流産から1年。そしていまの妊娠
もう3週間ほど前のことだけど、流産して1年を迎えた。
1年前に書いたこの記事はセカンドオピニオンを聞きに行ったところで終わっているけれど、後日談としては、この記事の数日後に自宅で自然流産となった。
元々かかっていたクリニックからは「1週間後に来てください」とだけを言われていたので、流産することはもちろん妊娠だって初めてだった私は1週間を律儀に待っていたのだ。
そのクリニックでは、出血したら連絡くださいとか、なにかあったらどうしたらいいかということを全く言われていなかったし(上記記事にも書いたけれど、その先生は私からの質問を受け付ける間も無く診察を打ち切った)、まだ5ミリにもなっていない赤ちゃんはお腹で亡くなっていたので、微量の出血が始まっても腹痛が始まっても、私は静かに耐え続けたのだった。
当時知ったことなのだけど、自然流産は「小さなお産」とも呼ばれているそうだ。
自分も経験してみてその意味がとてもよくわかった。
でももっと正確にいえば生理とお産を足して2で割った感じ・・・の生理寄り。
その日、夫は仕事で私は家に一人でいて、だんだん強くなるお腹の痛みに耐えながら、自分の悲しみを父に電話で聞いてもらっていた。だけど途中から話すこともできないくらい痛みが強くなってきて、出血は生理二日目を超える感じになってきて。
体内から出たことがわかった。
まだ5ミリにも満たないまま成長を止めたその命は、まだ赤ちゃんとさえ言えない。医学的にも胎児ではなく「胎芽」でしかないそれは、ただの血の塊だった。
それから数日間、しばらく子宮が収縮する生理痛のような痛みが断続的に続いた。出産であれば後陣痛にあたるのじゃないかと思う。
「その時」がきたのは土曜日の午後だったので、クリニックは閉まっていた。
週明けまで待って月曜日の朝イチに受診した。
内診台にのぼって待たされている間、カーテンの向こうから看護師さんたちが話している声が聞こえてきた。
「排出した胎芽、持ってきてないらしいよ」
「えー。見なきゃわかんないのにね」
もちろん私のことを言われていた。
持ってくる?出てきた胎芽をクリニックに持ってくる?
当時検索魔になっていた私だから、自宅で自然流産となった場合にはジップロックに入れてクリニックに持参し、病理検査にかける場合があるという話は確かに知っていた。
だけどそれはあくまでネット情報。
私は、そのクリニックからは、もし次の受診までに出血が始まったらどうしたらいいのかとか、自宅で出てきたらどうしたらいいのかとか、あるいは手術で体外に出すのかとか、そういう話を1ミリも説明されていないままだったのだ。
自宅でお手洗いで出てきた、赤ちゃんにもなっていない赤ちゃんを、お手洗いから拾ってジップロックに入れて数日間自宅で保管してクリニックに持参するという行為の全てが信じがたかったので、病院から指示されていない以上そんなことはできなかった。
それなのに。
同じ女性で。看護師さんたちが。患者がカーテンの後ろにいる状況で。聞こえる声で。
そんな会話をできるなんて、信じられなかった。
その後、先生がやってきて内診が始まると「子宮は空っぽになっていますね。また1週間後にきてもらって、問題なければ1回生理を見送っただけで次妊娠できますよ。次は多分大丈夫だからね」とだけ言って診察を終えた。
もし同じセリフを内診台から降りた後に服を着て椅子に座って聞かされていたらそれほど嫌な思いはしなかったかもしれない。だけどその先生はいつも、パンツを脱いで股を大きく開いて局部を晒させたままの状態でカーテンから顔を覗かせるだけで話すのだ。そして自分が言いたいことを言い終えるとシャっとカーテンを閉めて、診察は終わり。
このおじさん先生…一度は自分もパンツを脱いで下半身裸で、股をおっ広げて内診台に登ったまま放置されたり、女医さんにタマの裏まで見てもらった方がいいんじゃない。そしたら女性患者がどんな気持ちで産婦人科の診察うけてるのかもう少しわかるんじゃない。
