181209_表紙

『この処女の片隅に。』 ~スピカさまと思い出せない記憶と~

◯『君は……?』『見てのとおりのかみさまなのじゃ!』
 奇想天街を舞台に繰り広げられる、現代あやかし短編連作です。
◯驟(シュウ):物書き崩れの青年。
◯ひとみ:河原で出逢ったぽんこつかみさま。なにを司るかみさまかは内緒

◯楸(ひさぎ):コンビニ『アラミタマート』店員。秋のかみさま。
◯スピカさま:なにを司るかみさまなのかは内緒

メロンブックスさんにて、書籍・電子書籍ともに取り扱いをしています。
◯もくじはこちら!


この乙女の

少女はその小さな腕を星空めがけてめいっぱいに伸ばす。
「あの星々はもう消えてしまっていたとしても、かつてそこにあったのですよ」

 『この処女の片隅に。』 ~スピカさまと思い出せない記憶と~

「あー、もしもし。わらわ、わらわ。ちょっと大変なことになっとるんじゃけどもー」
 そんな電話がかかってきたのは、アラミタマートというコンビニでレジの精算待ちをしているときだった。以前に起こった《千人歳(ちとせ)さま》の事件以来、いくつかの事件で協力をしてもらっているアルバイトの楸(ひさぎ)さんと世間話をしていたら、LINNE通話がかかってきたのだ。
「ひとみ? 大丈夫ですか、何があったんですか」
 最後まで言い切る前に、通話は向こうから切れてしまった。
 カゴたっぷりの駄菓子のバーコードを読み取り終えた楸さんは、当惑しているぼくをよそに、身を乗り出してぼくのズボンのポケットから財布を取り出して、勝手に電子マネーで精算を済ませていた。ちょっと、ちょっと。
「ひとみに何かあったんですか、あまざらしさん」
「かくかくしかじかで」
「わらわわらわ詐欺とかでは」
「聞いたことないですよそんなの。それにLINNEはひとみのアカウントでしたし」
 楸さんはレシートと商品をぼくに渡しながら、微笑んだ。
「いずれにせよ、ろくなことじゃないと思います。わたしもバイトが終わったら向かいますので、何があったか教えてくださいね」
 たしかにろくなことが待っているとは思えない。けれどもあんな電話をされてしまっては、ひとみの待つ橋のたもとまで向かわざるを得ない。ぼくはとんがったコーンやDHMO(ジヒドロゲンモノオキシド)の水割りなど、駄菓子やドリンクが山盛りのレジ袋を両手に抱えて、名古屋の酷暑のもとひとみを助けに向かうのだった。徒歩で。
 ぼくが河原の片隅で出逢ったかみさまは、ひとみと名乗った。巫女服を来た少女の姿かたちをしており、橋のたもとの祠に腰掛けて、ぼくの話し相手になってくれた。物書きとしてデビューできたものの、小説が書けなくなっていたぼくは、ひとみとの他愛もないやりとりでかなり救われていた。
 太古の昔、治水のために人身御供(ひとみごくう)にされた少女、それがひとみというかみさまだった。それにより水神伝説が残るほど洪水の多かったこの川は落ち着き、やがてひとびとはひとみというかみさまのことを忘れていった。
『ふひひ、この洪水でようやく三途の川を渡れるわい』
 ひとみは忘却されることを望んでいた。かみさまという存在は《信仰》によって実在化し、それを失えば消滅する。ひとみと出逢えたあの事件を経て、いまだ彼女はあの河原の片隅でぼくの話し相手になってくれている。もう自ら消えることは望んでいないとは思っていたけど。
「なんだかほんとうに嫌な予感がする」
 気がつけば走り出していた。あれから何度かLINNE通話をかけてみたものの、一切の応答がなかった。あの祠に封じられているかみさまなので、ひとみは橋から動くことができない。だから彼女の楽しみは、ぼくが買ってくるアラミタマートの駄菓子か、ぼくが買ってあげたタブレット端末を触ることだけだった。だから、着信があったことには気づいているはずなのに。
「あぁ、もう!」
 もともと引きこもりだったぼくは、走り出してもすぐに息が上がってしまう。ああ、経費で自転車でも買っておけばよかった。両手に提げたレジ袋を緊急事態ゆえにどこかに置いておくことも考えたのだけど、今日発売の新商品はひとみがたいへん楽しみにしていて、それを置いて駆けつけた暁には『ばかもんばかもん!』と足蹴にされてしまうだろう。
「ひとみ!」
 ようやくその河原についたとき、ぼくはほんとうに体力の限界に達していた。ぜぇぜぇ言いながら、祠のそばにレジ袋をおろし、汗を拭う。我ながらこんなにも体力がないとは。情けなくなりながら、祠の上に腰掛けるひとみを見つめる。
「おお、驟。遅かったの」
「はぁ、はぁ。ひとみ……」
 ひとみはいつもの調子で、タブレット端末を触りながらゲームをしていた。
「すまんかったな。何度か着信があったとは思うのじゃが、ちょっといまいいところで手が離せんかった。このランキング一位のやつがしぶとくてのう」
「……いや、あの、大変なこととは」
 見たところ、ひとみのようすに異常はなかった。どころかいつもよりもだらだらしているような気がする。まあ、無事ならそれでもいいんだけど、これだけ必死に走ってきたこっちの身にもなって欲しかった。息を整えながら、ひとみの返事を待つ。
「大変なことになってはおるぞ。ただし、わらわが、ではなく、お主がな」
「どういうことです」
「客人じゃぞ」
 ピロロロロ、とタブレット端末から間抜けな音楽が流れて、どうやらひとみが敗北したことを悟った。ひとみは大げさなため息をついて、タブレット端末の電源を消し、祠の裏の暗がりに目をやった。
「これでいいかの。お主の依頼どおり、驟を呼び出したのじゃ」
 その言葉を合図として少女が暗がりから出てきた。気配もまったくしなかったし、そこにひとが一人隠れていて気が付かないわけがない。まるで祠の影から生えてきたのような印象を受けた。少女がぼくをまっすぐに見つめる。
「お久しぶりです、天宿(あまやどり) 驟さん」
 露草色の瞳が特徴的だった。年の頃は十五歳くらいで、このあたりでは見慣れないセーラー服を着ている。髪はツインテールにしていて、動きに合わせてよく跳ねた。人懐っこい笑みでぼくのほうを見上げてくる。まるでこちらのことを知っているかのような口ぶりだが。
「あの、どちらさまですか?」
 どこかで見たような気もするが、いまいち思い出せなかった。とはいえ、こんな女性と知り合ったことなどほとんどない。学校には早々に行けなくなったし、小説家としてデビューしてからは、ひとみと出逢うまでほとんど誰ともコミュニケーションを取っていなかった。
 むかしの同級生? でもわざわざぼくを尋ねる理由がわからない。
「やっぱりわたしのこと忘れているんですね」
 少女はぼくを覗き込むように近づく。なんだか懐かしい薫りがした。
「わたしは《スピカ》。あなたにもう一度、逢いに来たのですよ」
 まばたきをすると、まるで夢から醒めたように少女の姿は消えているのだった。

