父と私と海と
私の中で一番古い海の記憶は、小学校低学年ごろだろうか、浮き輪にまたがるようにして乗り、波打ち際でぷかぷかしていたら、バランスを崩し顔から砂地にめり込むほどに転げ落ちた。
目に入った砂を海の家の有料の温水シャワーで流すよう母に連れて行かれたが、まあ痛いこと痛いこと。「擦るな、流せ、バカ、ほれ擦るな!」
その日の夜は、顔の穴という穴から、砂が一晩中出続けた。
朝起きたとき、シーツがジャリジャリしていたことを今でもはっきり覚えている。
私の亡くなった父は、海が好きだった。
父は日本三大急流のうちの一つ、山形県の最上川が目の前に流れる小さな村に生まれ、夏はプール代わりに最上川で泳いだそうだ。昔の人はすごい。あんなに流れの早い最上川がプールがわりとは…。今なら絶対にありえない。このご時世、子供だけで近所のため池に釣りに行くことすら禁止なのだ。
…それをもし父が聞いたら、ニコニコしながらこういうだろう。「でも、ため池は意外と危ないがらよ、気つけらんなねんだ。」父はどこまでも心配症だった。自分の経験を通して自然のことをよく知っていたからだと思う。
若い頃に最上川でさんざん遊んだ父は、大人になってから海釣りにハマったそうだ。また、海の生き物が観察しやすい磯場もよく知っていて、私が中学に入ってからは砂浜ばかりではなく磯場に連れて行ってくれるようになった。
私と父は昔からよく二人だけでつるむ仲だったので、思春期だの反抗期だのは横にぶん投げ、二人でよく海に遊びにいったものだ。
深水は2、3メートルくらいの磯場で潜れば底に手が届く。一度海に潜れば、岩礁に隠れる魚やタコを見つけるとこができたり、ヒトデやウミウシが鮮やかだ。
私は元来父譲りのワイルドな性格をしているので、やれシャワーだの、更衣室だのは必要ない。海から上がったらそのまま自然乾燥。塩ふく髪の毛もそのままに夕方からは同じ磯場で釣りをした。日が暮れる前に安全な港などの堤防へ移動して夜釣りをした。
私が高校を卒業したあとは、磯場で朝釣り→パチンコ→負けたらさっさと退散して砂浜で投釣りしながらぼーっとする→堤防に移動して夜釣り、がルーティンとなった。夜中は堤防でタコ釣りをして遊んだりしながらも仮眠し、また朝釣りをしたりなんでこともあった。
元来心配性な父は、常に私を心配し、どんなときも注意を怠らなかった。また、ここではどんな危険が考えられるかということを教えてくれたり、また、安全に遊べる場所を教えてくれた。おかげで私は、心から安心して父と過ごしていたし、本当に楽しかった。また、父からの教えは今でも役にたっている。私は今でも父に教わった場所以外では泳がないし、釣りもしない。
潮の流れや、潮の満ち引きでの足場の変化がわからない場所で遊ぶのは危険だからだ。
父と海で過ごした時間は私にとってかけがえのない、とても素敵な思い出であり学びの時間だった。
時が経ち、私が結婚、出産後には、孫が安全に遊べる砂浜と磯場があると連れて行ってくれて、昔みたいには潜れないと笑いならも、海の生き物を私の子どもたちに取って見せてくれた。
子供たちは大はしゃぎだったが、父もはしゃいでいた。
しかし、まさかそれが、父が元気に海に潜る最後の夏になるとは、あの時は思いもしなかった。
父が病気を患ったあと、一度だけ海に行った。
孫に釣りも教えてあげたい、と。
右半身が完全に麻痺してしまった父は、車を堤防の目の前までつけられる小さな港へ行くように私に指示した。私も小学生の頃から何度も行ったことのある、馴染みの場所だ。
そこなら、杖歩行がやっとの父もなんとかなる。
子供用の小さな竿に、父の指示のもとサビキ釣りの仕掛けをセットする。
海に竿をたらすと、フグや豆アジなどの稚魚がサビキによって来るのが見え、子供はキャッキャと喜んだ。
小さな小さな魚が数匹釣れる。
ふぐは海に戻し、アジなどは後ろで待機している野良猫達にあげた。
父は椅子に座ったまま笑顔をみせていた。
でも、ちょっとだけ、辛そうだった。
その時の父の気持ちは、私にはわかりえない。
だから、そこは勝手な解釈をしないようにしている、今もなお。絶対に、私には、わかりえないのだ、、、。
父と、私と、海と。
海のことを語ろうと思えば父の思い出なくしては語れないし、父のことを語ろうと思えば海の思い出なくしては語れない。
私のことを語ろうと思えば父の思い出なくしては語れないから、この3つはセットなのだ。
来週、父が最後に潜った場所へ、子供たちを連れて遊びに行く。父が教えてくれた場所だ。(トップの写真の場所)
今年もあの場所で、たくさんの思い出を作ろうと思う。
父が教えてくれたたくさんのことを、少しずつ子どもたちに伝えながら。
あとね、
お父さん、愛しているよ。