつもの朝食だ。それに眠気覚ましのコーヒー。彼女の好みの砂糖とミルクの量は間違えたりはしない。コーヒーの芳しい薫りに鼻をひくひくさせながら、彼女は寝ぼけ眼でサラダを食んでいる。
 食事をしながら、いつもの朝の打ち合わせが始まる。
「マクローリン伯爵の階差機関の件ですが……」
「こないだ直したばかりなのにまた壊したの!?」
「みたいですねえ」
「一ヶ月はいかないよ! どうせ使ってないんだし!」
 ウルは頬を膨らませてぷりぷりと怒る。本人は気づいていないが、マクローリン伯爵のところの少年は、ウル逢いたさに定期的に階差機関を壊しているらしいのだ。その度に、数千というギアで組まれている機構を診なければならないため、ウルの怒りはもっともだった(ただし、定期的にまとまったお金を落としてくれるので、あまり無下にはできないのだけど)。
「他にはー?」
「ありません」
 残念ながら、往時は最先端を行っていたクロックワイズ・メカニクスも、いまでは新規参入業者に遅れを取っているのが現実だ。大規模な工場による歯車機構量産の噂もある。注文はマクローリン伯爵のような祖父と縁があったものくらいで、それがなくなってしまえばぼくたちは食べていくことはできなくなる。今日も、発注があったのはその件だけで、あとは非常に簡単な修繕や定期メンテが控えているだけ。ザン=ダカ商会からの補助金も、緊縮財政の中であまりアテには出来ないし……。
 真剣に将来を憂いているぼくとは正反対に、ウルは途端に眼を輝かせ始めた。
「じゃあ、主任技師は一日部屋にこもって研究を行いますので」
 ぱくぱくぱくーっと朝食を平らげて、彼女はすたこらさっさと二階の自分の部屋に帰っていった。大掛かりな機材を除いてほとんどの工具は、工房から彼女の部屋に運ばれている。
 彼女には成し遂げたい技術があるのだ――、それは祖父が遺した技術の可能性であり、とある技術者が部分的に成し遂げた《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》。

 ※

 半年前、この工房に懐中時計の修繕依頼があった。
 依頼主は狼獣人(カニスループス)のローラン=ロムルスレムスという傭兵だった。ウルが分解して調べてもその時計が動かない原因はわからず、ひとつの仮説を頼りに、ぼくたちは街の東側に立ち並ぶ貴族街へと向かった。そこでローランと鉢合わせし、殺されかけたところで、猫獣人(フェリシアス)のガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクスに助けられたのだった。
「ご明察。さすがはあのクロックワイズ・メカニクス。さて、そこの狼さん、貴方は何をしているのかしら?」
「え、あ、あぁ、これはだな――」
 ガブリエッラは戦争孤児であり身体に重い障害を負っていた。それを戦地で助けたのが傭兵のローランであり、その後、フェレスリュンクス家に預けたのだそうだ。
 戦場でいつ死ぬかわからないローランに持たせた一対の懐中時計。そこには魔法で編まれた部品が組み込まれていた。狼獣人にはあらゆる魔法をキャンセルアウトする特性があり、彼がこの時計を持っている限り、この時計は動かない。《絡み合う双子座のマナ》により、どれだけ離れていてもその時計と常に同じ動作をするガブリエッラの手元の時計も動かない。これが動き出したら、それは彼の死の宣告に他ならない――。
 独学の天才技術者ガブリエッラが当たり前のように解説をしたその技術は、クロックワイズ・メカニクスの祖父がついに実現できなかった《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》のさきがけに他ならなかった。これほど合理的に魔術の特性と機械の特性を併せ持った懐中時計が現れたものだから、ウルの技師魂に火が着かないわけがなかった。
 それからのウルウル特等工女は人が変わったように、《完全調和(マギアヘーベン)》の可能性を模索し続けている。ぼくにはその背中を応援することしかできない。事務方であるぼくのやるべきことは、工房を維持するための資金の工面だ――。