 ※

「いったいどういうことなんですか、ひとみ!」
 もとはといえば、『あー、もしもし。わらわ、わらわ。ちょっと大変なことになっとるんじゃけどもー』という謎のわらわわらわ詐欺から始まった話だ。あのスピカと名乗ったかみさまの呼び出しに利用されただけで、なにひとつ大変なことなんて起こっていないじゃないか。急いで損をした。
「だってー、驟の元カノと思ったんじゃものー」
 と、ひとみは口を尖らせた。
「あのひとはかみさまでしょう。ひとみを認識していましたし」
 一時期よりは信仰を取り戻したとはいえ、まだ彼女はひとに認識されずにいる。たまたま縁のあったぼくを除けば、あとはこの河原で絡んでいるのは楸さんを始めかみさまの面々だった。彼女が何のかみさまなのかはわからないまでも、ひとではないことはひとみもわかっていたはずなんだけども。
「かみさまとひとが付き合って何が悪いのじゃー?」
 とこちらを睨んできた。まあ、そういった逸話が世界各地に残っているのはわかっているが、常識的に考えて欲しい。ひとみは頬を膨らませて、《とんがったコーン》を指に嵌めてぽりぽりリスのように食べている。あ、指噛んだ。
「だいたいわらわより先にかみさまに逢っとるって、どういうことじゃ」
「だから知りませんって」
 あのかみさま、スピカさまはもう一度逢いに来たと言っていた。どこか懐かしい感じは確かにするのだけど、ほんとうに身に憶えがない。ひとみに出逢ってはじめて、この世界の片隅にかみさまという存在が息づいているということに気がついたくらいだから、知っているはずもない。

