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『クロックワイズ・メカニクスへようこそ!~狐獣人の少年~』

クロックワイズ・メカニクス小説総集編第一巻収録(第三話)
◯ほのぼの獣人スチームパンク短編連作。時計工房で働く犬獣人の少年クストと、技師である羊獣人の少女ウル、そのふたりを巡る物語です。

◯もくじはこちら。

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 ウル、ぼくと一緒になってほしいんだ。必ず幸せにしてあげるから。

 『狐獣人(ヴェルペ)の少年』

 クロックワイズ・メカニクスの夜は遅い。
 ぼくの名前は、クスト=ウェナクィテス。犬獣人(ファミリシア)。この時計工房の経理をやっている。
 世界的に進んでいく産業革命の波に飲まれないよう、古き良き時計工房をぼくの代で潰してしまわないように、帳簿とにらめっこをしている毎日だ。
「んー、でも、どう工面しても無理があるんだよなぁ」
 蒼い月光に照らされた机の上、にっちもさっちもいかなくなったメモ用紙に、万年筆でぐるぐる書きなぐって、丸めて捨てる。切り詰められるところは、あらかた切り詰めた。
 三ヶ月ほど前にあった、羊獣人(オビスアリエス)の来訪者から始まった事件では大金を手に入れるチャンスだったのだが、その子がどうしようもなくポンコツだったために、ほとんどお金は入ってこなかった。
「……クスト、クスト!」
 ぼくの名を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、部屋のドアが少しだけ開けられていた。我がクロックワイズ・メカニクスの職人、特等工女のウルウル=ドリィメリィが小刻みに震えていた。
「ウル、珍しいね、どうしたの? おねしょはだいぶ前に治ったでしょ」
「ちがうよ!」
 冗談は置いておいて、ウルがこんな夜更けに起きだしてくるなんて本当に珍しいことだった。地震があっても、雷が落ちても、近くで火事が起こっても、いまは亡き祖父が怒り散らかしていたとしても、一度寝てしまえば梃子でも起きないのが羊獣人の彼女だった。
「ゆ、ゆゆゆゆゆ、幽霊が」
「幽霊?」
 プスーっと吹き出してしまったぼくを見て、ウルが頬を膨らませた。いくらこの工房がボロいといっても、さすがに幽霊なんてお目にかかったことはなかった。
 ウルも科学の申し子である技師であり、それをよく知っているはずなのに、産まれたての子羊のように涙を震えている。
 涙を浮かべた眼で見つめられて、ぼくはたじろいだ。
「わかった。どこ?」
「廊下。ぼやーって光って……、カタカタカタ、って!」
 とりあえず武器になるかどうかはわからないが、祖父の使っていたスパナを握りしめて、おそるおそる廊下に出てみる。ウルは不安そうにぼくのシャツの裾を掴んでいた。いつもウルに振り回されるぼくだけれど、たまにはこういうのも悪くはない。
「さて、と――」
 この深夜、ふたりきりで暮らしているこの工房の廊下は、たしかに裏寂しい雰囲気があった。蒼い月光が届かないところには、溶けるような闇がざわついている。観葉植物の影、遠くで聞こえるケモノの鳴き声、不規則な風の音。
「クスト、クスト、大丈夫?」
「ん、大丈夫だよ。なんにもいない」
 たしかに不気味な様相を見せるこの廊下だったけれど、言ってしまえばそれまでだった。ウルのいうような幽霊なんてない。ウルが寝ぼけて何かを見間違えたか、あるいは夢のつづきを歩いているのだろうと思って、ぼくは彼女を部屋に帰そうとした。
「……むり。ぜったいにむり」
「は?」
「きっとクストがいると出てこないんだ」
 ふんすっ、と踵を返したウルは、あろうことかぼくの部屋に入っていき、ベッドにダイブした。そのまま布団を頭まで被って、籠城を決め込んだ。
 まだふたりとも小さかった頃ならともかく、年頃の男女がこういうのはよくない。
そう、ぼくは思うのだけど、ウルはそう思っていないらしい。
 きっとあのころの兄妹のような関係のままでいるのかも知れなかった。それは嬉しくもあり、やはりどこか寂しくもある。月光に照らされる彼女の寝顔は美しかった――とか描写したいんだけど、布団にくるまった彼女は、完全におはぎみたいになってる。
「じゃあ、ぼくはウルの部屋で寝ようかな」
「いじわる!」
「はいはい」
「出て行ったら許さないからね!」
 とりあえずまだやるべき事務作業は残っているから、それを片付けることとして、ぼくは椅子に腰掛けた。インク壺に浸して、ザン=ダカ商会に対する補助金の申請書や工房互助会への請願書を書かなくちゃいけない。
 万年筆を握ってみるも、どうしても集中できずに、ちらっとベッドの上を見やる。
「……男は狼だって、誰かに習わなかったのかなあ」
 ぼくは犬だけどさ。
誰にも聞こえないそんな独り言をよそに、ウルは安らかな寝息を立て始めた。