 ※

 からんころんからーん。
 そろばんを弾きながら家計簿と睨めっこを続けていると、不意に玄関の扉のベルが鳴る音がした。ぼくは反射的に立ち上がり、そちらのほうにお辞儀をした。
「クロックワイズ・メカニクスへようこそ!」
「依頼があって来たんだけど」
「はい! クロックワイズ・メカニクスになんでもどうぞ!」
「このあたりに羊獣人の少女はいない? 時計に興味を持った――、そうそう、生きていれば、ちょうどうちくらいの年齢の。知らないかなぁ」
 予想もしていなかった質問に、ぼくはゆっくりと顔を上げた。見慣れない羊獣人の少女が、工房のあちこちをじろじろと見つめている。ちょうどウルがここに来たときのような出で立ちだ。特徴的な民族衣装を身にまとってはいるが、薄汚れてぼろぼろ。毛並みはぼさぼさで、右目が隠れている。
 羊獣人、どうしていまさら……。
 ぼくはウルが部屋から出てこないことを祈りつつ、彼女を見据えた。
「羊獣人の少女ですか? はて? この街にも羊獣人は少ないですし――」
「じゃあ、なぜこんな毛が落ちているの?」
 彼女がひょいと拾い上げたのは、ウルの抜け毛だった。朝念入りに掃除をしていたのだが、朝食のときに抜け落ちてしまったのだろう。ウルは一族から逃げ出してこの街に来たと聞いている。追手かなにか知らないけど、ここでぼくが頑張らないことには。
「朝に羊獣人のお客さまがいらしてですね、忘れていたなあ!」
「そう。お転婆娘を群れに帰さなきゃいけないんだけど」
「そ、そうなんですか」
「そうそう。ちょうど、あそこの影で震えているような、さ」
 弾かれたように振り返ると、階段の上にはウルが座り込んでガタガタと震えていた。集中したらしっぱなしの彼女だったが、ちょっと休憩でもしようと部屋を出てしまったのだろうか。いくらなんでもタイミングが悪すぎる。
「……どうして、あなたがここに」
 捻り出すようなウルの声に、目の前の少女はくつくつと笑った。
「お迎え。さ、群れへ帰るよ。あなたは《群れる生き物(オビスアリエス)》なんだから」
「どうして、あなたが……」
「こんな霧っぽい街では息が詰まるでしょ。ほら、そこの君からも言ってあげて。この工房をまるまる改築できる程度の資金なら一族の長から預かってきてるから」
 その言葉に、資金繰りに苦労している事務員としてのぼくの耳はピコンと跳ねてしまった。いやいやいや、と首を振る。確かにそれは魅力的ではあるけれど、この工房にとってウルを失うことは考えられないことだ。
「どうしてそんな大金を積んでまで、ウルを引き戻そうとするんだ……?」
「あれ、全然教えてなかったの? ケムリュエ南部の誇り高きドリィメリィ一族のおてんば姫。《ウルウル=ドリィメリィ特等皇女》。姉さま、放蕩の時間はもうおしまいだよ」
「……姫?」
 おそるおそる振り返ると、ウルが涙をいっぱいに溜めた眼でこちらを見つめていた。こんな姿は初めて見る。祖父にこっぴどく叱られた時も、お金がなくてその辺の雑草に塩をかけて食べていた時も、彼女はこんな表情はしなかった。
 単なる家出娘だと思っていた。それが一族の姫だなんて……。見たこともない彼女の表情とその驚きの事実にぼくはどうしたらいいのかわからず、顔を逸らしてしまった。羊獣人の少女がぼくの顔を覗きこんだ。
「おやおや、困ってるね。では、こうしよう。数日したら迎えにくるから、それまでに心を決めてよ。ただ、ノーといった場合でも、必ず姉さまはケムリュエに連れて帰りますので、よろしく。それじゃあ、姉さま、またね。元気そうでなにより!」
 からんころんからーんとドアベルが鳴り、重たい沈黙がぼくとウルを包み込んだ。ときおり聴こえるしゃくりあげるような声が、ぼくの胸を締め付けた。もう何年も祖父と一緒に頑張ってきた。彼女の出自を考えないことはなかったけれど、ずっと家族のように過ごしてきた――。
 今日の後に続くはずの当たり前の明日。それがこんなにも急に、終わりを告げるなんて。

