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『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!~狐獣人なメイドの勤務日誌~』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第一巻収録(第四話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

クロックワイズ(ウルとクゥ)

「いいよ、気に入った。君はボクのものだ」

 『狐獣人(ヴェルペ)なメイドの勤務日誌』

 クロックワイズ・メカニクスの朝は遅い。
 羊獣人(オビスアリエス)のウルウル=ドリィメリィ特等工女。それがわたしだ。ケムリュエの牧草地帯、控えめにいってもなんにもない田舎で暮らす羊獣人は、種族の特性として朝が非常に弱い。なんなら夜も弱い。年柄年中寝ていたい、そんな一族なのだ。
「クスト~、おはよ~、クスト~」
 ケムリュエから持ってきた愛用のクッションを抱きしめながら、階段を降りる。お気に入りの寝間着はふわふわのほかほかで、この秋の終わりでも気持ちよく過ごすことができる。工房へ降りると、芳しいコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはようございます、ウル」
「おはおは」
 犬獣人(ファミリシア)の彼は、クスト=ウェナクィテス。彼の祖父は、このクロックワイズ・メカニクスの創始者であり、蒸気街アンティキティラを歯車産業の街として盛り上げた天才技師、ソフ=ウェナクィテスだ。わたしのお師匠でもある。
 クストは、この工房の総務事務経理その他雑用を担当している。わたしが歯車機構の作業に集中できるように、それ以外のすべてを行っているのだ。
「クスト、今日のご予定は~?」
 席につくと、クストはいつものようにサラダとコーヒーを用意してくれる。彼の机にも同じものが置かれている。犬獣人なのだから肉とか食べたいのだろうけど、そこは合わせてくれているのか、経費の節約なのか、なかなか聞けずにいる。
「ザン=ダカ商会に行ってくるよ。ヴァン=デルオーラ=ヴェッターハン会長のアポが取れたんだ。とりあえずいま考えている経営案について話してくる。ウルは留守番をお願いね」
「あい」
 クロックワイズ・メカニクスはこの街になくてはならない工房ではあったのだけど、いまでは自動工場による歯車機構量産化の波に飲まれ始めている。創立時に協力してくれたザン=ダカ商会もこの工房への補助金を減らして、工場の誘致とか、新技術の開発に力を入れたいらしい。
 クストはいつも夜遅くまでそれを説き伏せるための書類を作成している。ヴァン会長に持っていっては否定されて、めげずにまた新しい案を頭を抱えて考えている。
 すごい、と思う。
 これほどしてくれる人がわたしの職人である部分を支えてくれるのだから、わたしもしっかり頑張らなきゃとこころから思う。
「じゃあ、わたしは天体軌道歯車機構(アストログラフ)の設計を続けようかな。あとちょっとで階差機関(ディファレンシヤルエンジン)を回せるところまで来るから」
「おっけー、期待してるよ!」
 わたしがもそもとそサラダを食べているあいだに、クストはすでに食器を片付けていた。工房の柱時計がぼーんぼーんと鳴っている。あれはわたしがこの工房ではじめて作成したものだ。九時の鐘が鳴ったということは、だいたいいまは九時半くらいだ。
 からんころんからーん。
 普段は鳴らないドアベルが店内に響き、わたしとクストは同時に顔を上げた。そして師匠に叩き込まれた営業フェイス。椅子から立ち上がり、お辞儀をして、