 ※

 結局その日は一睡もできず(できるわけがない!)、祖父の遺したノートを読み続けて眠気を誤魔化していた。何度か眠気に負けて机に突っ伏したことはあるが、いざ寝ようとすると、ウルの寝息が耳について眠れず、逆にもう襲ってやろうと立ち上がっては自己嫌悪することしきりだった。
「ふあぁ~あ」
 クロックワイズ・メカニクスの朝は早い。大きなあくびをしながら、朝食用のサラダをこしらえる。半目になりながらコーヒーを淹れつつ、船を漕ぎながら目玉焼きのフライパンを振るう。
「ふわああぁぁあ、おはよ、クスト」
「ふわああぁぁあ、おはよう、ウル」
 今日はぼくの枕を抱きかかえて階段を降りてくるウルだった。いつもの大きなあくびに、今日はぼくも釣られてしまう。っていうか、あれだけぐっすり寝ててまだ眠いのかこの娘は、と呆れてしまう。
「コーヒー、ふあぁ、いかがです」
「ふぁふぁ」
「ふわああ」
 こんなんで仕事になるわけがなかった。あくびとあくびの無限応酬に飲み込まれてしまったぼくたちは、朝食を済ませて、一緒に歯を磨いた後に、倒れこむように工房のソファで眠りこけてしまった。
 そして眼が醒めたのは夕方頃で、慌ててぼくたちは夕食の支度をした。食べたら食べたで、いつもの生活習慣が発動し、眠くなってしまう。ほとんど仕事が済んでいないことに愕然とするとともに、一日じゅう誰にも呼び鈴を鳴らされなかったこの工房の需要のなさに呆れ返った。
 深夜、いつものように仕事をしていると、ウルが飛び込んできた。
「……クスト、クスト! また!」
「幽霊?」
 ウルの幽霊騒ぎはほとんど毎日のように続き、そのたびにウルはぼくの部屋で寝泊まりするようになり、慢性的な寝不足になるぼくだった。よこしまな考えに囚われてしまっていて、生真面目で知られる犬獣人の片隅にもおけない。
 まったくもって仕事が手につかなかった。色々と我慢をしているぼくの身にもなって欲しいくらいだった。それにそろそろ工房のなけなしの資金も底をつこうとしている。なにせ、ぼくたちが食っちゃ寝のぐーたら生活を送っているのだから。
「ぼく、犯人がわかった気がする」
「不思議とわたしも。原因はわからないけど、犯人だけはわかったような気がする」
「行こう」
「行こう」
 そういうことになって、幽霊騒動が始まって三日後、ぼくたちは、貴族街のフェレスリュンクス家を尋ねた。車椅子の猫獣人(フェリシアス)ガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクスと、その恋人である狼獣人(カニスループス)、ローラン=ロムルスレムスが出迎えてくれた。
「あなたが幽霊騒動の犯人でしょう」
「お、俺じゃねえよ!」
 ローランは慌てて首を横に振った。だが、ぼくたちは疑いの眼を止めやしない。あの懐中時計の事件だって、エルエル=ドリィメリィの件だって、トラブルはいつもこいつが持ってくるのだから。
 すったもんだを三十分ほど続けたところで、ガブリエッラが車椅子を動かして、仲裁に入ってくれた。
「まぁまぁ、この馬鹿にそんな悪戯をするような知恵はありません」
「まぁそれもたしかに」
「おい!」
 ローランの哀れな叫び声が、フェレスリュンクスの屋敷に響いた。