 ※

 クロックワイズ・メカニクスの店内には重い空気が満ちていた。カチコチ、と時計の秒針の音が耳障り。あれからというもの、ウルは俯いたまま微動だにしない。このクロックワイズに弟子に入りに飛び込んでくる前、故郷のケムリュエであの娘とウルのあいだに何があったというんだ。
「あ、あのさ、コーヒーでも飲む? なんか喉乾いちゃったよね」
「エルエル=ドリィメリィ……」
 コーヒーカップに口をつけたウルが、何時間ぶりに声を出した。
「わたしの双子の妹。生まれてくる僅かな時間の差で日付が変わって、彼女は皇女継承の資格を失った。天星図が《輝き征く暁光の星配置(ゾディアック)》から《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》へ切り替わるその瞬間」
「そんなことって……」
「たしかに、そんなこと。でも、羊獣人の一族にはこれが何よりも大切。そのせいでわたしは何もしなくても《特等皇女》と呼ばれ、同じもので構成されたからだのはずなのに、彼女は何の恩恵にも預かれなかった。むしろ迫害された。それが暗示される不吉な《星配置(ゾディアック)》だったから」
 本来、羊獣人たちの暮らす地域というのは、こんな人の多いところではなく、草原のようなところだ。商人を通じて交流はあるものの、外部からの流入も少なく、古くからの慣習は多く残っていると聞く。
 大草原においてもっとも絶対的なものは、天体の動き。星配置に基づいた占術を大切に思う気持ちもわからないではないけれど。

 ※

 ぼくの心配をよそに、ウルは《特等工女》としての仕事を黙々とこなしていた。
 階差機関による演算が必要な作業のせいか、部屋にこもるわけではなく、工房の作業机で片眼鏡顕微鏡(マイクロモノクルレンズ)をかけて歯車を弄っている。ぼくはそろばんを弾きながら、事務机からちらちらと彼女の様子を伺っていた。
 本来、人間社会を嫌い、群れで生活をしている羊獣人。だけれど、彼女はへんてこで、時計の精密な技術を愛し、祖父の一番弟子となり、この工房唯一の技師となっている。それがウルウル=ドリィメリィの姿だと、ぼくはずっと思っていた。ここに来る前の、まったくもって科学的ではない血と星の迷信に縛られる姿なんて知らなかった。
「ね、ねえ、ウル」
「……うるさい!」
 珍しい舌打ちが聴こえて、ぼくは肩をすくめた。こんなウルを見るのは初めてだった。動揺するのは理解できる。事情は詳しくないが、半ば無理やり羊獣人の群れを飛び出してきたのだろう。なんらかのトラブルがあったにちがいない。
「あ、」
 細かな部品が跳ねるのがこちらからでも伺えた。ピンセットで摘みそこねたのか、バネの調整を誤ったのか。彼女はぷんすこという雰囲気を出しながら立ち上がり、床に這いつくばって、小さな部品を探している。本当に彼女らしくない。
「……クスト」
「ん、一緒に探そうか?」
「あの猫のところにいく」
 立ち上がってこちらを振り返ったウルの瞳は、真っ赤に充血していた。

