『ミリは猫の瞳のなかに住んでいる』感想と考察(ネタバレ有)
『ミリは猫の瞳のなかに住んでいる』(以下、本作)は第29回電撃小説大賞にて金賞を受賞した作品だ。この記事では本作の感想と考察をネタバレ全開で述べていく。よって本作を読んでいることを前提とするのであらすじ等は割愛する。特に読んで欲しいのは考察部分なので読了直後の感想は飛ばしてもいい。
1.読了直後の感想
本作を読んだ直後に僕が思ったのは、
テーマや構成、文章どれもが高水準ですごく完成度は高かったけど、飛び抜けていい点がなくてちょっと不完全燃焼
ということだった。
本作のキャッチコピーは『これは「僕」が「君」と別れ、「君」が「僕」と出会うまでの物語だ。(電撃文庫HPより)』であるため、いわゆるボーイミーツガールが主題であると考えられる。物語の始まりから終わりまで、窈一とミリの出会いに焦点があり十分に楽しめるボーイミーツガールであった。しかし、同時に本作はサスペンスやミステリーでもあった。それだけでなく演劇にもフォーカスされていてクリエイターものとしての側面もあったように思う。ここで重要なのは、受け手によって本作のジャンルが変わってしまうということだ。もっと言えば、そうなるくらいそれぞれの比重に差がないということだ。最も強調されるべきはボーイミーツガールで、それを補完するための道具としてサスペンスやミステリーの要素があるべきだ。しかし本作は道具の主張が強すぎて主題が薄れていた。そこが僕としては残念に感じた。
この原因として考えられるのは「いろいろやり過ぎ」或いは「詰め込み過ぎ」なことだと思う。あれもこれもに手を伸ばしたせいでどれが一番大事なのかが分からなくなってしまったのではないだろうか。ただ、これに関しては一概に悪いとは言えない。第15回MF文庫Jライトノベル新人賞《最優秀賞》を受賞した『探偵はもう、死んでいる。』は、正直意味が分からないレベルにいろいろなことに手を伸ばしていたにもかかわらず、素晴らしく高い評価を得ている。それは、ぶっちゃけ「シエスタかわいい」に尽きると思う。異論は認める。他の作品の追随を許さない要素が一つあるというのはそれだけ評価に直結すると僕は思う。本作はどの要素をとっても高順位に位置するが一番にはなれない。それが僕の感じたすべてだったように思う。
余談だが、マスク越しのキスの良さが僕にはわからなくてめちゃくちゃ悔しかった。めちゃくちゃエモさ全開の文章だったのに僕の感受性が受け入れなくて泣いた。あれを理解できるようになりたい。
閑話休題。
その他に抱いた感想としては、コロナという扱いづらい現状をうまく取り入れてシナリオに落とし込んでいたのは素晴らしかった。四季大雅先生は『わたしはあなたの涙になりたい』でも震災を取り入れ、かなり攻めた構成が印象強いがそれが作品により深い味を出していてすごいと思う。
一つだけ、この作品に文句がある。それは作品内の引用の出典を書かないのは如何なものかということである。冒頭の『お気に召すまま』や『雪国』は引用とわかる形ではあるが、中盤ハムレットの話が出たあとの「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」は前後近い場所にハムレットの文字はなく、『』などもないため知らないと引用だと気づけない。有名な訳ではあるが訳者によって解釈の変わる大事な文であるので引用と分かるようにしてほしい。
ライトノベルの主要ターゲットは中高生だと僕は思うのだが、その前提に立てば引用元を「知らないから面白くない」がまずいのは自明。殊に中高生じゃ読んでる本の絶対数が大人に比べて圧倒的に少ないのだから。ならば、「知らなくても楽しめるが、知っているとなお楽しめる」が理想であるはず。では次に考えるのは「知らない人に引用元を知ってもらって文学に興味を持ってもらう」ことだと思う。ここまで来ると流石に全ての読者に求めることはできないが、少なくとも僕は小学生の時分『絶園のテンペスト』をきっかけにシェイクスピアを読んだので、そういう読者は一定数いるはず。そしてそういう読者は出典や引用と明確にわかる形で書いてあるものに手を伸ばすわけであるから、タイトルが書かれたページから数十ページあとに引用の文があると困る。いや、知らないから困らないけど数年後とかに気づいた時に知ってたら読んだのに! とはなると思う。だから出典書いてください電撃文庫さん。
ここまでが読了直後の感想である。本章の最初に述べたように高水準だがずば抜けていい点はない。最初はそう思っていた。だが、あることに気付いて、この評価は覆る。すなわち——
この作品とんでもねぇぞ……
2.考察
先ほど出典を書け! と文句を言った。その憤りを感じたのは本作第三幕15後半の「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」という一文に依る。先にも述べたようにこれは『ハムレット』の一文であり、『ハムレット』の中でも特に重要な意味を持つ。