 ※

 正体不明の幽霊に振り回される日々が一週間ばかり続いた朝、ぼくはあくびを噛み殺して、ウルに噛み付いた。
「ウールー、今日こそは仕事に行くよ」
「えー」
「マクローリン伯爵のとこの階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の修理依頼。あれをそろそろやらないとマジでやばいんだから」
「うぇー」
 マクローリン伯爵は祖父の代から親交のある貴族で、いわゆるお得意様だ。狐獣人は種族的に商才に恵まれており、遠く港町ストラベーンで事業を展開している。目指しているのは、職人に頼った技術からの脱却。蒸気機関の動力を惜しげもなくフル稼働させて、全自動化された工業で製品を作ることを目的としている。
「職人が丹精を込めて作った120のクオリティの歯車機構なんてもう必要ありません。たとえ70のクオリティのものであっても、蒸気機関による工場で大量に生産をすることができたなら、それこそまさに蒸気機関の発明に続く第二次産業革命となることでしょう。いまよりも安価に時計も歯車機構も手に入ります。職人の製品より、早く壊れることでしょう。しかし、壊れたらまた買い直せばよいのです!
 購読している雑誌《鳥の目ジャーナル》にはそんなインタビューが載っていた。別に彼の事業を否定するわけではないけれど、祖父と親交があった者としてもう少しいい方ってものがあるんじゃないのかなと思っただけだ。まあ、ウル曰く「あんな怖い顔のクストははじめて見た」とは言われたけれど。
 そんなマクローリン伯爵の屋敷の機械は、クロックワイズがメンテナンスすることになっている。
 祖父の組み上げた数千のギアからなる階差機関(ディファレンシヤルエンジン)はそうそう滅多に壊れることもないのだが、あそこの坊っちゃんがよく壊しては、ウルに会うための口実を作りたがっている。ぼくとしては定期的な収入源となっているから、ありがたいお客さんであることはまちがいない。
 一方、そんな注文をされたウルのほうは溜まったものじゃない。悪意があれば小石ひとつで止まる機械を、数千のギアを解体してメンテナンスしなければならないのだから。
「いやだー」
 寝ぼけ眼でじたばたするウル。ぼくは連日の睡眠不足も祟って、ウルのこうした態度に苛ついてしまった。
「バウ!」
「ひぇ……」
 犬獣人のケモノとしての本能で吠えたのは、いつ以来だっただろう。もともと羊は犬に怯える動物である。ぼくのそんな姿に眼を丸くしたウルは、いそいそと自分の部屋に戻っていった。
 その間にぼくは請求書はじめ書類一式と、祖父が記した階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の図面を用意する。工具と、ウルの糖分不足に備えて甘いものも少し。そういった淡々とした作業をしていると、少し言い過ぎたかなとふと思うようになってきた。
「いや、甘やかすのはダメだ」
 ぶんぶんと首を振る。すると、作業着に着替えてきたウルがとんとんと階段を降りてきた。眼はまだ寝ぼけてはいるが、コーヒーのおかげで若干エンジンがかかってきたようで、技師らしい顔をしている。
「行くよ、ウル」
 返事もせずに、彼女はぼくの後ろをとことことついてきた。