 ※

「こちら、つまらないものですが」
「あらあら、まあまあ。ローラン、あそこの棚のお菓子を出して頂戴な」
 大時計がそびえる蒸気の街《アンティキティラ》。その東側の貴族街に、フェレスリュンクス家はある。
 今日は傭兵のローランもいるようで、お邪魔しちゃった感が否めなかったが、ガブリエッラはぼくたちの訪問を笑顔で歓迎してくれた。戦災孤児となったころの怪我で車いすに乗っているが、その車いすには、蒸気機関を絡めたギミックが詰め込まれている。サブアームをわきわきと動かしては、美味しい紅茶を淹れてくれた。
 ウルはガブリエッラに技術的な相談があったようだった。《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》の研究に行き詰っていたのだろう。《魔力伝達の応答関数》であったり、《マナを用いた疑似神経接続》の話、《638型コペルニクスギア》の最適配置の話などを深刻な顔をして話していた。その多くはぼくたちでは理解できるものではなく、ガブリエッラが、時には図面を起こしながら相談に乗っていた。どうやら時計ではなく、レンズを用いた何かのようだった。
 一時間もすれば、ウルがトイレに立った。
「一体どうしたんですか。付き合いは長くありませんが、どう考えてもおかしいですよ、あの娘」
「実は――、」
 さすがにガブリエッラにも伝わったのだろう。いつもは技術の話をするウルはもっと身を乗り出して、眼を輝かせていた。今日は何かに追い詰められるような深刻さが滲み出ていた。簡潔に経緯を説明すると(といっても、今朝の出来事以上のことは知らないのだが)、ガブリエッラの柔和な顔から表情が消えた。
「なるほど。そういうことですか」
 カタカタと音がするのでそちらに顔を向けると、ローランが震えていた。
「そこの狼、どうしたのですか?」
「お、俺が、旅の商人に懐中時計の話をしたんだ……。単なる飲み屋での雑談だ、でも、羊獣人のしかも時計技師なんて珍しかったから話しちまった。いま思えば、次はケムリュエに街の物資を売りに行くとそいつは言っていた」
「あんただったのか!」
「すまん……」
 立ち上がったぼくに、ローランは気の毒になるほど小さくなった。この傭兵狼、前の事件の時も思ったけど、意外と小心者なのかもしれない。そしてそれ以上にトラブルメーカーだ。何年も続けてきた工房での生活が、まわりまわってこんなかたちで破壊されてしまうとは。
「クスト、どうしたの?」
 トイレから帰ってきたウルが首を傾げていた。「な、なんでもないんだよ」と椅子に座ったぼくの隣を、蒸気駆動音を鳴らしながら、ガブリエッラの車いすがすり抜けていった。すれ違うときに、小さな歯軋りが聞こえた。
「ウル。ウルウル=ドリィメリィ特等工女。事情はクストさんから聞きました。そんなことがあって塞ぎこんでいるのですね。どうやらうちの馬鹿狼がきっかけみたいなんですが、そのあたりのことはあとでクストさんから聞いてください。そんなことより――」
 一歩後ずさったウルの距離を、すかさず車いすが詰める。
「あなたはどうするつもりなのです。特等皇女としてケムリュエに帰るのか、特等工女としてクロックワイズ・メカニクスに残るのか」
 ウルが動揺していることはわかっていた。事情もある程度はわかっていた。でも、ウルの選択については、ぼくは訊きたくても訊けなかった。それをずばり、このガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクスは切り込んだのだ。
 重い沈黙ののち、ウルの小さな口が開かれた。
「……かえりたくない」
「なぜ?」
「それは――」
 何かを言いかけて、ウルはぼくの方を見、口を噤んでしまった。
「ウル。不幸自慢をするわけではありませんが、わたしには帰るべき故郷はありません。一族も根絶やしにされました。もし帰りたくない理由がただのわがままであったなら、わたしはもう二度とあなたには逢わないでしょう。あなたがどれだけ恵まれているか――」
「やめとけ」
 傭兵狼が彼女の頭を撫でる。
「羊っ娘には羊っ娘なりの理由があるんだろ」
「ローラン……、そうね、ごめんなさい。ウル、クストさん。今日は楽しいお話が出来てよかったわ。わたしの研究の参考にもなりました。それに、それにね……、さっきはああ言ったけれど、《家族》はいるのよ」
 そう言って、ガブリエッラはお腹を両手で擦るような仕草をした。その意味するところに驚いてしまい、ぼくは言葉を失ってしまった。
余計なことまで頭が回ってしまい、何を言ったらいいのかわからなくなってしまう。それはウルも同じようで、顔を真っ赤にして眼を丸くしていた。
 ちなみにこの中で、ローラン=ロムルスレムスが一番驚いていた。
「……マジ?」

 ※

「びっくりしたね」
「……びっくりだ」
「ウル、もしクロックワイズ・メカニクスのせいで帰りたくないと思っているのなら、気にしなくてもいいよ。縛るのは良くないと思うし、うん。他の技師をぼくが責任を持って探すからさ」
「お金が入るもんね」
 そういうつもりじゃないと言う間も与えてくれず、ウルはそっぽを向いてしまう。それからしばらく、ウルは口を聞いてくれなかった。