 ※

「あ、楸さんおつかれさまです」
 バイトを終えた楸さんが河原にやってきたのは、それから二時間ほどしてからだった。ひとみは不機嫌なままお菓子をぼりぼりと食べ続け、飽きたと思ったら、油のついたでタブレット端末をイジりだしてゲームを始めた。最近かみさま界隈で流行っているらしい。そのあいだ、ぼくはスピカさまのことを必死に思い出そうとしていた。
「これ、差し入れの三重水素(トリチウム)水です。三重県で取れた新鮮な水素水らしいですよ。さて、あの電話はなんだったんですか。なんかひとみがしょぼくれてますけど」
「実は、かくかくしかじかで……」
「ふむ。そんなことがあったんですか。それにしても記憶にない少女、ねえ」
 もしかしたら楸さんにはなにか思い当たるかみさまがいるのかもしれなかった。なにせひとみとは違って、彼女は行動範囲も交友範囲も桁違いに広い。楸さんのアドバイスが解決の糸口になった事件も何件かあったし、それがなければ詰んでいたこともあった。
「かみさま、というより、あやかしの類で考えたほうがいいのかも知れませんね」
「あやかし、ですか」
「かみさまもあやかしもひとの認識がなければ存在できないので、根本としての原理は同じなんです。ちがうのは、かみさまが《信仰》を求めているのに対して、あやかしは《畏怖》を求めています。妖怪とか、そうでしょう。誰かの恐怖体験に畏怖の念を抱き、背びれや尾ひれがついたりして、どんどんその設定が固まっていく」
 そう言われてみれば、かみさまとあやかしは似ているのかも知れない。荒ぶる神が妖怪として扱われるようになった例も見たことがあるし、ひとに恩恵を与えるような妖怪はかみさまとして祀られるだろう。もしかしたら、その両者は、ひとに対してメリットがあるかどうかというだけの違いなのかもしれなかった。
「では楸さんは、あの少女をあやかしだと思っているんですか?」
「だって、あまざらしさんのこころに棘を残したでしょう。ふつうのかみさまなら、そんなことはしない。信仰の糧にならないですもの。でも、その少女の行動を見る限り、その棘を残すことこそが目的だったような節が見受けられます」
 しかし、それにしたって意図はなんなのだろう。
「のう、驟。お主、やはり心当たりがあるのではないか」
 ひとみの言葉に、どきりとする。
「……あるのかもしれません。でも、引っかかっているようで、思い出せないんです」
「ぽんこつじゃのー」
「ひとみに言われたくありません」
 まぁまぁと、楸さんがあいだに入ってくれた。
「とりあえずあまざらしさんはその違和感の正体を探ってくださいな。家に卒業アルバムとかいろいろあるでしょう。もしかしたら、同級生の誰かに似ていたとかかもしれません。それもスピカさまの正体を探る手がかりになるかもしれませんから」
「どうせ元カノなのじゃ」
 ぼくよりも何千歳と年上のはずのかみさまが、要らぬチャチャを入れる。楸さんは呆れたようにため息をついて、ポケットからある包みを取り出した。
「それと、ひとみ、いつまでもしょぼくれてないでください。ほら、これを持ってきてあげましたから」
「おお、待っておったのじゃ! でかした、楸よ!」
 ひとみは目の色を変えてそれを受け取る。どこかで見たことがあると思っていたら、大手通販サービスの《天域(あまゾーン)》の包装だった。段ボールでないから、大きなものではなさそうだけど。
「さすがにこの橋を受取場所にはできないので、アラミタマートのコンビニ受取にして、わたしがこうやって配達してるんです。ひとみ、お代はいつもの口座に仮想通貨で」
「いつも助かっておるのじゃ」
 と、ひとみはタブレット端末を華麗にスワイプして、送金を行ったようだ。最近のかみさまはとてもハイテクだ。タブレット端末は、動けない彼女の暇つぶしにと買ったものだったけど、LINNEにFaithbookにゲームに仮想通貨に思った以上に使いこなしている。
「ひとみ、何を買ったんですか?」
「教えないのじゃ」
 ぷいっとそっぽを向かれた。こどもか。
「どうしても教えてくれないんですか」
「どうしても教えないのじゃ」
「エッチな本でも買ったんですか?」
「ばかもん! これはそんな本ではないのじゃ!」
 わりとすぐにボロが出た。
「なるほど、本を買ったんですね」
「むー。驟はいじわるなのじゃ。もう話さん」
 困ってしまったぼくは、楸さんに助けを求めた。
「楸さん、教えてくださいよ。これ、何の本なんですか」
「え、でも、これは。あまざらしさんが傷ついてしまうかもしれないので」
 と、顔を赤らめて目を逸らされた。なんなんだ、いったい。