 ※

「クロックワイズ・メカニクスです」
 貴族街の中でもひときわ大きな屋敷の門をたたき、中へ通される。無駄に広い中庭をふたりで歩いて行く。いつまで経っても落ち着かない。これだけお金があればうちの工房も――、なんてことを思う。
 邸宅の中へと通されると、ひとりの少年が出迎えてくれた。
「どうも、クロックワイズ・メカニクスです。ご要望のありました階差機関(ディファレンシヤルエンジン)のメンテナンスに参りました」
「待ちわびていたよ、ウルウル=ドリィメリィ特等工女」
 その少年の名は、狐獣人(ヴェルペ)のノイン=シュヴァンツ=マクローリン。いかにもお坊ちゃんといった出で立ちに、ぴょこんと飛び出した金色の狐耳。右目には片眼鏡(モノクル)をはめているが、これは実は伊達で、ウルが作業するときに使うマイクロモノクロレンズの真似だということをぼくは知っている。
 っていうか、クロックワイズ・メカニクス名義で挨拶したのに、彼の出迎えの言葉がウルだけに向けられていることに、若干、ムッとする。が、お得意様なので仕方があるまい。小さい頃から、ノインはこういう子だった。
「美味しいブリオッシュがあるんだ、作業をして油で汚れてしまう前に一緒にいかが?」
「結構。朝食は食べてきました。まずは故障箇所の特定をしたいので、不具合の症状を教えて下さい」
 両手を広げたノインの隣を、作業着のウルがすたすたと歩いていく。朝食のコーヒーが効いてきて、だらだら羊の《特等工女》としてのエンジンが掛かったころ。こんなやりとりを小さなころからずっと続けている。ノインのその忍耐強さと、好意を隠そうとしない素直さは、羨ましくもあるのだけど、いつ見てもこの少年の真似はできないなと思ってしまう。
「おい、犬っころ、もう少し愛想良くはできないのか」
「そういうところがいいんでしょう?」
「……ふんッ」
 からかい混じりにそういうと、少年は頬を赤くして、そっぽを向いた。小さなころからちやほやされきっている彼にとって、ウルの技師としてのキャラは新鮮に映ったのだ。
 かといって、ただ逢いたいがために、世界に何台もない高級機械を壊されても困るのだけど。

 ※

「第六十三ギアから第千二十三ギアまでの駆動でとっかかりを感じる。他にも在るかもしれないけど、とりあえずはここ。蒸気機関からの動力経路にはほとんど使った形跡が見られないし、無事だと思われるから、あとはここをバラしていかないと。クスト」
「はい。九十三番マイクロドライバー」
 マイクロモノクロレンズを嵌めたウルはいつもこうやってぶつぶつ言いながら作業を進める。そのほうが自分の中でも思考が整理しやすいのだという。ときおりこちらを向かずに名前を呼ばれるので、差し出された手に工具を渡す。
 後ろで紅茶を飲みながら、ノインがじっと見つめていた。
「一七三式の第二ケプラーギア」
「はいはい」
 ぼくだってあの祖父の教育を受けたのだから、ひととおりのことは出来ると自負している。が、ウルの技術はもはや異次元としか呼ぶほかないレベルだ。迅速で緻密。だから、ぼくはこうして助手に徹する。
 いつ何時のオーダーにも耐えられるように、ぼくが抱えてきた工具箱には過剰なまでに様々なパーツが収納されている。
「クスト、あれ」
「はい。二七ワッシャー」
「それと」
「五番から九番までの虫歯車」
 こちらを見ずに差し出された手に、じゃらりと特殊な歯車を渡す。マクローリン伯爵の階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の修理――というか、不具合箇所の同定は、ウルがまだ工房を継ぐ前からずっと行っている作業だった。そこにウル独自のアレンジが加えられたり、ケースバイケースな動きも入るのだけど、阿吽の呼吸で作業ができていた。
「ここが怪しいな」
「はい。六万巻ゼンマイボックス」
 その歯車がひとつ表面に飛び出した小箱は、ウルが開発した特殊な工具だった。中には十分な動力になるゼンマイが巻かれており、スイッチひとつでエネルギーが解放されて、表面のギアが動き出す。ギア自体は合金神銀細工(ミスリルクラフト)を応用した素材で出来ていて、マナを注いでいるあいだは柔らかく、マナの供給を止めると固くなる特性がある。攻撃的な魔法以外に長けた羊獣人ならではの発想だった。
 特に階差機関(ディファレンシヤルエンジン)のような数千のギアで構成されたものは、途中の動力経路のチェックを行うのが非常に難しく、なにより重い。そのために蒸気機関で動かすことが前提なのだけど、それでは繊細な動きをチェックできない。
「よし」
 ウルが、ゼンマイボックスを近づける。問題と思われる箇所のギアに合致するように歯車の大きさを修正して、ボタンを押すとゼンマイがゆっくり回り出す。遅いからこそ、力強く動かすことができる。
「やっぱりここだ。微小だけど、ひっかかりがある。中途半端なところで解体がめんどくさいけど、とりあえずここから交換してみよう。クスト、クロックワイズ式階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の第六カラム百二十八番のスペア」
「……あ」
「早く」
 ぼくは口ごもる。手は工具箱の中を漁ってみるものの、そこにその注文の品がないことは誰よりもよくわかっている。
「ごめん、ウル、それはない」
「だから、第六カラムの――、って。は?」
「ないんだ。クロックワイズ式階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の部品のスペアはまだいくつか残っているけれど、その番号のギアは在庫がない」
「じゃあ、発注かけて」
 その部品がなければここから先の作業はできない。油に汚れた手をタオルで拭いながら、ウルは立ち上がる。マイクロモノクロレンズを外して、こちらを見つめる。
 ぼくは目をそらす。
「無理だ。特殊な素材、ヴォイニッチ朱鋼(しゆこう)と不可壊鋼(ダークスティール)との合金素材が必要だから、すぐには入らない」
「すぐじゃなくてもいいよ」
「……それでも無理なんだ」
 ウルが眉を潜める。ぼくは寝不足も相まって、ウルの鈍感さに苛つき、語気が荒くなるのを感じた。
「ウルは、なんのためにマクローリン伯爵の修理依頼をやりにきたんだ。お金がないからだろう。第六カラム百二十八番のスペアを入荷する資力は、どこをどう工夫したとしても、いまのクロックワイズ・メカニクスにはない」
「それはクストの仕事で――」
「それもこれも君のせいで、ぼくの仕事が邪魔されてるからだ。なんなんだよ、幽霊って」
 ウルは口をぱくぱくさせて、けれども何も言わずにぼくの脇をすり抜けていった。若干の後悔はあったけれども、それを言う権利はぼくにあるはずだ。それをこのタイミングで言うことが適切かどうかという問題は置いておいて。
「ウルウル=ドリィメリィ特等工女」
 散らかされたままの工具を片付けようと思ったが、ここまで沈黙を決め込んでいたノイン=シュヴァンツ=マクローリンの声がした。
 部屋から出ていこうとしていたウルが脚を止めるが、こちらには振り向かない。
「ねえ、君はそんな幽霊が出るような貧乏くさい工房にいるべき人材じゃない。君はみなが認める素晴らしい技師だ」
 何を。何を言い出したんだ、この少年は。ぼくの背中に冷たい汗が流れる。
「ウル、ぼくと一緒になってほしいんだ。必ず幸せにしてあげるから」
 ぼくは手に持っていたレンチを落としてしまった。ウルは振り向かない。しゃべらない。
「君のしたい研究も、必要な資材も、全部マクローリン家の財力で叶えてあげる。この階差機関(きかい)だっていくらでも使っていいし、なんならもっと高性能のやつだって海外から輸入することだってできるさ」
 結局、ウルは何も言わないまま部屋を出て行ってしまった。ノインの金色の尻尾が左右に揺れていた。