「クロックワイズ・メカニクスへようこそ!」
 元気よく発声する。
「おはようございますですわ」
 顔を上げると、瀟洒な服を着たメイドの女性が微笑んでいた。
 手入れの行き届いた、太陽のように輝くような金髪に、ふたつの耳がぴょこんと跳ねている。メイド服のスカートの後ろには、ふさふさもふもふの金毛の尻尾が流れている。顔はシミひとつない白面だった。そしてその胸は実際豊満であった。
 あれ。あの人、どこかで見たことあるような。
「狐獣人(ヴェルペ)?」
「ええ、いつもお坊ちゃんがお世話になっております。私、マクローリン家のメイドで、クゥ=ノァイン=マクローリンと申します。以後、お見知りおきを」
 ぺこりと頭を下げ、微笑む狐。
 マクローリン。お坊ちゃんというのは、ノイン=シュヴァンツ=マクローリンという少年のことだろう。
 わたしの師匠と彼の父親は交流があり、その縁で関わりがあるのだが、彼はなんのつもりか悪戯でモノを壊しては、この工房に修理依頼をかけるのだ。もちろんその度にある程度の収入は約束されるのだけど、数千からなるギアをチェックして、故障箇所を同定するこちらの身にもなって欲しい。
 しかも修理中、『疲れただろ、こっちで休まないかい?』だとか『ブリオッシュがあるんだ、一緒に食べようよ』なんて邪魔もしてくる。正直言って、鬱陶しい。
「先日は幽霊騒動でご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「まったくだ!」
「そのお詫びと言ってはなんですが、不肖、私めがこちらで一定期間アルバイトをさせていただこうと思っておりますのですわ」
 その突然の申し出に、わたしたちふたりはきょとんとしてしまった。いままであの家がうちに迷惑をかけたことはあっても、こうしてちゃんと謝られたことはないからだった。
「アルバイト、ですか……」
 クストの瞳にくすんだお金のマークが表示されていた。そう、このクロックワイズ・メカニクス工房は、わたしたちふたりでやっていくだけで精一杯。アルバイトを雇うような余裕はこれっぽっちだってないのだ。
 さあ、帰った帰った!
「お詫びでございますから、お賃金をいただこうとは思っておりませんわ。なんなりとコキ使ってくださいませ」
「歓迎します!」
 クストの瞳に輝くお金のマークが表示されていた。そう、このクロックワイズ・メカニクス工房は、万年資金難であり、クストはかなりお金のことに敏感になっているのだ。
 お、おばか! クストのおばか!
「ちょ、ちょっと、クスト。それは――」
「ちょうど人手が足りなかったところなんです。特にいまぼくがザン=ダカ商会の補助金申請の関連で忙しくて、他に手が回らない状況でして。簡単な帳簿の記入とかやってくれるひといないかなーって、思ってたんですよ」
「まあ、それは嬉しいですわ」
 満面の笑みで喜ぶ雌狐。それからクストは『労働条件がうんたらかんたら、勤務日と勤務時間はうんたらかんたら』と早口で捲し上げて、
「それじゃ、そろそろ行かないとヴァン会長とのアポに遅れちゃう! ウル、とりあえず機器のメンテが出来るように、彼女にいろいろ教えてあげて!」
 と、書類を抱えて工房から飛び出していった。
「……簡単な帳簿の記入くらいわたしがやるのに」
「では、よろしくお願い致します。ウルさん」
 口を尖らせてみるが、クゥは無邪気そうな笑みを浮かべていた。
「はい、よろしく。それじゃあ、クストが帰ってくるまで、歯車機構の説明をしていくけど」
「あ、そうでございますわ」
 クゥはこちらを振り返ってウィンクをした。
「お坊ちゃんにはこのアルバイトの件、秘密でございますので、ご承知おきくださいませ」
 こうして、わたしの騒がしい一日が幕を開けた――。