 ※

「ところで、どうして他のかみさまには敬称をつけてるのに、わらわだけ呼び捨てなのじゃ?」
 楸さん、千人歳(ちとせ)さま、スピカさま、ひとみ。ああ、たしかにそうだ。しかしここをどうにか切り抜けなくては、ひとみの機嫌がさらに悪くなってしまう。ぼくは一瞬間を置いて、ひとみをしっかりと見つめた。
「それだけひとみが特別だということですよ」
「そ、そうじゃったのか! それならいいんじゃ、精進せえよ」
 ちょろいなー。

 ※

 帰り道で、スピカさまというワードで検索をかけてみるものの、有用な結果は得られなかった。千人歳さまのときもそうだった。しかし、千人歳さまというかみさまのシステムがその名前で示されていたように、スピカさまという名前にもなんらかの意味があるはずだと踏んでいた。
「やっぱり、星だよなあ」
 おとめ座α星、おとめ座で最も明るい恒星で全天二十一の一等星の一つ。春の夜に青白く輝く。と、記載されていた。他にも芒(すすき)だとか、真珠星といった記述があるものの、特段なにか思いつくキーワードでもない。おとめ座から攻めるにしても、処女宮(ヴィルゴ)くらいしか目につく単語はなく、そしてぼくの人生において処女という単語が出てくることは一度もない。
 こうして日が暮れた堤防の上を歩いていると、ひとみと出逢う前のことを思い出す。学校に行けなくなったぼくは、偶然に偶然が重なって物書きとしてデビューできたものの、そのあとは鳴かず飛ばずだった。
「先生、これって面白いと思って書いています? 本当に?」
「暗い話ばかり書いて。少しはレーベルの色というものを意識してくれないと」
「いいですか、主人公が苦労したり悩んだりしていると、いまの読者は読んでくれませんよ」」
 どうやらぼくの書きたい物語と、みんなが読みたい物語というのはちがったようで、次第にぼくは何が求められているのかわからなくなってしまった。本屋さんに行けば、大喜利のようにキーワードだけ変えたようなタイトルのエンタメ小説が並び、ハーレムやチートの文字が帯に踊っていた。
 白紙のエディタを前に一文字も書けない日々が続いていたころ、唯一の気晴らしが深夜の散歩だった。深夜ラジオを爆音で聞きながら、脳内の嫌なひとりごとを塗りつぶしていく。それをしなければ、きっと狂っていた。
 そうしているうちに、橋のたもとでひとみに出逢い、ふたりで都市伝説ライター《あまざらし》をやっていくことになった。この世界の片隅で忘れられかけているかみさまを記事にして、多くのひとに知ってもらう。その行為は、やりたいことと求められていることが一致していたようで、かなりのやりがいを感じていた。かみさまでいうところの、これが《信仰》なのだと思う。
 その一方で、あのころの《物語》から背を向け続けていることは、いまも胸の奥につかえている。デビュー作はもう何年も読み返していない。
「嫌なことを思い出しちゃったな……。そんなことより、スピカさまだ」
 謎めいていれば謎めいているだけ、面白い都市伝説の記事になることだろう。かみさまかあやかしか知らないが、それほど知られていない存在ならば、記事にする意味合いも大きい。頭を切り替えて夜空を見上げると、満天の星々が瞬いていた。
「まだ思い出せないんですか?」
「ひゃあ」
 突然のことに、間抜けな声が出てしまった。どこからともなく現れたスピカさまは、ふらふらと舞うように夜道を歩いていく。月灯りに照らされるそのすがたは、とてもこの世のものとは思えないほど幻想的で、しかし、どこかで見たような懐かしさも感じていた。
「あなたはいったい誰なんですか」
 現実的でないのに、既視感がある。その矛盾。このふたつの彼岸を結びつけるためには、どんな橋をかければいいのか。そんなぼくの思考を読み取ったように、スピカさまがこちらに振り向いて微笑んだ。
「わたしがいったい誰なのか、それは本質的にはどうでもいいこと」
「どうでもいい?」
「あなたがわたしのことを思い出してくれる、それだけがたいせつなこと」
 スピカさまは背伸びをして、星明り(スタァライト)の舞台(レヴユー)に手を伸ばそうとする。
「ねえ、あの星々はいまも尚あそこにあるのでしょうか」
 このひとみで見えているあの光は、何千年、何億年前に発せられた光なのだろう。この宇宙でもっとも速い光でさえ、それほどの時間がかかる途方もない尺度。届いた光でしか観測することの出ないぼくたちにとってはわからないことだが、当然、あの星々のいくつかはもうこの宇宙に存在していないのだろう。
「あの星々はもう消えてしまっていたとしても、かつてそこにあったのですよ」
 ぼくは口を開く。
「スピカさま、あなたはいったい誰なんですか。何のために、ぼくになにかを思い出せようとするんですか」
《スピカ》に関するキーワードも、いま彼女がしている星々の話も、いままでのぼくの人生には関わり合いのない要素だ。それはまちがいなく言える。なにかを思い出せようとしているのならば、こんな抽象的な言葉を並べ立てる意図がわからなかった。
「あの橋のかみさまは、気がついているようですよ。スピカさま(わたし)の正体」
「ひとみが?」
 聞き返すもすでにそこにスピカさまの姿はなく、ぼくはあたりを見渡した。しばらくするとポケットの中の携帯電話が震え、ひとみからのLINNEが送られてきたことを知らせていた。
『はよ来い』