 ※

 その晩、ウルはぼくの部屋に避難に来ることはなかった。おかげでようやくまともな睡眠を行うことができた。朝日とともに目覚めたぼくが見つけたのは、工房の机に置かれた手紙だった。
「……今晩も、幽霊が出ました。マクローリン伯爵のところに行ってきます」
 ぼくはそこまで読んで、その手紙を丸めてゴミ箱に向けて投げつける。ゴミ箱から外してしまって、地団駄を踏む。どうしたらいいのかわからず、ぼくは何時間も工房で立ち尽くしてしまった。

 ※

「お爺ちゃん、これでよかったのかな」
 ぼくは静まり返った廊下でそう呟いた。陽光が窓から差し込んで、歪な影を作っている。とろけるような暗闇が息づいている。遠くで奇妙な鳥の鳴き声がして、ぼくは反射的に肩を竦めた。
 ここ数日、ずっとウルに使われていたベッドは、不思議な感じがした。ミルクのような甘い薫りが枕や布団に残っていて、鼻腔の奥が優しくくすぐられる。
 ウルとは小さな頃から一緒だった。明確に異性として意識したのはしばらく経ってからだったけど、こうして2人で暮らしている以上、遅かれ早かれ――と思っていた。それは嘘じゃない。きっとそれは、おごりや慢心と呼ばれるものだったのだろう。
 この静か過ぎる工房は、あまりに居心地が悪かった。
「……ん?」
 妙な匂いを感じて、ぼくは思考を中断した。こういう些細なことに注意を向けることで、逃げたかったのかもしれないけど。鼻をひくつかせて、その違和感の痕跡を辿る。ウルならきっとこの違和感には気づかなかっただろうが、犬獣人の鼻はごまかせない。
「……これは」
 そこから導き出される答えに思い当たり、ぼくはため息をついた。なんだ、そんなことか。睡眠不足とウルへの苛立ちで、いかに頭がぐちゃぐちゃになっていたかがよくわかった。当然、それは想定されてしかるべきもの。
 ――でも。
 いま、ノインのもとにいるであろうウルのことを考えて、胸が痛んだ。ウルは、あの好意を隠そうとしない少年のもとで、どんな表情を浮かべているんだろうか。彼はぼくがしてやれないことをなんでもしてあげることができる。貧乏でもないし、いくらでも惰眠を貪って文句を言われないだろう。ウルにとってそれが幸せならば、ぼくは何をするべきなのだろう。

