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『銀輪』

時空モノガタリ投稿作:テーマ『自転車』
◯公園のベンチの上から、ある少女を見つめ続ける『ぼく』の物語

 郊外の公園のベンチの上。
 そこがぼくの定位置だった。ここから見る景色が好きだった。春の緑や夏の青、秋の紅に冬の白。その変化を味わうのは最高の贅沢だった。住宅街に近いので、よくお母さんが子供を連れて遊んでいる。いつもここにいるぼくは、いつ不審な眼で見られるのではとびくびくしているが、やはり公園はみんなのもの、ただここでぼけーっとしているだけのぼくも許容されていた。
 気になっている女の子がいた。
 とはいっても、小説によくあるような恋心といったものじゃない。
 この公園の隣の道路はけっこうな坂道になっているのだが、その子は自転車でいつもそこを気持ちよさそうに駆け下りていくのだ。意識をしはじめたのは彼女が中学生のときだろうか。あの制服は、近くの中学校のものだったと記憶している。
 彼女はいつもその下り坂を気持ちよさそうに走っていた。自転車で登校できない雨の日、特に梅雨の時期などはひどくつまらなそうな顔をして傘を差して歩いていた。
 高校になっても、彼女はその坂を利用していた。おそらくエスカレーター式に進学したのだろう。大人びた彼女は少しだけ茶色がかった長い髪をはためかせて、以前のような無邪気な顔で自転車を走らせていた。雨の日にむすっと歩いているのもそのままだった。
 やがて化粧がうまくなり、いつもに増して楽しそうに自転車を漕ぐようになった。ある日の夕方には、男子生徒の漕ぐ自転車の後ろに乗り、幸せそうに坂を下っていた。しばらくそんなことが続き、ある日、涙を流しながら走る彼女を見た。粒になった涙が風と戯れ、夕日色に輝いていた。その日以来、あの男子生徒はぼくの視界には現れなくなった。
 もうしばらくすると、スーツ姿で自転車を漕ぐことが多くなった。高校に行っていたときよりもずっと早く、時には太陽が昇る前に彼女は走って行き、そしてどっぷりと日が暮れてから自転車を押して坂道を上がることが多くなった。彼女はほとんど休みなしに毎日見かけた。
 やがて、彼女の表情が変わっていることに気がついた。化粧をしたその顔はまるで仮面のようで、昔のような無邪気な顔ではなかった。坂を下ることも、ただ最短距離だから移動しているといった感じで、以前のように風を切る爽快感を味わっているようには見えなかった。時には唇を噛み締めながら走っているところも見た。涙は流さないようにしていたのか、もう流れなくなってしまったのか、ぼくには知る由もなかった。
 そんな日々が続き、彼女は見る見る弱っていった。集中力もなくなっているようで、ふらふらと自転車を危なっかしく漕いでいた。声をかけようと思ったが、ぼくにはそんなことはできず、ただ彼女を心配することしかできなかった。
 「もういやだもういやだもういやだもういやだ……」
 彼女は次第にそんなことを呟きながら走るようになっていた。それでも休みなく、仕事に向かっていた。そして街が寝静まったあとに帰ってくる。目の下のくまは化粧では隠しきれなくなっており、瞳の焦点も合っていないように思えた。
 ある朝、彼女が通り過ぎたあと、車の急ブレーキ音が聞こえた。そして、衝撃音。ぼくは最悪のことが起こってしまったと思い、ベンチから身を乗り出した。しかし、ぼくには事故が起こった坂の下に行くことはできなかった。このベンチの上で首を吊った地縛霊であるぼくには、ここから動くことも、救急車を呼ぶこともできなかった。声をかけることも。ただ、こうして立ちすくむしかなかったんだ。
 それから、ぼくは自転車に乗る彼女を見かけることはもうなかった。

 ※

 秋が散って、冬が積もり。
 春が咲いて、夏が輝いた。
 あの事故から一年が経ち、ぼくはまだベンチに座っていた。誰からも話しかけられず、誰にも見つけられず。ずっと座って、この街の移り変わりを眺めていた。あの坂を憂鬱な顔で降りるあの子もいなければ、爽快な顔で走り抜けるあの子もいない。
 けれど、青年の押す車椅子に座る彼女の姿はあった。
 左手の指には銀色の指輪。青年と仲睦まじくおしゃべりをしながら、坂をゆっくりと降りていく。
 動けるぎりぎりのところまでそれを見届けたあと、ぼくはまたベンチに座った。
 なんだか、自然と笑みがこぼれた。
 天にも昇る気持ちというのはこういうことを言うのだろう――。

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