 ※

 そういえば、夜のあいだ、ひとみはどうしているのだろうという疑問があった。あの橋のたもとには街灯はなく、よほど月灯りがなければ真っ暗だ。こんな環境で深夜にタブレット端末を使うのは目によくない。今度、LEDランタンでも買ってあげようかと考えながら、河原へ向かう。
「あ。驟さん、こんばんはー」
 暗がりの堤防を恐る恐る降りていくと、楸さんが手を振っていた。
「ここって夜中、こうなってたんですね」
「こんなにもここに通っていて知らなかったんですか?」
 ひとみの腰掛けている祠が淡く発光していた。ひとみが指をぱちぱち鳴らすと、光の強さが変わっていく。なるほどこれは便利。原理は全然わかんないけど。
「では、《スピカさま》の謎解きを始めるとするのじゃ」
 楸さんが持ってきたとんがったコーンを指に嵌めて、ひとみはぼくを指さした。
「お主もわかっておると思うが、状況の整理をせんとな。まず、正体不明のスピカさまが現れ、お主に『やっぱりわたしのこと忘れているんですね』と告げて、姿を消した。これはひとびとの信仰によって恩恵を返すかみさまの挙動ではなく、畏れを抱かせて己の目的を達成しようとするあやかしの挙動じゃ。それか元カノ」
「違いますって」
 どこまで引っ張る気だ、このかみさま。
「わざわざぼくの前に現れて、それだけ告げて消えたということは、スピカさまの目的は限られてきます。つまり、ぼくに何かを思い出させようとしている。それ自体が目的。だから、何度も接触してきたときも、そればかり繰り返していた」
「じゃが」
「ぼくは心当たりがない」
 まったくないと言えば、嘘になる。はじめてスピカさまに出逢ったときに感じた小さな棘のようなもの。それはまだ胸に刺さったままだ。その正体もわからないまま。
「のう、驟。スピカさまは思い出すためのヒントをお主に与えたか?」
「星がどうとかっていう抽象的な話はされたけど、特には」
 楸さんが手を挙げた。
「でも、おかしいですよね。思い出して欲しいのなら、教えてくれればいいじゃないですか。何度も何度もなにかを仄めかさなくても、ひとこと正体を告げればすぐに済みますよ」
「それをしないということはじゃ、スピカさまは驟に自力で思い出してもらわなければ困ると思っておるのじゃ。教えてもらって気づくのでは意味がないと。そしてヒントを与えなかったということは、思い出すためのヒントはもう与えられているのじゃ」
「《スピカさま》という名称」
「そうじゃな」
 我が意を得たりという感じで、指に嵌められたとんがったコーンをぱくりと食べた。
「その名称だけで思い出せるということじゃ。して、調べてみた」
 唾液と油のついた指で、タブレット端末をしゅぱぱぱっと操作する。
「たしかにぼくも調べましたよ。スピカ、おとめ座、芒、真珠星、処女宮、いずれのキーワードもいまいちピンと来ませんし、なによりどれもぼくの人生にはあまり関係のないものです。ここから何を思い出せっていうんですか」
「いま言った中に答えは含まれておる」
 ぼくは首を傾げるが、ひとみはドヤ顔である。楸さんが声を上げた。
「ちょっと待ってください、ひとみ。ということは、驟さんが△△△△で◯◯◯に××を入れて、おとめを誑かして処女を食ってるってことですか!? スピカさまはそれで被害にあった少女たちの怨霊の集合体ということですか!?」
 物凄い言われようだし、楸さんはもう少し自分のキャラというものを大切にしたほうがいい。ほらー、ひとみがすごい形相でぼくを睨んでるー。答えにたどり着いたなら、それがまちがいだってことくらいわかるでしょうよ。
 楸さんがわなわなと震えながら適切でない持論を展開しているが、それはともかく。一度、考えてみる。スピカさまの正体ではなく、スピカさまの目的を。ぼくが忘れてしまっていること。ここまで心当たりがないということは、もしかしたらずっと目を背けていた事かもしれない。
 そしてもうひとつ。ひとみが先に真実にたどり着いたということだ。ぼくの過去に由来のあるスピカさまのことを、なぜ先にひとみが解き明かせたのか。それはきっと大きなヒントになるはず。ひとみとはほとんど毎日のように逢ってはいるが、それもこの一年足らずの付き合いだ。学生時代のことなどは、彼女に話していないはず。
