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我流記憶術メモ・前編(ひとはなぜ勉強するのか、方法論にいたるまでの知識欲の形成について)

 これは、私の記憶術についてまとめてみたものである。記憶術とは、「記憶するための技術」をさすが、同時に「理解するための技術」や「思い出すための技術」を含む。なぜなら、それは「記憶しやすくするための技術」であり「記憶を留めておくための技術」だからである。そもそも歴史的に、記憶術の中で最も有名なのは「場所記憶」だろう。しかし、大学の哲学専修での学習を通し、西洋の思想の一端に触れたものとしてはこの「空間記憶」が普遍的であるのかはかなり疑わしいと感じる。私もやってみたが、「関連のない場所になぜ関連のないものを配置しなければならないのか」について苦しんだ。しばらくやってみるうちに、そもそもこれはローマ人の考える空間概念に基づく記憶術であると考えを改めた。つまり、その「空間」性を身体と連続的な次元にまで落とし込んでいなければできない芸当なのだと確信した。

 では、その空間性とはなんだろうか。空間すなわち「場所」は「トポス」とも呼ばれており、「トポス」はトピックに代表されるように「話題」を含む。つまり、西洋の思想では、空間と物事の理解が結びついているのだ。英語でも、thingはかつて「法廷・議会」を指した。議論する場が、いつしか議論する「ものごと」を表すようになったのである。このように、西洋的な空間概念に基づく記憶術、それが「場所記憶」なのだ。

 それでは、日本における「空間」に基づく記憶術とは存在するのだろうか。残念ながら、和歌にその断片をみることはできても、体系だって論じられた文献は管見するところ見当たらない。では、何が記憶に結びつけられているのだろうか。ここからが私の持論だが、それは「嗅覚」と「触覚」である。この文章では、私の実践を後付け的に再構成して、一種の「記憶術」としてまとめてみたいと思う。そのために、まず記憶に関する実践を「インプット」と「アウトプット」に分け、それぞれの実践を紹介していく。個人的な体験を記憶する性質上、その表現がかなり散文的になることをお許しいただきたい。



【インプット(理解することと把持記憶)】について


 ここでは、我々がまず「何のために知識を欲し」「何のために記憶するのか」を、特に勉学に限定して考えてみたいと思う。嫌なことや大して心に留めておく必要がないことも、我々は記憶する。しかしながら、本当に覚えておかねばならないことを我々は忘れてしまう。それはなぜかを「自己形成」の観点から論じたいと思う。学習と自己・人格の形成を結びつける言説は、古くはかつて流行した教養主義に遡り、現代においては発達心理学や教育心理学の言説に散見される。ここでは、私の創作的なストーリーとして、話半分に読んでもらいたい。

バランス感覚としての共通感覚


 「わたし」なるものは、世界と感受性のバランスに成立する、極めてもろく繊細であるがしなやかな関係性である。そのバランス感覚を、ひとは幼い頃から持っているのだと思う。幼児にとっては、この世界を感じ取る行為一つ一つが意味のあることで、感受性の壺と中身を充実させていく行為である。その中身を発酵させ、壺にまで熟した中身の匂いがつくようになるころ、「自我」や「ものごころ」なるものが現れるのだと感じる。このような過程は世界中のすべての子どもにあり、複雑なバランスの中で「じぶん」のいる地点を獲得するのだろう。

理性の比率を獲得


 以上のことを踏まえると「ものごころがつく」とはよく言ったものだが、次に獲得するのは何だろうか。それは「興味のあるものごとと、実際に思うようになるものと、ならないものと、興味のないものと、その他諸々の比率」を獲得することである。子供がぬいぐるみや特定のおもちゃに執着するのは、まず「この世界にあってほしいもの」を獲得したからであり、これを起点に他のものごとと自分の関係が定まって、「比率」を獲得するのだと思う。私の予測では、この「大事なもの」に知的好奇心や、「なぜ」と問うことが含まれるのだと思う。知識の占める比率が高まった頃、「頭が良い」ことは一種の美徳として認識されるようになる。


知識がある自分像を渇望


 「頭が良い」状態はそもそも誰もが目指せると我々は仮定している。その制度化こそ受験である。この潜在的な「頭の良さ」を発揮するために、我々は能動的に勉強することになっている。「ことになっている」というのは、かつての私を含め、学校教育のやり方が必ずしも受け入れられず、受動的な学びになったケースを考慮した表現である。「頭の良さ」は他人から価値を与えられ、また自分に価値を見出すための鍵である。「なりたい自分」と「認められる自分」がうまくすり合わせられた状態は、大人になって自己実現しようと意気込んでも見つけられないことさえある。だからこそ、最もシンプルな努力目標として「頭が良い」や「運動ができる」、そして「優しい」が掲げられるのだろう。そのように考えれば、優しさは自己実現の最終防衛線ではないかだろうか。

