療育にまつわる「からだ」へのまなざしvol.54
5月のバオバヴカフェ(オンライン)。今回から、新しい本(「ニューロマイノリティ」横道誠・青山誠 編著)を読んでいくための、導入部を、皆でシェア。目次だったり、あとがきだったり…。
バオバヴカフェを次回で50回目を迎えるにあたり、これまでこのカフェで扱ってきたことの総括のような感触をこの本に感じ、選んでみたところ、継続参加の方々は、興味を持って下さったようで、次回からが楽しみでもある。
キティの書物も、引き続き取り組んでいる。私を含めた「みんな」の固定観念のようなものを解きほぐすのに、こうも「言葉」が要るのは何故だろう…丁寧に、丁寧に、なぜそうなるのか、こうなるのか、実体験から導かれる文章に触れていく。まるで凝り固まったからだをほぐすように、丁寧に、丁寧に、さするように…
「ケア」については、まだまだこれから拡がりをもって、自身も含め、話題から課題へ、、話が尽きない予感がある。心して、読んで、考えて、実践できることは何……?か…と思い巡らす夜更けのカフェだった。
※「バオバヴカフェ」は、「療育にまつわるからだへのまなざし」を、書物や資料なども活用しながら、語り学び合う場です。次回は、6/21(金)21時より。
(以下、キティの書物のナビゲートをしてくださっている花沙さんより)
2024年5月 バオバブカフェ 雑感
今回は、エヴァ・フェダー・キティ著「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」(白澤社2023)の第7章「違いのある子どもへの母的思考」の内容を半分までシェアしました。
著者は、重度の知的障害のある娘さん(セーシャ)の育児経験を通して、「社会の全成員に公平な、真の平等に達成するという要求」(p304)を考え、従来とは違うオルタナティブな平等論を展開して行こうとしています。一般的に人は、子ども時代に十分なケアを受けた後、大人になり自立する存在になると考えられています。著者は果敢にその自明性を問おうとします。少し長いですが、印象に残った部分を、引用します。
「自立を強調することは、セーシャを人間以下の存在に戻してしまうのではないかと私は恐れる。ハグするたび、私は彼女の人間性を知る。そして、人間であることは、自立しているかどうかとは関係ない」(p320)
「私たちが障碍児の成長を可能にし促進する母親業を考える時、成長を自立として考えるだけではなく、何らかの能力を伸ばすこととして考えなければならない。」(p320)
*本書は、子どもや高齢者、病気の人、障碍者等を「依存者」とし、彼らへのケアを「依存労働」と呼んでいます。人間である限り、誰もが「依存者」である時期は避けられません。その時期、誰かがそのケアを担わなければなりません。キティは、その事実が覆い隠され、見過ごされながら、平等論が語られていると批判しています。