 ※

「おや、あれはなんですか?」
 がしゃーん。
「これは何に使うものなのでしょう」
 ぱりーん。
「あらあら、可愛い工芸品ですこと」
 どかーん。

 ※

「ウルさん、あれはなんでございますか? マクローリン家の屋敷にも似たようなモノがあったと思いますが」
 それからクゥは結局数多くの硝子を割り、細かなギアの入った小袋をぶちまけていった。いくつか年代物歯車機構(アンティークギアガジェツト)も破壊していった。メイドらしく後片付けもやってくれるし、代わりの品はノインの財布から出すというので損はしていないのだけど、わたしはげっそりと疲れてしまった。
「あの機械、屋敷で動いているところをあんまり見たことがないんでございますの。ノイン様が綿密に故障させて、あなた方がのこのこと修理をしに来るところしか見たことがありませんわ」
 酷い言われようだったが、それは置いておいて(金づるだし)、クゥはこの工房の中でもっとも壊してはならないものに眼をつけてしまった。
 馬鹿のひとつ覚えみたいに触りに行くクゥを全力で羽交い締めにして、接近を妨げる。悪意もなくそんな破壊行為を続けられるなんて、なんなの、世界の破壊者なの?
「あれはどういう歯車機構でございますか?」
「階差機関(ディファレンシヤルエンジン)」
 わたしはしぶしぶその名を告げた。
 クゥが興味を持ってしまったそれは、様々な工具や歯車機構が並ぶこの工房の中でもひときわ大きく、そして重厚。使われている歯車の数もゆうに千を超えるため、人の力ではもはや回すことができない。そのため、アンティキティラらしく、蒸気機関の力を借りてごりごり回している。
「そんなに歯車を使って何をするのでしょう。エンジンとはいいますが、見たところ、歯車自家用車(ギアヴィークル)のように動き出すわけでもなさそうですし。ノインさまのところの階差機関(きかい)も、動いているところを一度も見たことがありませんわ」
 こちとら必死こいて毎回直しているのに、この言われようである。わたしは技師として、盛大なため息をついた。さて、階差機関(ディファレンシヤルエンジン)をこの雌狐にどう説明したものか。
「この機械はね、わたしたちの仕事を補助してくれるものなの。歯車機構の発展によりアンティキティラが栄えてすでに三十年が経つわ。その間に、歯車機構は異常なまでのスピードで高度に発展していった」
「歯車自家用車(ギアヴィークル)や、歯車巨大自律機械(ギアギガント)ですわね。いまではそれがないと、社会が成り立ちませんわ」
「そう。歯車機構が人々の手のひらのサイズで高性能化していったということは、その中身はますます複雑化しているということ。師匠がこの工房を立ち上げたころでは、まだ手計算で機構の挙動を計算することができたんだけど、いまではどうやったって無理なの」
 師匠からは図面の引き方からみっちりと習った。時代の流れを意識していた師匠だったが、やはりこの部分での基礎があったからこそ、クロックワイズ・メカニクスといえる精緻な製品を仕上げることができる。
「でも計算でございましょう? がんばればそんな機械使わずとも計算できますわ」
「うわ、馬鹿っぽい!」
「んまっ! 失礼ですわ」
「世の中には人の手では厳密に解けないような方程式が多く存在しているの。むしろきちんと解ける方が稀。さまざまな歯車、ぜんまいばね、スプリングにベアリングを組み合わせて、どこがどのように動いて、どのような出力を発揮し、どのような負担がかかってしまうのか、計算しなければわからないことも多い」
 世の中にはそれを気にせず、動けばいいと思っている工房も多いけれど、そのあたりを気にすると気にしないとでは、耐久年数に十数年の違いが出てしまう。量産化が進んでいるとはいえ、まだまだ高い歯車機構だ。ほんとうに客のことを思う師匠のこだわりだった。
「でもその方程式は解けないのでしょう、計算は無理じゃございませんこと?」