 ※

「ノイン坊ちゃま、お着替えを用意しました」
「ノイン坊ちゃま、夕食の時間でございます」
「ノイン坊ちゃま、お父様からのお手紙です」
 狐獣人、ノイン=シュヴァンツ=マクローリン。マクローリン家の跡取り。ぼくがぼくであるための要素は、たったそれだけだった。
 足りないものは生まれつきほとんどなく、欲しいものはすべて手に入った。アハトお父様はストラベーンの商館につきっきりだったけど、お付の者も多く、寂しくなんてなかった。毎日家庭教師も来てくれるし、熱を出せば、医者がこの屋敷に駆け込んできてくれる。
 そんな中で、よくわからないガラクタを壊してしまったのは偶然だった。たしか最初は転んで、その筐体にぶつかってしまったんだと思う。じいやはいつもぼくの身体をなによりも心配をしてくれた。しばらくした後に、その大きな機械が衝撃で壊れてしまっていることに気がついた。
「どうも、クロックワイズ・メカニクスです。ご要望のありました階差機関(ディファレンシヤルエンジン)のメンテナンスに参りました」
 修理にやってきたのは、貧乏そうな街の職人だった。
「坊ちゃま、こちらがお父様と親交のあった工房の職人様でございます。ウルウル=ドリィメリィ特等工女という羊獣人で――」
「ぼくと同じくらいじゃないか」
「そうでございます。けれどご心配なく。腕は一級品だと聞いております」
 あのときの衝撃は、いまでもしっかりと憶えている。もともとじいややメイドたちに囲まれていていたぼくにとって、少年少女と呼ばれる年代の者に逢ったことがほとんどなかったことも手伝って、ウルという技師の存在はまったく異文化で新鮮に映った。その後ろにワンころがいたような気もするけれど、それはあんまり憶えていない。
「おい、羊っこ。お前はすごいのか」
「……うるさい」
「特別に、ぼくと話をしてもいいぞ」
「仕事の邪魔!」
 そんなことを言われたのは初めてだった。怒る余裕すらなかった。ぼくにそんな口を聞くものがいるなんて。しかも少し年上とはいえ同年代で、自分の腕だけで生きている職人。対岸のような人種。ぼくはなんとも表現のできない感情に襲われて、眼が離せなくなった。あとなんかワンころが無礼を釈明していたような気がするけれど、それはあんまり憶えていない。
「……ウルウル=ドリィメリィ」
 それが物語に聞く《恋》と呼ばれるものだというのに気づくのに時間はかからなかったが、いかんせん、ぼくはそれを成就させる方法を知らなかった。定期的に階差機関(きかい)を壊しては、修理に呼んだ。
 その度に、その凛とした職人の眼差しに眼を奪われていた。
 ぼくにとって、はじめての《手に入らないもの》。
 この感情をどうしたらいいのかまったくわからなかった。でも、明確に知っていることがひとつだけあった。
 欲しいものは、すべて手に入るということだ。

