愛情?差別?
まずはじめに。
これは私の勝手な思いをだらだら書き綴っている散文なだけであり、誰か特定の個人を非難する目的も意識もない。ただただ、私の心の中にあるモヤモヤの言語化を試みているだけなのであしからず。
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「重度心身障害者が好きだからそれに関わる仕事をしたい」と聞いた時に、その言葉にひっかかりのようなものを感じるのは私だけなのだろうか。
「子供が好きだから子供に関わる仕事をしたい」
「高校生が好きだから高校生に関わる仕事をしたい」
「21トリソミーの人が好きだからそれに関わる仕事をしたい」
「お年寄りが好きだからそれに関わる仕事をしたい」
「赤ちゃんが好きだからそれに関わる仕事をしたい」
「洋服が好きだからそれに関わる仕事をしたい」
「メイクが好きだからそれに関わる仕事をしたい」
「運動が好きだからそれに関わる仕事をしたい」
……同じ「好きを仕事にする」にしても、前半にあげたものだけひっかかるのはなぜか。
「その人のその状態しかみていない」から?
「性的なものを感じる」から?
「人をラベリングしている」から?
「差別的」だから?
たとえば、「女子高生が好きだから高校教師してる」って人がいたとして。その人に嫌悪感を覚えてしまうのは、「女子高生」を性的対象として好きであるという印象を持つからではないだろうか。
では、障害のある人のことを好きと言うことに対してはどうか。嫌悪感を感じない人がいるのはなぜなのかを考えてみた。それは、障害のある人は性的対象外であるという認識が皆の心に潜在的にあるから、ようするに、「差別」しているからなのではないか。
私は思った。
「重度心身障害者の人に携わる仕事が好きだから」
というのならすんなりくるのに。
私は苦手なのだ。
認知症の高齢者を「かわいい」と言ったり、知的障害のある方を「かわいい」と言ったり…。慈しんでいるようで見下しているように感じるからだ。自分より弱く保護が必要な人だと思っているから出る言葉なのではないかと感じてしまう。それはその人の「今の状態」がそうなだけである。その一部分だけをみて「かわいい」と表現することに人を敬う気持ちが感じられない。個人個人を指して「あの人は可愛らしい人だ」というならわかるが、「知的障害者は可愛らしい人たちだ」とひとくくりにしていうことにも大きな違和感を感じる。
「かわいい」「好きだ」と思うことは自由。
誰がどう思おうが自由。
でも、もし子供の担任が「女子中学生が可愛くて好きだから、中学教師をしています。」と言った嫌悪感を感じる。(相手の性自認がなんであれ)
また、「自閉症の子が可愛くて好きだから放デイで働いてます」って言ったら嫌悪感を感じる。
この2つの嫌悪感の出どころが、私の中では違うということについて、ぐるぐるぐるぐる考えている春。
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ひさしぶりのnoteの投稿がグタグタなのはあしからず。わたしのメモなので公開するかすら迷うが、私という人間はややこしいし面倒くさいということを、太陽のもとに晒してみようかとふと思ったので、公開としてみる。