「厳密にはね。でも階差機関(ディファレンシヤルエンジン)でニュートン近似をかけてごりごり気合いで計算をすれば、実用に耐えるレベルの近い値を得ることができる。その繰り返しは人間業ではないわ。このパンチカードに指示を書いて、計算してもらうの」
 ソフ=ウェナクィテスは階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の可能性にいち早く気づき、そのアイディアの段階からバベッジ伯爵に積極的に関わって、クロックワイズ式階差機関(ディファレンシヤルエンジン)を考案したほどだ。逆に言えば、ただの職人と、ソフ=ウェナクィテスとのちがいは、そこにあったのかもしれない。
「例えば、これ。いまわたしが設計している天体軌道歯車機構(アストログラフ)だけど、これの軌道計算がこの数式なの。おかしなことにこの世界から見える星空は、地動説を採用しても計算が合わない箇所がある。まるで地震があるたびに、天体の運行を司る物理法則が切り替わっているような。だから、ケムリュエなんかは《星配置(ゾディアツク)》なんてオカルトに走ったりするんだけど、これは合理的に軌道を計測・予測するもの。人の手で計算したら何日かかるかわからないわ。だからいま、これをテイラー展開してパンチカードに落として――。って総和記号(シグマ)とか積分記号(インテグラル)とか読めないか」
「読めますわ。マクローリン家のメイドたるもの、そのくらいの教養は修めていましてよ。でもこの程度の演算だったら、別に機械を使わなくても……」
「は!?」
 わたしのノートを見つめるクゥの表情が一変する。金色をした瞳孔がきゅうぅっと狭まり、おちゃらけているような表情が引き締められる。目線はそのまま、机の上の切れ端に次々と数字が書き連ねられていく。まるで絶対真理を記述する自動筆記(オートマティスム)のようだった。
「とりあえず単位時間の整数倍で十までって感じございます。有効数字は五桁でよろしかったですか?」
「え、ええ!?」
 わたしは目の前で起こっていることが信じられなかった。
「ちょっと理解ができないんですけど。もしかして、でたらめ?」
「その階差機関(ディファレンシヤルエンジン)とやらで計算をするとわかると思いますわ」
 怪訝な顔をしていると、雌狐が微笑んだ。
「もともと狐獣人は幻術が得意でしょう? だから他の種族よりも繊細なマナのコントロールが要求されるんですの。だから、自然と演算能力だけは発達しているんですわ」
 それにしても異常過ぎる。
 わなわなとメモ用紙を手にとって震える。この計算結果を得るために、わたしたち技師は、蒸気機関を使ってまで何千という歯車を廻しているのだ。いったいなんなんだこれは。しかもいまわたしが設計している天体軌道歯車機構(アストログラフ)は、いままでのどの歯車機構よりも複雑だ。それなのに――。
 狐に頬をつままれた。
「夢じゃありませんわよ、ウルさん?」
「いひゃい。いひゃいって、くふ。それにしてもおかしいよ。狐獣人だからって程度があるでしょう。みんなそんなレベルで計算ができるなら、師匠はマクローリン家に一級品(マスターピース)の階差機関(ディファレンシヤルエンジン)を贈っていない」
 ようやく頬から指を話したクゥは、わたしの名推理を受けて、少し顔を曇らせた。そして手元の極小歯車の詰まった紙袋を、机の上にぶちまける。
「ちょ、」
「六百七十九個。そのうち五百八十八個は袋に書かれているとおり、九七式プトレマイオスギアなんでしょうけど、残りの九十一個はよく似た粗悪品ですわ。掴まされましたわね」
「な――!」
「数えることだけは得意なんです、私。何故こんな能力を身につけたのか、どんな過去があればこんな芸当ができるのか、もしこれが短編小説であれば、つらつらと過去を語るんでしょうけど、紙幅の都合と、それは私のプライバシーに関わるものですから、ひみつですわ」
「はぁ」
「それにしても階差機関(ディファレンシヤルエンジン)、やっと私の次に計算が速いやつができたというわけですわね」

