療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.53
今月のバオバヴカフェでは、継続参加者の花沙さん主導で、エヴァ・フェダー・キティの「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」を読み始める。長いタイトルだが、ここに全てが詰まっているのでは、と思わされるスタート内容だった。特に前半の「愛の労働」ということ。
(詳しくは、以下の花沙さんの「雑感」を参照)
参加者の皆さんの気づきや意見も秀逸で、それぞれの立ち位置から、どういう方向に今後、落としどころを見つけていけるか、楽しみなスタートでもあったように思う。
「依存労働」という、はじめて聞くと「ギョッ」とするかもしれない、この言葉から、自分たちが、いかに「自立せよ」と、教育されて進んできたかが、思い出される。
このことは、バオバヴカフェでよく出てくる「「自立」のための「支援」へ注意深くあること」と、重なるところがあり、今後も目が離せない、まなざしの1つである。
※次回(5/31)は、はじめて?夜に、バオバヴカフェ開きます。詳細はFacebookにて。
2024年4月 バオバブカフェ 雑感 (文責:花沙)
今回は、エヴァ・フェダー・キティ著「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(白澤社2023)の第6章「私のやり方じゃなくて、あなたのやり方でやればいい。セーシャ、ゆっくりとね」の内容をシェアしました。
第6章は、とても具体的に著者のご家族について書かれていて、プライベートな内容になっています。著者の娘さん(セーシャ)は、重度の知的障害を伴う方です。一生誰かにケアをしてもらう必要があり、一人で生きてゆくことはできません。セーシャを育てる中で、著者は「喜びの才能」(p285)に溢れたセーシャへの深い愛を育みます。一方で様々な物理的・心理的葛藤を経験して行きます。そのような中、住み込みで彼女のケアを担うことになった介護者ペギーと、セーシャを含め家族全体との繋がりが特別なものになって行くことに気が付きます。
著者の実体験を通した語りを読み進めていくうちに、一般的に自立を前提とされた「平等論」が自明視されていることに、私自身が「しんどさ」を感じてきたんだな、と気づきました。(自立・・人に頼ってはいけない、みたいな。)セーシャへのケアを「家族と家族以外の皆」で担うことの根底にあるもの・・それを「人間の本質」として実感を伴って捉えられた時、全く違う地平の「平等論」が浮かび上がってくるのかな・・と思いました。
*本書は、子どもや高齢者、病気の人、障碍者等を「依存者」とし、彼らへのケアを「依存労働」と呼んでいます。人間である限り、誰もが「依存者」である時期は避けられません。その時期、誰かがそのケアを担わなければなりません。キティは、その事実が覆い隠され、見過ごされながら、平等論が語られていると批判しています。