 だとしたら、どうして気づけたのか。
 ぼくは、楸さんが運んできた天域(あまゾーン)の小包を思い出した。
 ひとみは本を買っていた。ぼくには見せられない本。本人いわくエロ本ではないというのだから、ぼくに見せられない理由は数えるほどしか思いつかない。
「そうか……!」
 ひとみが我が意を得たりという笑みを浮かべた。
「ぼくの人生において、《処女》という単語が意味を持ったことが一度だけあったのか!」
「えっ、まさかほんとに!?」「そうじゃな」
 楸さんとひとみが真逆の反応を返した。っていうか、楸さん、軽蔑しきった目でこっちを見るのはやめてくれ。そういうことではなく、スピカさまの意味するキーワード《処女》とは。
「《処女作》、ですね!」
 人生に行き詰まったぼくがはじめて書いた小説だ。偶然、《白羽の矢》が当たることになって、小説家としてデビューできたのだけど鳴かず飛ばずで、売れるような物語も作ることができず、ぼくは筆を折りかけた。ぼくのここ数年を決定づけたあの小説。
「そうじゃ」
 ひとみが頷く。
「お主が抱いていた既視感、それはお主があの処女作から目をそらし続けてきたことによる。見よ、驟は最初からスピカさまの正体に気づくことができたのじゃぞ」
 ひとみは油で汚れた指を巫女服で拭った上で、見覚えのある本を開いた。
『露草色の瞳が特徴的だった。年の頃は十五歳くらいで、このあたりでは見慣れないセーラー服を着ている。髪はツインテールにしていて、動きに合わせてよく跳ねた。人懐っこい笑みでぼくのほうを見上げてくる』
「ぼくが最初に書いた小説の、ヒロインだったのか……」
「おそらくそのすがたを借りて、お主の前に現れたのじゃ。この話題になるとお主はいっつも暗い顔をするから深くは話さんかったのじゃが、《物語》もかみさまと似たようなものじゃ。誰かから認識されているからはじめて存在できるのであって、誰からも忘れ去られてしまってはなかったも同然」
 ぼくはどれだけのあいだ、あの物語に背を向け続けていたのだろう。
「なにが面白い物語で、なにがそうでないかという話をしとるのではないぞ。よいか。時間が経つにつれて読者が物語を忘れていくのは仕方のないことじゃ。いつまでも語り継がれる物語なんてほとんどおらん。じゃがな、作者(おや)に忘れ去られることは、おそらく物語にとって一番つらいことなのではないかのう」
 楸さんが、ひとみの持っていた本を取り上げ、ぱらぱらと捲る。
「スピカさまは、処女作を思い出させるあやかしだったんですね。しかし、ひとみ、この本のことがあったとはいえ、よく気が付きましたね」
「わらわだって、ふたりでひとりの都市伝説ライター《あまざらし》じゃからの」
 と、ひとみはすごいドヤ顔で決め台詞を言った。
 ぼくはそのあとに続くふたりの他愛のないやり取りをぼんやりと聞きながら、スピカさまのことを思い出していた。
『わたしがいったい誰なのか、それは本質的にはどうでもいいこと』
『どうでもいい?』
『あなたがわたしのことを思い出してくれる、それだけがたいせつなこと』
 自分を思い出してくれない作者(おや)を前に、さっき、スピカさまはどのような心境でこんなことを言ったのだろう。スピカさまがかみさまであれ、あやかしであれ、そういう現象であったとしても、この胸につかえる棘はいつか向き合わなければならなかったものだ。もう何年も刺さりっぱなしのこの棘を、いつしかぼくは忘れてしまっていたんだ。
「何を呆けておるんじゃ、驟。この事件はこれでしまいじゃ。お主が、わらわの助けがあったとえはいえ、スピカさまを認識したのじゃからな。きっと、スピカさまの目的もここまでじゃろう。ここからは驟の物語じゃ。お主がこの事件を踏まえてどうするのかは、お主しか決められん」
 わざわざとんがったコーンを指に嵌めてぼくを指差す。
「どんな選択をしようとも、お主の選んだ選択肢が正解じゃ。じゃが、こうして出てきてくれたスピカさまに恥ずかしくない振る舞いをせにゃあならんな?」
「ええ、そうですね」
 ぼくは強く頷いた。