 ※
 
「あれ、君は」
「うぐぅ」
 夕食の買い出しに街の中心部へ出掛けていると、羊獣人に出逢った。例の一族独特の衣装を身にまとい、ぼさぼさの髪の毛が片方の眼を隠している。出店の多く立ち並ぶ噴水広場で、エルエル=ドリィメリィはベンチに腰掛けていた。お腹を抱えている。
「どうしたの?」
「お腹がすいた」
 思いがけない素直な返事に少し笑ってしまいながら、ぼくは彼女の手を引いて、ずっと彼女が見つめていた出店に連れて行った。幼いころに祖父によく連れて行ってもらった、老舗のからあげ屋さんだ。
「クストじゃないか、ウルとは別れたのか!?」
「リィさん。そもそも付き合ってませんし、この娘ともそういう関係じゃありませんから」
 なんだ残念だ、とリィさんは笑いながら、ぼくにからあげ五個入りの紙の器をふたつ差し出した。対価としてポケットからコインを渡す。豊穣の作物と歯車がデザインされた、穴の空いている真鍮の硬貨だ。
 そのさまをエルエルは眼を皿のようにして見つめていた。
 やっぱりだ。
 羊獣人は群れでの閉鎖的な共同生活を営んでいるせいで、一部の交易役の者を除いて、貨幣経済を理解していない。
 どうしてそんなことがわかるかって? ウルがうちの工房に飛び込んできたときもそうだったからだ。だからウルはいまでも工房の売上を、良くも悪くも気にしていない。ちなみにあのときは、いまのエルエルほど大人しくはなく、出店のものを我が物のように食べ回って大変だった。
「なるほど、これはそう使うのか」
 エルエルは大事に抱えた布袋を見つめた。そこには羊獣人を模した紋章が入っており、落とさないように手首に巻き付けてある。彼女が言っていた大金というのはこれのことだろう。じゃらじゃら音がするし。
「知らずに持ってきたの?」
「……うるさい。道理でお金を使わずに食べたら怒られたわけだ」
「君もやったのか」
 ぼくたちはベンチに座り、爪楊枝でほかほかの唐揚げを食べることにした。ぼくは慣れているからいいものの、エルエルは出来たての熱さが予想できなかったのか、はふはふ言いながら涙目でこちらを見つめてきた。
「……おいしい、これ!」
「ウルも好きで、よく買い出しに来させられるんだ」
「姉さまも」
「聞かせてくれないかな。ウルのこと。彼女がうちの工房に来てからずっと一緒だったけど、それ以前のことをぼくは何も知らないんだ」
 唐揚げを食べ終わったエルエルは、何度か逡巡しながらも、「この美味しいものの借り」と言って、口を開いた。
 ウルウル=ドリィメリィ特等皇女。群れを好む羊獣人にして皇女の立場にありながら、時計に魅了されて群れを飛び出してきた少女。
 《輝き征く暁光の星配置(ゾディアック)》と《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》によって社会的な役割が決められてしまった運命の双子は、その鏡写しのような容姿とは裏腹に、対照的な人生を送ってきた。
 特等皇女として、のちの群れを担う少女。高等な教育が施され、大地と星とを繋ぐ巫女としてさまざまな儀式を行ってきた。だからこの工房に来た時点でウルにはある程度の教養があったのだ。
 一方で、エルは何の肩書も持たず、それどころか皇女の血筋にありながら虐げられていた。熱病で倒れてうなされているときも、ウルの典礼の最中だからといって放置され、その結果として――。
「これがね……」
 ぼさぼさに伸びた毛並み、前髪をかきあげると、そこにはあるべきものがなかった。眼を背けたくなるような眼窩がぽかりと空いている。適切な処置がされなかったのだろう、その跡は非常に生々しかった。
「たしか姉さまが群れを飛び出したのはそのころだった。本当に、立ち寄った行商の時計に感動して飛び出したのか、それともうちがこうなってしまった罪から逃げ出したかったのかはわからないけどね。いずれにせよ、姉さまがいなくなったところで、《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》に継承権が移るわけでもない。群れを混乱させただけの、ただのわがまま」
 彼女は立ち上がり、空になった唐揚げの容器をぼくに渡した。
「犬獣人にも良い奴がいるんだね、おいしかった。ついでにもうひとつお願いを聞いてくれないかな」
「なに?」
「姉さまを説得してよ。でないと、うち、どんな酷い目に合うかわからないよ?」