 私が本格的に「頭の良さ」を求めたのは、小学校四年生と中学生の段階である。前者は算数の約分を面白いと感じ、「比率」に占める知的好奇心の割合が高められたからである。後者は中学校的な自意識と、同じ制服とジャージによって埋もれかける自意識に対抗する自己顕示欲、そして純粋なエネルギー(若さ)の発散によるものだと思う。中学生の持つエネルギーとは、幼さから若さへの階段を登るエネルギーである。それは身体の面から見ても、精神的な成熟を考慮しても、著しい階段の駆け上がり方である。だからこそ我々は、その中学生のエネルギーや理想主義的側面を保持し、いくつになってもステータスや内面的な競争にうつつを抜かすのである。年収自慢、所有物の自慢、人脈自慢、これらは中学校的な自意識によるものだと私は踏んでいる。しかしながら、これは若さの持つエネルギーへの執着であり、呪縛である。彼らは魔法にかかっているのだ。人生という修学旅行に目を塞がれた者たちとして。


知的持久力の向上(目や耳の脳化?)


 続いて発生するのは、目と耳のもつ理解力、瞬時の理解力と想起・判断する力が高度に発達する事態だ。これは私の体験に基づく変化である。高校生になるにつれて、黒板やプリントが高度な視覚教材となり、耳からのインプットさえもノートの上に視覚的に表現せざるをえなくなった。目と耳それ自体で語句や事項を覚えるようになり、たいして分かってもいないのに聞かれたら反応できる状態が始まった。これを目や耳の「脳化」と表現する。自転車を継続的に漕ぐものが、腿の筋肉の一部を発達させるように、高校の授業の形式に慣れ親しんだものは、目や耳の一部を脳にする。これは一種の狂気である。ここでいう狂気とは、「心や精神とみなすものと、我々の身体の連絡関係が絶たれ、それぞれが目的を持たない動きをとるようになること」である。この狂気の解放こそゲームであり、マンガであり、教師が忌み嫌う生徒の行動の要因をなすものたちである。

価値観の相対化


 そのような狂気的インプットの果てに到達するのが、「何度も繰り返すとで噛み砕かれて理解され定着する事態」である。抽象的なもの議論、人生論、人間論を叩き込まれた学生が到達するのが「価値観を相対化することの重要性を悟る」事態である。これは自分が暗に前提としていた、絶対視していたものの見方を離れることである。そのために言葉を覚え、思想を耕すように教育は設計されている。これは分かりあえるはずのなかった他者を理解し、打ち解け、ゆるし、助け合うための一助となる。


ひとはなぜ勉強するのか、私からの回答


 詰まるところ、勉強にはかりそめにでもゴールがなくてはならない。私が提案するゴールとは、「世界に自分の大切なものを増やしていくこと」である。それは役に立つ知識を増やすことでもあり、選択肢を増やすことでもある。よく「これを学んでなんの役に立つのか」という疑問が議論を呼び、その道の専門家が説教することがある。しかし、その問いにあるのは「役に立つものごとの基準をいま以上に広げていくことに、なんの意味があるのか」である。いま役に立っているもので十分だから、それ以上役に立つか分からないものを貯め込むことになんの意味があるのか、という問いである。この問いは一見まともに見えるが、かなり狭い世界に暮らさなければならなくなる考え方である。経験できない・知らないものを知ること。自分が何を知らないかを知ること。これを把握するだけでもその狭さを抜けて、知らない人と渡り合うために一歩外へ踏み出すことができる。幼児の我々は、世界に色を付けるように、その卓越した感受性をもって、世界を押し広げていく。これと同じように、我々は世界に「意味のある」ものを増やすことで未知の状況に踏み出していくのだ。「意味のあるものごと」とは、役に立つ知識、進路の選択肢、カネになるもの、など各人にとって様々である。世界は意味にあふれているかもしれないが、たった一人のたった一人の人生で、その膨大な意味を掬い取ることは到底できそうにない。だからこそ、我々は知識の取捨選択を行う。その基準が、他の論者も説くように、「教養」と呼ばれるものである。我々は「意味のあるもの・大切なもの」を選び取るフィルターを文化的に持っており、それを継承していくのだ。大学教育ひいては高等教育、生涯教育は、このフィルターを養う側面がある。


(以下、続編のためのメモ書き。)

・語呂合わせ

・頭文字を取る

・その語のGIF(抽象的なものへの肉付け、イメージ)を作る


◎嗅覚記憶と触覚記憶

嗅覚は時間の感覚(香と遺伝子の話)、薫習、手紙に香を焚きしめるように「家や教室、季節、湿度の匂いを感じ取りながら学ぶ・授業を受ける」。深く感じ取る姿勢を、無意識的に呼吸を深くしていくように習得していく。問題文や文章、語句から「嗅ぎ取る」ことで、受け取りつつも立ち上がる記憶が形成される。


触覚は教材の手触り・声に出したときの舌の動きのような語感

主に「動きの全体的イメージを作る」、サムネイルを作るように理解する。(小学生の頃に行っていたこと。)


自分は動く呼吸である(意識の拡散、深さと回数である量に達し、外に出すことが可能に)

自分にとって役に立つ、意味のあるものを見出す世界をつくり、我と世界とその関係性を変える



【アウトプット(演習と創出)】

自分が鏡になること

パッシヴでチル→没入

後付け的に自分を付与する

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