『ハムレット』は全5幕構成の悲劇である。すさまじく大雑把にあらすじを言うと、王である父が殺されその復讐をするも、最後はみんな死んでしまう話だ。先の一文は物語の中盤で復讐を成し遂げて死ぬか、復讐心を押し殺して生きていくかを悩んでいるときの言葉だ。前者を選べば愛するオフィーリアとは別れなければならず、後者を選べばオフィーリアと生涯を添い遂げられる。少し意味は違ってくるが復讐(信念)か愛かを表すような言葉だと思ってもらっていい。
さて、この一文が登場するのは本作第三幕15後半であるわけだが、この前後で描かれているのは「ミリと窈一のどちらかが死ぬ」という運命に対する姿勢である。その運命を受けて互いに自分の死を選ぼうとする。そこに悩みはない。問題はない。にもかかわらず、先の一文は「悩まない」ことを示す直前に引用されている。
ここで本作第三幕3、ミリが『ハムレット』の舞台に上がったときのことを思い出してほしい。ミリはオフィーリア役として登場する。『ハムレット』においてオフィーリアは復讐を誓うハムレットに拒絶された挙句、父をハムレットに殺されて狂気のなか、川に落ちて死ぬ。これが事故か自殺かは不明だ。第四幕にてオフィーリアは死に、ミリも死ぬ。
また、『ハムレット』第3幕第2場に『愛が運命を導くか、それとも運命が愛を導くか(岩波文庫、野島秀勝訳)』という言葉がある。本作の第三幕でも運命というものに言及している。
本作と『ハムレット』には符合する点があまりにも多い。それに気づいた瞬間、本作の意味合いは大きく変わる。本作第三幕10にて『三界流転』序盤のシーンが登場する。それは砂田鉄と雀が川に身を投げて心中するシーン。「一緒に死のう」と雀(ミリ)が言い、「来世でまた会おう」と砂田鉄(窈一)が応える。ミリをオフィーリアとして、窈一をハムレットとしてとらえたとき、僕は震えた。さらに言えばこれは本作の結末への伏線でもある。短剣を刺してどちらかが死ぬ。であれば当然、死ぬのはオフィーリアである。
それならば、本作第三幕5の後半も大きな意味を持つ。レゴブロックはミリがオフィーリアを演じた時の舞台の再現だと考えられる。ならば、この時の鹿紫雲さんのセリフはその舞台を見て感じたことだろう。そして最後のセリフ。窈一の「狂ってるよ」に対して、彼女は「あなたにもわかったはずです——もしも、柚葉先輩に、”本当に出会って”いたなら」と言う。僕にはこのセリフが「ちゃんとハムレットを演じろ」と言っているように感じる。本当のミリと窈一はまだ出会っていないのだから、それまではハムレットとオフィーリアであれ。そんな風に聞こえてくる。そうとらえれば次節の「ミリは遠く離れていくような気がした」や「ミリに謝らなくちゃ」がとても腑に落ちる。さらに本作冒頭の『お気に召すまま』の引用とも合致する。
全てを語ると気づいた時の興奮を味わえなくなってしまうので、もうあまり多くは語らないが、第三幕6の「誰も生き残らなかった」のあたりとかも最高に震えた。
さて、ここで本作第三幕15後半の「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」の部分にもどろう。本作がハムレットの影響を色濃く受けていることは明らかだろうが、その結末は大きく異なる。『ハムレット』はみんな死ぬから悲劇なのではない。不幸のうちに死ぬから悲劇なのだ。ハムレット自身も復讐は遂げるも最愛のオフィーリアは死に、ほかにも多くの命を奪った。やり切ったが幸せとは到底言えない結末だ。だから悲劇なのである。ならば本作はどうだ。ミリはオフィーリアを演じていたが、窈一を助けるという信念を貫き実現して死んだ。だったらこれはハッピーエンドだ。窈一はミリのハッピーエンドに向けて、『光明遍照』に向けて歩き出した。つまりはそういうお話だ。
3.終わりに
『ミリは猫の瞳のなかに住んでいる』この作品はとても難しい作品だ。『三界流転』にも何か意味がありそうだが僕にはそれを解する知識がなかった。他にも多くの込められた思いを見落としているだろうと思う。いつか、数年後に再びこの作品を読んだとき、新たな気づきがあるのだろう。それがとても楽しみだ。それに、たぶん間違った解釈だってしてるだろう。その間違いに気づくのも、またこの作品の醍醐味なのだろうか。
この記事で述べていることは僕個人の解釈、感想にすぎません。もちろん反論のある方もいるでしょう。それでいいのです。そうやってああだこうだ言うことが文学の楽しみ方の一つだと思います。ですがそこには敬意の気持ちがなくてはなりません。相手の意見を認めたうえで、それでも自分はこう思うのだと伝えることが大事です。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
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