 ※

「ウル、ただいま」
「おかえり。ちょっと集中したいから、独りにしてね」
「こんなときに何をずっと造っているんですか?」
「わたしがあの群れ(ふるさと)を飛び出したときから、ずっと造りたかったモノ」

 ※

「心は決まった?」
 エルエル=ドリィメリィが再び訪れるころ、まだぼくたちの関係はぎくしゃくとしていた。ウルは相変わらず、ぼくの理解をはるかに超えた歯車機構に没頭していた。
 それがぼくには、技師として、最期の作品を仕上げているようにしか見えなかった。
 ウルはほぼ徹夜で続けていた作業を中断し、工房で大きく伸びをした。
「待ってた。いままで色々迷惑かけてごめんなさい、エル」
「何をいまさら……。たった一時間生まれるのが遅れただけでこんな目に遭って、継承権もなく、よりによってわがままで出て行った姉を迎えに行っているうちの気持ちがわかるの!? うちとあなたを組み立てているものは、何一つ違わないというのに! うちは群れに何ひとつ必要とされていないのに!」
 《翳り逝く宵闇の星配置(ゾディアック)》。
 特等皇女として持て囃された(それが本人にとって良いかどうかは別として)ウルとちがって、彼女は群れの中でも村八分に近い扱いを受けてきたのだという。
 ウルよりも羊獣人に必要な魔法的技術は遥かに優れており、自由気ままなウルと違って、虐げられながらも群れに貢献してきた彼女。ぼさぼさの毛並みに隠れた眼には、常闇の怒りが滲んでいるように思えた。
 ウルは手にしていたマイクロドライバーを作業台の上に置き、ベルトに並んでいる工具入れのポーチを片っ端からその隣に並べていく。ウルの代名詞とでも言うべき作業着を脱いで椅子にかけ、白いシャツのラフな格好になった。
「何のつもり?」
 エルエルが訝しげな眼をしているが、ぼくにだってその理由はわからない。ただわかるのは、ウルが迷いのない眼をしているということだけだ。
「簡単なこと。ウルウル=ドリィメリィ特等皇女は、ケムリュエに帰るわ」
 手のひらに汗がじっとりと滲む。覚悟をしていたことではあったけど、実際に目の当たりにすると、胸の奥底で何かが暴れているようだった。声を荒らげて、何なら力に任せてでも彼女を止めたいとぼくは思っていた。
「だから大金はこのクロックワイズ・メカニクスに置いていって」
「……姉さまは本当にその選択をするの?」
「当然」
 エルエルからしてみれば、それを望んでいたとしても、とんでもないわがままに見えることだろう。皇女として生まれ、都市で自分のやりたいことを奔放にやったあと、その血筋を利用して安定したところに戻ってくる。それはエルエルには何一つできない選択肢のオンパレードだ。実際、彼女の両手は強く握られ、怒りに打ち震えている。
「そして、エルエル=ドリィメリィは代わりにクロックワイズ・メカニクスに残るの」
「「は!?」」
 ぼくとエルエルは同時に声を上げてしまった。
「うちにそんな技術があるわけないでしょ!?」
「そ、そうだよ、ウル。あの修行の日々を忘れたのか。ここの仕事は君だからこそ――」
 ふふん、とウルは不敵な笑みを浮かべた。
「だから、入れ替わるのさ。エルはウルウル=ドリィメリィ特等皇女として群れに帰り、わたしはエルエル=ドリィメリィとしてこの街に残る。エルエルが帰らなくても、群れに何一つ必要とされていないので問題はない。お金はここに入るし、全員が満足!」
「そ、そうは言うけど、無理……」
 エルエルはもじもじと指を突き合わせる。
「うちは姉さまにはなれっこない。毛だってぼさぼさだし、肌も汚れてるし」
「うちとあなたを組み立てているものは、何一つ違わないというのに?」
 たしかに生まれてくるのがズレただけで、双子には違いない。群れの視線と育ってきた環境がこの二人を分けたのであって、立ちふるまいさえ気をつければ、外見上入れ替わることは可能なのかもしれない。ただひとつの事情を除けば。
「でもこの眼が……、バレるに決まってる……」
 幼いころ熱病で喪われた眼。これがウルとエルエルを隔てる決定的な違いになってしまっている。が、ウルがそれを考えていないわけがない。ここに来てようやくぼくにも分かってきた。ウルがこの一週間、どれほどの難問と戦ってきたのか。
「《魔法と歯車の混合技術(ハイブリツド)》による義眼。これをあなたにプレゼントする。わたしたちの《機械力学(メカニクス)》は、歯車がベースになっているから、このサイズの義眼を造ることなんて不可能。でも魔法ならマイクロメートル単位で回路が組める。それを科学で箱詰めする。ただし、その魔法の制御だけは、エル、あなたが行わなければならないけれど。ギミックを小さなところに詰め込むのは、時計屋さんの得意技のひとつよ」
「だから姉さまは時計の工房に――、でも、本当に、できるの……?」
「わたしを信じて。きちんと動く眼があれば、逆にそれだけエルだと疑われることもないわ。それじゃあ、まず毛並みを整えるために、お風呂に入りましょう!」

