私の家族

私が生活してるのは東北地方の小さな町だ。

実家は祖父がとても優秀な人だったらしく、駅へと続く通り沿いに建っている小さな店を営んでいた。当時はお手伝いさんを雇えるほどに繁盛していたという。祖母は、そんな優秀な祖父と結婚し、あちこち旅行に行ったり、趣味の詩吟を楽しんでおり、何不自由なく過ごしたのだろう。

裕福な家庭に生まれた子どもたちは3人。
私の父は末っ子の長男で、姉が2人いた。
父は地元でトップの進学校に進んだが、繊細な人間で登校拒否となる。家庭は裕福だったので、一人旅などをしたのだと聞かされた。今で言う「自分探しの旅」。モラトリアム。最終的に家業を継ぐに至った。(本人は継がされた、と話していたが恐らく引きこもりとなり見かねた祖母が仕向けたのだと思う)

当時は今と違い、結婚しないという選択肢は一般的な家庭に生まれたら存在しなかったのではないだろうか。当たり前のようにお見合いし、私の母と出会う。繊細な父とは正反対な、明るくちょっとお馬鹿な母は、「この人と結婚するかもしれない」と思ったとのことだった。八百屋の娘だった。

結婚してまもなく祖父は亡くなった。頭にデキモノがあり亡くなったと聞いたが、腫瘍だったのかなと想像する。孫を見ずに旅立った祖父。無念であったろうし、彼がもう少し長く生きていたなら、私の家族は崩れなかったのではないだろうかと思うこともある。

家業を継いだ父には商売っ気が全く無い上に、家政婦を雇っていたような家の子どもが掃除などまともにするはずもなく、お店は次第に荒んでいく。母は初めお店を維持するのに頑張っていたのだと思う。
近くにあるスーパーが同業商品を販売し始め、地価の高い駅チカ物件から郊外型大型店舗が出来始めるとともに、父の店は全くもって太刀打ちできなくなった。きっと父に商才があったのなら何かしらやりようがあったのかもしれないが、惰性で継いだ人間にそんな気力は無かったのだろう。

当然そんな両親に計画性など存在するはずもなく、思うままに子作りし、私達兄弟(4人)は有り難くこの世に誕生することとなる。
計画なく産まれた子どもたちを食わせるために母はパートに奔走する。日中は家の店番(一応父も居たが)。夜は近所の飲食店でパートをするようになる。祖母に稼ぎに行くように言われたと話していたことがあった。

父は親(祖父母)にされた事を繰り返すことしか出来なかったのだろう。「漫画は馬鹿になるから読むな」と変なところに厳しく、私達子どもを連れ回す際も自分の思い通りにならないと怒り、途中で引き返してきたりするような癇癪持ちであった。夕食時も何か気に障ると壁にコップを投げつけたりする人だった。何故かわからないが、自分と弟に対しては、末っ子期間もあり、そういった怒りをぶつけることは少なかったように思う。兄2人はそういった父の癇癪をたっぷり浴びて育った。そのことに関しては同情する。

そんな環境下で兄2人が真っ直ぐ育つはずもなかった。

長兄は高校卒業を機に、少しずつ壊れ始めた。親の過保護もあったのかもしれない。隣県の都会で、通える距離を一人暮らしさせ予備校に通わせた。この1年で兄は家にお金があると考えたのかもしれない。
元々地頭が悪くなかった長兄は、浪人を1年で終え、首都圏の国立大学に入学。大学生活で授業料を別のものに使い込み始めたり、当時通信量「何GBまで」なんて概念のなかった携帯で高額なパケット料金を請求され放置するなど、お金のトラブルが後を絶たなくなる。今思うと何かしらの発達障害があったのかもしれない、と冷静に思えるが、当時両親は女に狂ってしまった、とか他の理由を考えていたようだった。
長兄はその後も帰郷してから金銭トラブルを続け、無免許運転(不携帯ではなく本当の無免許)で罰則金を踏み倒そう(親が払ってくれると思っていたのだろう)とした際に、検察庁に首根っこを掴み(私が)連れて行ったりして、当時の勤め先の給与を全額差し押さえたりした後に地元から行方をくらました。