 ※

「そんなに計算がすごいならどうして技師を目指さなかったの? あれ暗算でできるなんて、かなりのアドバンテージだし、誰にも真似出来ない」
「それなんですが――」
 がしゃーん。ぱりーん。どごーん。……ぽんっ。
「私、ちょっとばかし不器用でして」

 ※

「ウルさんは、クストさんとお付き合いされているんですか」
「……ッ! いきなり何を!?」
「いえ、異種族なのに仲が良さそうなので。それにずっとこの工房のひとつ屋根の下で暮らしているんだとか。夫婦の契りは交わしたんですか?」
 クゥは綺麗な金色の眼で見つめてくる。
「……そんなんじゃないわ」
「そうですか! それなら安心しましたわ!」
「あんしん?」
 ゾクッと背中に冷たいものが走るのを感じた。
 雌狐は満面の笑みで微笑んでいた。

 ※

 しばらくすると、ザン=ダカ商会からクストが帰ってきた。
「やぁ、ただいま、ウル。クゥさんと仲良く過ごせた? って、なんだこれ――」
「えっとね、キッチンが爆発したよね」
 とりあえず小休止ということでお茶にでもしようと思ったら、クゥが「それならメイドの私がいれますわー! ウルさんはゆっくりくつろいでいてくださいませー! ローズヒップでよろしゅうございますかー!」としゃしゃり出てきて、任せたところ、これである。
 クストが眼を丸くしていた。
「ごめんなさい、ご主人様」
 しゅんと耳を垂れたクゥが、上目遣いでクストを見つめる。もふもふの尻尾が左右にゆっくり揺れている。クストが何故か、頬を赤らめた。
「申し訳ありませんですわ。私、こんな貧乏くさいキッチンを使うのが初めてで――、もとい、こんな慎ましいキッチンは初めてでございましてよ」
「……そ、そうなんだ。いろいろごめん」
「すぐに片付けますわ。それにしてもこんな惨事をご主人様に見せてしまうなんてメイドの名折れ。どうか許してくださいませ~!」
 そういって、あろうことかクゥはクストの腕に絡みついたのだった。狼狽えているクストだったが、それをやめさせようとはしない。すりすりと擦り付けるクゥ。主張の強い胸がそれに合わせてかたちを変える。
 口に運ぼうとしていたクッキーが砕け散った。
「ちょっと! クゥはさっさと片付ける! すぐにレクチャーを再開するから、覚悟をしていてよ!」
「あいあいさーですわー」
 とこちらの意図など理解していないような口調で、クゥはキッチンへと向かっていった。さっきから片っ端から壊しているので、掃除道具は出しっぱなしだ。
「あの、ウル、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ少しも怒っていないし晴れ渡るような穏やかな気持ちだよそれともクストなにか怒られるようなことでもしたのかな」
「い、いえ、なにも」
 ――こいつが一番わかっていない!
 冬を迎える前のリスのように頬をぷんぷんに膨らましても、こいつは少しも察してくれない。まったくもぉ。
 そんなわたしをよそに、クストは書類を広げながら、『ヴァン会長から指摘されたんだ、魔法(マギ)と歯車(ギア)の完全調和(マギアヘーベン)の実現可能性についてだけどさ――』とか『このプランが実現すれば、かなりまとまったお金が入るはずなんだ。そうすれば、ウルも――』とか、そういう話をし始める。
 そんなにお金が好きなら、マクローリン家の子になっちゃえ。
「もういいよ! 散歩してくる!」
 胸の中のもやもやが我慢できなくなって、わたしはクロックワイズ・メカニクスを飛び出した。エルエルから貰ったなけなしのお金がポケットの中にある。
 今夜はこれで飲み明かそう……。
「クストのばぁか!」

 ※

「ウル、なにかあったのかな?」
「さぁ、虫の居所が悪いんじゃありませんか。さぁ、ご主人様、クゥお手製のローズヒップティーでございま――、ってきゃあ! ごめんなさい。ご主人様のおズボンに溢してしまって! すぐに拭いますわ!」

 ※

 クゥ=ノァイン=マクローリン。
 私の名前はそれ。ノイン様がつけてくださいました。マクローリン家に拾われる前の名はもう、忘れてしまいましたわ。なにか、とてつもなく差別的で侮蔑的な響きを含んだ名前をつけられていたような気もしますが、きっと気のせいなのでしょう。
 ――いち、に、さん、よん……。
 記憶は遡れる限り、真っ黒に塗りつぶされておりました。この何もない部屋が私の揺りかごであり、子供部屋。外からは父の怒号が響き、母の悲鳴が聞こえます。数時間もすれば、人格が変わったかのように父は泣いて謝ります。
 私は、この黒い直方体の中で無限とも思える時を過ごす必要がありました。
 ――あ、また数が変わってる……。数え直さないと。
 そんな私の唯一の楽しみは、数えることでした。はじめは部屋で目につくオブジェクトの数。続いて、私の身体に生えている狐毛の本数。もっとも夢中になったのは、床に積もった埃の数。
 数字は気分で変わることはありません。数えることだけは、この世界の誰にだって平等です。その日の気分で解釈を変えたり、何もしていないのに拳を突きつけることはありません。
 ――に、さん、ご、なな……。
 やがて埃すら数え尽くし、わたしの数への興味は、部屋の中から、私の頭の中へと移っていきました。数は、そこに実在していなくとも数えることができたのです。頭のなかで様々な数字を思い浮かべ、並べ、演算し、法則を見出そうと、毎日毎日繰り返していました。
 ――あ、十を九千九百九十九回かけたものに三万三千六百三を加えたものも、一と自身以外で割り切れない。ふふふ……、素敵な数。
 やがて母が暴行に耐え兼ねて逃亡し、父は蒸発、私は遠い親戚の家に預けられることとなりました。やっぱり人生なんてロクなもんじゃねえと心底思えるような事件がそこであって、親戚と揉めた末に、私は獣人買いに売られることとなります。
 やっぱり、素敵な数以外は何も信じてはいけません。
 そのころの私はどん底もどん底で、ボロ布一枚まとうだけで、髪もぼさぼさ。手錠に足枷。虚ろな瞳で、割り切れぬ数字を唱え続ける私を、金持ちそうな人々が奇異な眼で見ては、去っていきます。
 かつん。ひときわ大きな足音が響きました。なにやら係の人間と話をしています。値段の交渉をしているのでしょう。ある金額が聴こえてきたとき、それがわたし自身の値段だとわかってはいましたが、わたしはこう呟いてしまいました。
「すてきなかずだ……」
「へえ。いいよ、気に入った。君はボクのものだ」
 そういって、その少年は生意気な口調で私を見ました。そして暖かな手を頭にぽんと置いたのです。
 ああ、太陽みたいだ。
 そう、こころから思いました。同じ狐獣人でもここまでちがうのかと心底思い知らされました。私はもう茶色というか泥のような色に染まってしまっているというのに、彼は黄金に輝く太陽のようだったのです。
「よ、よろすくおねげぇしますだ」
「はは、マクローリン家に仕えるのだから、まずはその口調から直さないといけないね」