 ※

「何一つ違わないわりには、なんだこの胸囲の格差社会は……」
「自然にこうなっただけだし、姉さまの方に問題があるのでは」
 むむむむ。わたしは何一つ違わないはずの妹を見つめる。
「……削るか」
「うえぇ!?」

 ※

 《論理絶縁(ロジカルインシユレーター)》の交換や高度なメンテナンスが必要だから、定期的に遊びに来て欲しいな。それにいつか、《魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)》によるもっと完璧な義眼をあなたにプレゼントしたい」
 シャワーを浴びて、義眼を嵌めたエルエル=ドリィメリィは見違えるほど綺麗になった。双子というのも納得で、ウルの隣に経つと、これだけ長く一緒にいたぼくでさえ一瞬迷ってしまうほどだ。エルエルの長い毛並みをウルが梳き、予備の作業着を着させる。
「こんにちは。ウルウル=ドリィメリィ特等皇女さん」
「こ、こんちには……。エルエル=ドリィメリィさん」
 着ている服は違えども、二人はお互いの顔をまじまじと見た後に、ふふふと鏡写しのように笑った。ウルの格好をしたエルエルは、いままで簡素な服しか着慣れていなかったのか、物珍しそうに服の至る所を触っている。
「もう。それじゃ、群れに帰ったときが心配だわ。もっとすごい服を着るんだから」
 多少のアラがあったとしても、もう何年もウルは群れに帰っていないのだ。ケムリュエには幼いころいただけ。いまのウルと多少のズレがあっても群れにはバレないだろうという、ウルの予想だった。おずおずとエルエルがぼくを見上げる。
「これ、似合いますか?」
「うん、とっても」
 にぱっと、彼女は笑った。耳が真っ赤で照れている。ウルがなんかすごい眼でぼくを見ていた。

 ※

「で、結局、あの不機嫌はなんだったんだ」
「ずっと頭のなかで回路を組み立ててたの! オーバーヒート寸前! それに――」
「それに?」
「わたしがいなくなると思って困るクストの顔が見たかったから」
「あのなあ」
 ペロと舌を出して、ウルは笑う。
「それじゃあ、頂いた大金でご馳走を食べに行きましょうー!」
「ないよ」
「へ?」
「ないって。エルエルに貨幣を使った買い物の仕方を教えたら、際限なく使っちゃったみたいで。お陰でこの街の外食産業は潤ったみたいだけど、《飲食店潰しの片眼の羊獣人》って都市伝説が出来たみたい」 
『えーっとね、このケバブとコーラと焼き鳥とー、そこのラーメンはカタメでー、それと唐揚げにポテト! 全部LL(エルエル)で!』
 群れでは《星配置(ゾディアック)》のせいもあって、美味しいものを食べられなかったのだろう。ぼろぼろの格好でも大金は持っている。出店側もあまり強くは言えず、ただただ暴食の注文に答えていったらしい。これから特等皇女として振る舞うエルエルは大丈夫だろうか。ケムリュエの食糧を食べ尽くさないといいんだけど……。
「でも、ウルがそばにいてくれて安心する。お金なんてなくていいんだ。これからもずっと一緒に頑張っていこうよ、ね?」
「……ばか」
 理由はわからないが真っ赤になったウルに小突かれるぼくだった。

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