次兄は運動に優れていたところがあったため、高校はスポーツ推薦で入学した。中学時代にヤンチャをしていた頃があり、その事が尾を引き、彼の人生は崩れていく。
一緒にヤンチャしていた一人が、そのまま不良街道を真っ直ぐ突き進んだらしく、何がきっかけかわからないが兄も目をつけられるようになってしまう。何度かカツアゲをされるようになり、兄は家のあらゆるお金に手を付け始める。私の溜め込んだお年玉も兄に盗まれてしまう。その頃から私は学習机に鍵をかけ、その鍵をいかに隠し、見つけられた際には、いかに兄の良心を痛める言葉を残しておくか考えるようになった。用心深くなったのは家庭環境のおかげだろう。笑えない。
度重なるカツアゲに耐えられなくなった兄は遂に警察に駆け込んだ。ここまで放置した両親の責任は重い。兄はその後、家の前に暴走族が集まる光景を目にし、報復への恐怖に耐えきれず家出・逃亡する。(当時は暴走族は珍しくなかったので、兄をビビらすために集まったのだとは思いもしなかった)
初めは県内の住み込みバイトをしていたようだが、バイト先の責任者と金銭トラブルになり、実家へ戻る。トラブルの詳細は忘れたが、「自分がもらえるはずだった給与をよこせ」と迫ったのだとか。その責任者と祖母は知人だったらしく、祖母がそのお金を返済。兄は点々とした後に、引きこもるようになる。どのくらい経ってかは忘れたが、兄はフリーターでバイトを点々とする。若かったし、遊ぶのにお金は必要だったようで、当時はアルバイトはしていた。面倒見のいい性格だったこともあり、気の優しい女性を捕まえては長くお付き合いをしているようだった。
お金に関するトラブルはこの後も続き、現在40半ばにして無職で実家に居着いている。

弟もいろいろあったが、今は一生懸命生きているようなので個人を特定できそうな内容は避ける。現在は地元にはいない。

私は紆余曲折あったが、周回遅れでなんとか田舎町にしては安定した職に就いている。

祖母と父のことを書き忘れていた。

祖母は晩年、認知症を発症。一緒に住んでいなかった叔母に理解されず(当時は痴呆症と言われ、今ほど世間的に認知された疾患ではなかった)、「ご飯を食べさせてもらえない」といった祖母の言葉に怒り、母は叔母姉妹の目の敵となった。そんな中、祖母は脳出血で突然死した。

父は、父なりに母親の理解者だった。自分の血の繋がった家族より、母を選んだ点においては人としてまともな行動を取ったように思う。祖母の認知症から見られる様々な言動をそのまま信じた叔母たちに恨まれる母のために、叔母たちとの関係性を一方的に断ったのであった(このことも後に災いする)。そもそも育ちが違う母を叔母たちはよく思っていなかったようだが。
それはさておき、通夜に訪れた叔母を、父は家に入れようとしなかった。親戚の説得で焼香を上げたが、叔母たちはすぐに引き返す事となる。叔母たちからしたら、親の死をきちんと悲しむことが出来ず不幸だったように思う。叔母目線の物語は、きっと父が母のせいで変になってしまったと思えたのだろう。

祖母の財産分与はこの時点(私が中学生だった頃)で止まってしまう。

父は商売に必要な免許を書き換える際、準備を怠り免許を失ってしまった。
唯一の居場所であり、役割であった店を畳むこととなる(実質生活費のマイナスにしかなってはいなかったが)。
その後は廃人のようであった。必死に子どもを食べさせてきて、姑いびり、義姉いびりに耐えた母からは恨むに恨まれた。父なりに母を守ろうと、血縁関係を絶ち悪化させたのだが、そのことも虚しく父を孤立させた。
呪われたような実家に嫌気が差し、私はその頃家を出ていたが、悩む母にお願いされ、父になんでも良いから仕事をしてくれと説得しに行ったこともあった。今までの父の生活からして、そんなことは出来なかっただろうと今では冷静に思える。そんなやり取りが続く中、父は急な心停止で他界した。60代で、現代では早い死だった。

非科学的なのはわかってはいるが、見かねた祖父と祖母が連れて行ったのだと思った。父は苦しむ晩年から解放されたのだと思った。

それと同時に、本当にこんな人生しか選べなかったのか?と、父の棺に心の中で問いかけた。涙が出た。父の死が悲しかったわけではない。悔しかった。自分の父が晩年、廃人のようになり亡くなったことが。孤独のまま人生を終えたことが。普通の家族のように笑って過ごせなかったことが。
そして、親孝行をろくに出来ず、衝突して終わった自分に対しても悔いた。

私の家族は崩壊していた。

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