 ※

 ――だから。
 だから、私は、ノイン=シュヴァンツ=マクローリン様のためだったらなんでも出来るのです。誰しも太陽がなければ生きられないように、私には太陽のように笑うノイン様がいなければ生きられないのです。
「ねえ、クストさん?」
 そのためなら、私はどんな汚いことだって出来る。どんな汚い真似だって出来る。
 こうして、クロックワイズ・メカニクスに潜り込んで、ウルとクストの関係を分断し、私がクストと既成事実さえ創ってしまえば、ノイン様は想い人と結ばれることになるでしょう。
 それこそが私の見たい、ノイン様の顔なのです。
「クストさん。ねえ、私のことってどう思いますか?」
「どう? どうって、あの、ちょっと、近い……」
「近くにいたいんです。ね、クストさんはどうですか?」
 男の弱いところなんて、あの親戚のところにいたころにみっちりと教え込まれました。男なんて単純なものです。ああ、そういえば、彼も犬獣人でしたっけ。犬みたいにハァハァうるさかったものです。
 ――あぁ、ノイン様。
 ノイン様のウルさんへの恋心。それが実ることを思えば、私のこの安っぽい想いなど、いくらでも割り切ることができましょう。
 奸計は狐の本懐でございます。

 ※

 クスト=ウェナクィテス。
 いままでの人生で様々な修羅場を乗り越えてきた自信があるが(主に金銭的な意味で)、こんなに対応の難しい案件は初めてだった。
 いきなり狐耳のメイド少女がやってきて、どたばたあったのちに、こんな色っぽく迫ってくるだって!?
 いまどき、アンティキティラで流行っている若者向けの軽妙娯楽小説だって、そんなベタな展開はないぞ。クゥの大人の肉体の柔らかさを感じて、どぎまぎしてしまう。ウルにはないものを、この狐メイドは持っている。
「ほら、ここ。こんなに……」
「やめ――」
 クゥのしなやかな指が、ぼくのベルトに触れる。明らかにそれの意図。緊張で全身が硬くなってしまう。クゥが上気した上目遣いで、ぼくを見つめる。
「ねえ、クストさん、正直になりましょう?」
「ぼ、ぼくは――」
『クストのばぁか!』
 途端に頭のなかに懐かしも愛おしい声が響き、ぎりぎりのところでぼくは我に返った。あの田舎娘が頬を膨らませて、ぷんすこしているところが、容易にイメージできた。
「クゥさん、それはダメだよ」
「え、そんなはずは……」
「それにクゥさん、無理してるでしょ」
 そうして彼女の頭を手のひらで押さえ込むと、彼女は「ひぃ!」と稲妻に打たれたように跳ね、身体を丸めて震えだした。何かとてもつらい過去を思い出したのか、ぼくには事情が知れないけれど。
「あ、あの、クゥさん?」
「許して許してください。ああ、なぐらないでなぐらないでください。痛くしないでください!」
「えーっと……」
 震えるばかりでぼくが何を話しかけても、まともな反応が返ってこない。……まいったなぁ、と頭をかく。誰かに聞かれたら誤解を受けるようなことを大声で叫んでいるクゥさん。気の毒には思うけれど、こんなとき誰かに入って来られでもしたら――。
「まぁ、どうせお客さん来ないんだけどさ」
 からんころんからーん。
「!?」
 そんなことを言った罰なのか、普段は沈黙を保っているドアベルが鳴る。おそるおそる振り返ると、そこには背丈の小さな少年が立っていた。走ってでもきたのか、肩で息をしている。
「よぉ、犬っころ。ボクのメイドが迷惑をかけているね」
「ノイン……」
 ノイン=シュヴァンツ=マクローリン。ウルに恋する生意気な狐少年。そんな彼がむすっとした表情で、ずかずかクロックワイズ・メカニクスに入ってくる。
「帰るぞ。ボクはお腹が空いたんだ。蒸し(スチーム)パン食(く)いたい」
「……ノイン、様?」
 ノインがクゥの頭に手をやる。
 しばらくの沈黙ののち、いつのまにか泣き止んでいたクゥは、その手をまるで崇めるかのように両手でぎゅっと握りしめていた。
 立ち上がった彼女は少年を抱きしめる。
「ほ、ほら、いいかげん帰るぞ」
「もう少しこのままでいてくださいませ」
 もやしっ子のノインが彼女を振りほどこうとするが、彼女はがっちりと離れてくれない。どころかその肉感のある身体に押し付けられて苦しそうだった。クゥは、ふんすふんすとノインの頭頂部の匂いを嗅いでいた。
 そんなノインをにやにやしてながら見つめるぼくだった。
「み、見るな、犬っころ!」