 ※

「でも、ぼくの本は没収させてください」
「いやじゃ、渡しとぉない! わらわがどれだけ苦労して見つけたと思っておるのじゃ!」
 じたばたと暴れるひとみだった。こうなるともう手がつけられない。ため息をつく。
 あの処女作はもう何年も読み返していない。書いていたときの自分の焦燥感はよく憶えてはいるけれど、作品の内容自体はもう思い出せなかった。スピカさまが模しているヒロインの名前だって自信がない。都市伝説ライターとなって、《物語》を創作することから離れて以来、作家時代を思い返す勇気はなかった。けれど、あの作家時代がなければ、きっとひとみには出逢えなかっただろうし、いまのぼくをかたちづくる《あまざらし》にもなれなかった。
 帰り道、堤防沿いの道で星空を見上げる。
「一度、読み返してみるか」
 そう呟くと、『思い出してもらえましたか?』という声が聞こえたような気がした。ああ、そうだ。いまとなっては苦い思い出になってしまっているけど、作家というものになれたとき、あの物語が誰かに評価されたとき、ぼくは遠くにある星を掴めたような気持ちになったんだ。
『あの星々はもう消えてしまっていたとしても、かつてそこにあったのですよ』

 ※

 というわけで、酷暑の名古屋でぼくが出逢ったかみさま《スピカさま》との顛末を書いてみた。このネット記事を見て興味が湧いた方の中には、ぼくのデビュー作を読んでみたいという方いるかもしれない。が、そもそもそれほど刷られておらず、天域(あまゾーン)でも欠品が続いている。手に入れる手段はあるのかもしれないが、正直なところあまりお薦めはしない。
 処女作を読み返した感想は自分の胸のうちに秘めておくとして、《物語》というものをまた書いてみようという気持ちになった。ぼくが体験した都市伝説のレポートではなく、まったくの創作の物語。それがいつになるかはわからないけど、もしかしたらこれらの都市伝説記事の中にひとつくらい混じっているかもしれない。まあ、信じるか信じないかはあなた次第ということで。
 ああ、それから。
 もし《君》が小説を書いたり漫画を描いたりしているのなら、たまにはあなたのスピカさまを思い出してみるのもいいかもしれませんね。

もくじはこちら!

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