 ※

「それでここに相談に来たんですか?」
 呆れたような顔をするガブリエッラだった。蒸気を吹き出しながら唸りを上げる車椅子からは、サブアームがわきわきと動き、二人分の紅茶をカップに注いでいた。
「クストさん、ええと、なんと言ったら良いのでしょう」
 ガブリエッラは、ぼくに掛ける言葉を探してみたものの結局見つからなかったようで、頭を抱えて悶えた。そんなガブリエッラを見るのが初めてで、なんだか面白かった。
「……あなたは、馬鹿なのですか?」
 選ばれたのは、随分な言葉だった。
「というわけで、ウルはマクローリンの屋敷に行ってしまいました。経理のぼくだけ残されたかたちです。でもぼくはぼくなりに祖父の教えを受け継いできたつもりです」
 祖父。街の大時計台を作り、ゼンマイ時計の第一人者とされた、伝説の職人。蒸気機関の開発により階差機関(ディファレンシヤルエンジン)が実用化され、ゼンマイ時計の技術はさらに様々なところで活かされるようになった。この工房が、大陸にその名を轟かせていた時代のこと。
 蒸気機関が発達するにつれて、自動機械というものが多く作られ、工場が立ち並び、職人の仕事が奪われたのは皮肉としか言いようがない。でも、だからこそ、ぼくだけは工房を受け継いで行かなければならない。それが、ぼくの出した結論だった。
 だから。
「ガブリエッラ。恥を忍んで頼みたい。ぼくに貴女の技術を教えてほしい。ウルがいなくなっても工房が持続できるだけの技術が、ぼくには必要なんだ」
 頭を下げる。呆れたようなため息が聞こえる。
 ガブリエッラ=クァンテリア=フェレスリュンクス。彼女はウルに負けず劣らない技術を持っている。それは独学であるもので、魔法と科学のハイブリッドという新しい地平を切り開いたものだった。路線は違うけれど、いまのぼくに頼れるのは、彼女しかいない。
「……クストさん。貴方との関わりは、あの馬鹿があの工房に駆け込んでからのものですが、私なりに貴方がたの事情は理解しているつもりです」
 車椅子のサブアームが、紅茶を彼女の口元に運ぶ。
「私の技術を教えて済むのならいくらでも協力は惜しみませんが、その前に、クスト、貴方の認識を確認したいと思います。貴方はこの幽霊騒動の犯人に気がついているでしょう」
「それは……」
 ピクリと、ぼくの犬耳が動いてしまう。バレバレだった。ぼくの言葉を待たずに、彼女は口を開いた。
「狐獣人は幻覚魔法が得意だと聞きます」
「マナの依代だったであろう金色の毛が廊下に落ちていました。十中八九、ノイン=シュヴァンツ=マクローリンの仕業です」
「これは推測ですが、マクローリン家の修理依頼で交換した部品は、毎回、クロックワイズ式階差機関(ディファレンシヤルエンジン)の第六カラム百二十八番のスペアだったのでは」
 耳をピクリと動かした。
「呆れてモノも言えません。クスト。そこまでわかっていて何故、ウルを引き留めようとは思わないのでしょう」
「そのほうがウルにとっても幸せだと思うから、です」
 ガブリエッラが、なんか、こう、オブラートに包んで表現すると、ゴミを見るような眼をした。が、これはぼくなりに考えていたことだった。
 狐少年のノインの策略は気に食わない。それは正直な気持ちだ。いまも腹が立っている。でも、彼の発言を否定することは、ぼくにはできなかった。
 ウルウル=ドリィメリィという稀代の技師を、いまのクロックワイズ・メカニクスでは十分に活かせないということ。マクローリン家に入れば、(幽霊問題も含めて)その問題は解決すること。非常にシンプルで、圧倒的に現実的で、いまのぼくではどうやっても覆すことの出来ない論理だ。
「ウルが必要としているのは、エルエル――、ある事情から、祖父の持っていた緻密な時計技術なんです。ぼくは資金繰りが苦しいからと、彼女に無理をさせるばかりで」
「お前は本当にそう思っているのか」
 ローラン=ロムルスレムスが部屋に入り込んできた。この状態のぼくに相当ご立腹らしく、毛を逆立たせながら、ずかずかと歩いてきて、ガブリエッラのサブアームに耳をつままれていた。
「いて! いってぇ、もげる!」
「盗み聞きとはマナーがなっていませんね、馬鹿狼」
「だってよー、心配じゃねえか」
「それは、わたしが? それとも、彼が?」
「どっちもだ」
 わざとらしく照れて見せたガブリエッラは、即真顔に戻ってぼくを見つめた。
「クスト。クスト=ウェナクィテス。卑屈にもほどがあります。わたしにも、こんな頭の悪いローランでさえ、あなたが見落としている答えが見えているというのに」
 きゅるきゅるという音を立てて、車椅子をユーターンさせるガブリエッラ。
絶対零度の瞳で、ぼくを振り返り、こう告げた。
「技師としての教えを乞いたいのなら、それで結構。しかし、その決断をしたことによる安易なヒロイズムに酔うのはおやめなさい。まあ、でも、すべてを決めるその前に、マクローリンのところに行ってご覧なさいな」
 ぼくは何と返したらいいのかわからず、一礼をして屋敷を去った。