 ※

「それにしてもなんでわかったんでございますか?」
「例の幽霊騒動のときに仕掛けておいた狐毛はブラフだ。別の場所に本命の狐毛を仕掛けておいた。『絡み合う双子座のマナ』で共鳴させれば盗聴し放題なんだが、どっかで聞いたことあるような出来損ないのお嬢様言葉が聴こえてきてね」
「あの、ノイン様、怒っています……?」
「当然。あのとき言っただろう、君はボクのものなんだよ」
 ――ああ、そうだ。
 私はひとつ思い出したことがあったのです。幼いころに数えていた素敵な数字、割り切れない数字。そう、私は小さい頃から知っていたのです。
 割り切れないものは素敵なのだと。

 ※

「もうそのくらいにしておいたほうが、ウルちゃん?」
「いいんです、もういっぱいおかわりです。ヒック」
「身体を壊すよ?」
「お金なら払いますよ!」
 わたしの大声で、噴水広場のみんながこちらを振り返った。泣きながら、牛乳を片っ端から一気飲みする羊獣人。さぞかし滑稽なことだろうて。
「やけ乳ですよ」
「なに、クストくんと喧嘩でもしたの?」
「なんでも、ないです」
 牛乳屋さんは肩をすくめて苦笑した。でっぷりと太った猫獣人(フェリシアス)、ジョバンニ=ミケ=ガラクト。
 わたしがこのアンティキティラに来た頃からお世話になっている、いわゆる世話焼きな近所の人だ。まだ日も昇らない早朝に、ゼンマイ自転車で配達をしているのだけど、だいたいその時間にわたしは起きられていないため、ほとんど逢ったことがない。
「ほんと君たちは、はたから見ていてやきもきするなぁ。幼い頃から一緒にいすぎると、家族みたいな感じになっちゃうのかね」
「技師と経理です。ただの同僚です」
「まさか」
 何が可笑しいのか、ジョバンニはわたしを見て笑った。
「ってあんまり外野が口を出すのもよくないか。でもなぁ、こうでも言わないと君たち進展しなさそうだしなあ。ソフにも二人の仲を取り持つように言われていたし……」
「そんなんじゃないですから! もういっぱいおかわり!」
 もう何本目かわからない牛乳を空け、わたしは力いっぱい叫んだ。店主は苦笑いをしながら、わたしが最初に『釣りはいらねえ!』って言って渡した小銭と札を数えていた。
「ウルちゃん、これじゃあ足りないよ」
「ツケておいてください」
「じゃあ、彼に請求しようかな」
 牛乳屋さんが指差した先には、見慣れた人影が息を切らせて誰かを探していた。

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