家から一番近くて、具合が悪くても徒歩で行ける距離にあるからそのクリニックに通っていたけれど、この日の受診はトラウマとなった。
今回最初に妊娠がわかった時も、やっぱり家から一番近いという理由でとりあえずはそこに行ったけれど(なにしろ妊娠初期ってものすごく具合が悪くて遠出する余力はないから)、いくたびに何かしら不快なことがあるので、数回通った後は分娩予約した先の総合病院に早々と通院を切り替えた。
もう2度と行きたくないクリニック。
今改めて、1年前にnoteに書いた当時の生の気持ちを読んでみて、記録に残しておいてよかったなと思った。誰かに読んでもらうためではなく、自分自身のために。
一番辛い日に書いた記事。
実際に流産した後よりも、流産の可能性を指摘されてからお腹に死んだ赤ちゃんを留めたままだった数日間の方がずっと辛かったように思う。
だから、流産した後は時間が動き始めたことにほんの少しだけ救われた気がした。当時、たまたま違う理由で休職中だったので、外界と遮断して心身を休める時間が十二分にあったことはかなり幸いした。
その後、少しずつ心身を回復させ、翌月に復職し、お酒も飲むようになった。
年齢的には37歳になる年だったけど、どうしても不妊治療に踏み切る勇気が持てなかった自分は、その後夫と話し合いを重ねながら次の自然妊娠を待った。
というのも、不妊治療に疲弊し傷ついている友人を何人か知っていたからだった。私の性格を考えると、不妊治療が長引けば・・・いやたとえ長引かなかったとしても、そのプロセスの1つ1つのヤキモキは簡単に私の鬱を再発させるだろうと容易に想像できたからだった。
実際に流産を経験してみると、人に言わないだけで流産を経験していた知人は思いのほか多かった。
流産は人生の中でもかなり辛い経験の上位に入ると思うのだけど、意外と巷に溢れているし、その時の辛さはまるでなかったかのように世界は回っているのだということを知った。
でも、経験した人たちはきっとなかったことにしているわけじゃない。ただそれは胸にしまっていて、前を向いて生きているだけなのかもしれない。
実際私も、当時感じた悲しみや辛さは普段は思い出さずに日々を過ごすようになった。だけどなかったことになっているわけじゃない。
今お腹にいる赤ちゃんが来てくれたのは、流産してからわずか5ヶ月のことだった。
新たに妊娠がわかるまでの5ヶ月間は毎月毎月がとても長く感じたけれど、赤ちゃんがこんなに早く帰ってきてくれるなんて本当に幸運だった。
夫と満場一致で、赤ちゃんには同じ名前をつけた。
二人を区別するときは、愛情を込めて少し冗談まじりに、◯◯1号、◯◯2号と呼んでいる。
胎嚢でしか存在確認ができない1号ちゃんのエコーは、一眼レフで取り直したものをプリントアウトして、写真立てに飾っている。
夏に新たに私のお腹にやってきた2号ちゃんは、もう2キロを超えている。
耳も聞こえていると思うし、いつも何やらモゾモゾしているし、時々しゃっくりもしている。
ただの細胞だったものが、命となって細胞分裂を繰り返し、自発的に動く心臓やその他臓器を自ら作り出し、また一方では胎盤を発達させてママのお腹に寄生するシステムを構築して、どんどんすごいスピードで人間に育っていく。
1年前に心拍確認もできないまま1号ちゃんを見送ったからこそ余計に、その生命の奇跡に何度でも驚いてしまう。
顕微鏡でしか見えないくらいミクロだった細胞も、いまやもう立派な人間の赤ちゃん。たとえ早産で今すぐ出てきても、もうちゃんと生きれる赤ちゃん。
すごいなぁ。
よくここまで大きくなったね。
えらいね。すごいね。
1年前は悲しみの淵にいた。
だけど1号ちゃんがいたからこそ、2号ちゃんの存在がある。
1号ちゃんがいたからこそ、2号ちゃんの命がどれだけ尊く奇跡なのかを夫と共にしみじみと実感することができている。
そして2号ちゃんが宿ってくれたからこそ、1号ちゃんを失った悲しみは癒やされた。
あと10日ほどすれば、いよいよ臨月です。