 ※

「……いったいどうしろっていうんだよ」
 深夜に部屋に飛び込んでくる羊娘がいなかったから、ぼくはほどなく眠ることができた。
 ウルがはじめてこの工房にやってきたときの夢を見た。ぼくは彼女が嫌いだった。田舎の羊獣人のくせに飛び込みで弟子入りしてきて、最初は下手っぴだったのに、ぐんぐんとぼくを追い抜いていって。いつしか、祖父も彼女のことばかり見るようになってきて。
 でも、ふたりきりでここで生きなければならないとなったときに、腐っていたぼくはようやく眼が醒めたんだ。ウルにはウルの出来ることがあって、ぼくにはぼくの出来ることがあるはずだって。だから、種族的に得意なはずの会計事務の勉強をしはじめて、ウルの全面的なバックアップに回ることにした。
 ウルのことが、大好きになっていった。
 だから、幸せになってほしい。こんな傾きかけた工房に囚われることなく、やりたいことをやって、のほほんと笑っていて欲しい。そのためにぼくでは不足なことがあれば、それはもう、ぼくは諦めるしかないことだ。
『クスト』
 もうこの工房では聞こえるはずのない声が聞こえて、ぼくは汗だくで眼を醒ました。

 ※

 一晩じっくりと考えて、翌朝、マクローリンの屋敷に駆けつけたぼくは、狐につままれたような表情をしてしまった。
「もっと寝たいし、ごはんー。サラダー。コーヒー。めーだーまーやーきー! わたしのエンジンかかるまで、階差機関(ディファレンシヤルエンジン)拭っといてー。あと蒸気機関も使うから、薪も割っといてもらわないとー」
「……マジか」
 ソファにとろけるような格好で子どものように駄々をこねているウルに、それを呆然と見つめているノイン。
 そこでぼくはようやく気がついたんだ。いつもマクローリン家にいくときは粗相があるといけないから、ちゃんとコーヒーが効いてウルにエンジンが掛かった状態で訪問をしていた。凛とした天才技師のウルウル=ドリィメリィ特等工女。
 だから、彼はこのだらけモードの彼女を知らなかったのだ。ひとりではなにもできない赤子のようなウルの振る舞いに、ノインは頬をひくひくとさせていた。この状態のウルは厄介だぞ、とぼくはノインにちょっとだけ同情をする。
 ソファで大きな欠伸をしたウルが、ぼくに気がついた。
「お、クストじゃん。おはよ」

 ※

 それから幽霊はもう現れなくなって、ウルがぼくの部屋に押しかけてくることはなくなった。嬉しいやら、ちょっとだけ寂しいやらだ。まぁ、あれ以上ぼくの部屋で眠られても、ぼくの理性が耐えきれなかっただろうから、きっと良いことなのだろう。
 ウルが寝静まってから、ぼくは工房の一階に降りて、ゴミ箱を漁った。丸まっている手紙には、ウルらしい丸文字で実はこう書かれていた。

『今晩も、幽霊が出ました。マクローリン伯爵のところに行ってきます。ちょっとやんちゃ坊主をからかってくる。羊獣人相手に、拙い幻覚魔法なんて十年早い。ご飯用意しといて』

 しばらくして、クロックワイズ・メカニクスにお客さんがやってきた。その少年はお付の者も連れずに、無愛想な顔で、『ブリオッシュを持ってきやった。美味しいやつだ。おやつの時間だから食べたいだろ?』と、相変わらずの上から目線だった。
 『修理依頼ですか?』と尋ねると、顔を赤くして、『ウルとお話をしに来たんだ』と言った。相変わらずぼくの影が薄いことに苦笑しながらも、ドアを引いたぼくはこう言ったんだ。
 
「クロックワイズ・メカニクスへようこそ!」

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