映画『AKIRA』に込められた天からのメッセージとは?! スピリチュアル・カウンセラーの視点で読み解きます!②
【これから目の当たりする人類の戦い~もはや戦場は心の中へと移された?~】
大いなる「力」には、大いなる「責任」がともないます。
しかし、人はそれを知ってか知らずか、大きな力を持ちたいと願い、そして万が一でも持てた時には、何をしてしまうのか…?
そして、してしまったことが何を生んでしまうのかにも気づけず、それは今日(こんにち)にまで至っているのではないかと思います。
この作品には「アキラ」をめぐる老若男女が描かれています。
軍人、研究者、いじめられっ子の青年(鉄雄)、祈祷師、妄信する信者、反政府軍……などなど。そして、「アキラ」を扱いきれなかった人たちの心の中に根差していた共通するものがあり、それがこの作品の大きなテーマかと思います。
それが「劣等感(コンプレックス)」かと思います。
劣等感の克服は、人類が人類の存亡をかけた大いなるテーマであり、その鍵だと思うのです。
そして今、劣等感を克服しておかなければ、人は必ず「自己顕示欲」と「所有欲」にさいなまれます。
(もっと大きく、もっとたくさん…という気持ちですね)
そして、作中ではそれぞれの大人も、少年少女もこの劣等感からくる心的情動につき動かされ「アキラ」という大きな「力」を持ちさえすればすべてが叶うと、まるで「核」をめぐる人類の動きのように描かれていきます。
この「自己顕示欲」や「所有欲」は、それが満たされないと「攻撃心」を持つようになります。
たとえ善人に見えたとしても、この攻撃心があるとただ「極」が変わるだけで、「どっちが正義なの?悪なの?」とその着地が分からなくなってしまうことがあります。
正義も悪も、ただの極であり、自分の中にある劣等感からの「攻撃心」を克服しておかないと、シチュエーションによって善にも悪にもなるのです。
(関係文献として『罪と罰』ドフトエフスキーや、漫画『デスノート』、映画『ハプニング』ナイトシャマラン監督などは、同様の問題提起かと個人的に思っています。)
この「劣等感(コンプレックス)」からくる「攻撃心」を、人類は乗り越える事ができるのか?ということです。
そして、その攻撃心のコア(核)とは、一体何なのか?
そのヒントについて、映画の終盤に2番目の主要な人物「鉄雄(てつお)」がコントロール不能になってしまう場面に描かれていきます。
鉄雄の身体が肥大化し、コントロール不能になり、その肉体は不気味な「赤ちゃん」の形をして描かれています。
身体が肥大化して形作られた気味の悪い「赤ちゃん」が、いろいろなものを破壊し、鉄雄が唯一心を開いた「カオリ」さえもつぶし殺してしまい、やがては自分も自滅してしまいます。
そのグロテスクさに目が奪われ、茫然とする…というのがこの作品の凄味かもしれません。
しかし、スピリチュアル・カウンセラーとしては、その「赤ちゃん」にこそ「なぜ鉄雄の暴走があったのか」がメッセージされていると読み解いていきます。
【なぜ、鉄雄は暴走したのか?】
人はたいてい、成長の過程において劣等感を植え込まれてしまいます。
この作品でも鉄雄がいじめられっ子で、友達だった「金田」にさえも下に扱われていたことにコンプレックスを抱いていました。
そしてその劣等感は自分の内的な問題ではなく、馬鹿にするヤツが悪い、否定するやつがウザイと、「外に原因がある」と考えるようになります。
そうなると、大いなる力を持った時、人はどうしてしまうのか?また、力を持ちたい理由がそうした外的要因の排除へと向かうのは自明の理なのかもしれません。
実はこのポイントこそ、人類が地球で生まれ変わりをしているところであり、地球はまだ三次元の物質世界だからこそここで学ぼうとしている理由なのです。
「私たちは物質ではない。霊的な存在である」ということを腑に落とすために、そして「思うこと(思考)こそが現実を創っているだけ」である真実、そして「心を見つめその思考のトリックに気づき、自分は霊的(スピリット)の存在であることへ思考をシフトできるか?」に取り組んでいるのです。
では、その攻撃性を秘めた劣等感のコア(核)、その正体とは一体何なのでしょうか?
【あの肉塊の赤ちゃんは何か?】
鉄雄のコントロール不能になった、赤ちゃんを型どった肉のかたまり…。
あれは「インナーチャイルド」の象徴ではないか?とみています。
「インナーチャイルド」とは、過去に傷ついた、癒されてない、赤ちゃんのような思いのことを指します。
自分の中の「インナーチャイルド」こそ見つめ、寄り添い、話を聞いてあげ、一人じゃないよと語りかけ、一緒に歩んでいくことが、インナーチャイルドの癒しかたです。
(でも、一人取り組むのは難しいので、心理カウンセラーや、私達のようなスピリチュアル・カウンセラーがいます)
インナーチャイルドは無視され続け、孤独に陥っています。
だから「自分はいらない存在なんだ」とか「ちっぽけで、誰からも必要とされていないんだ」と信じ、すねています。
「すねている」というと聞こえは可愛らしいのですが、そういう可愛らしい存在…ではありません。鉄雄のあの不気味な肉体を見れば、分かってもらえるかと思います。
始めはただすねている思いが、放っておかれ、誰に気にされることもなく、自分からでさえも「面倒なヤツだ」と心から切り離され、凝り固まり、そこから恨みの気持ちが募ってしまうのです。
これは、自分の心の一部でありながらも、自分から疎まれているので、その恨みとして自分の人生なのにおとしめようとしてきます。
よくいう「幸せ恐怖症」とか「不幸癖」などは、その思考が引き寄せてくるものです。
【癒されていないインナーチャイルドが肥大化する理由】
また、これはちょっとスピリチュアルな話ですが、こうした放ったかされた「インナーチャイルド」は、世の中に漂っている、親から愛されず、捨てられ、飢え死にしてしまったような霊「餓鬼(ガキ)霊」と結託してしまう時があります。
「餓鬼霊」は怨念の一種ですので、想念は凝り固まっていて厄介です。
そして、「餓鬼霊」の信念は「満たされないこと」です。(飢餓(きが)、飢え死で亡くなっていますので、満たされるという状態「そのもの」が分からないのです)
ですので、「餓鬼霊」と心のインチャとの波長が合い、取り込んでしまうとどんな人からの愛も「これは違う!」「そうじゃない!」を繰り返し、世にいう「こじらせ」てしまうのです。
人はそんな人を相手にできなくなってしまうので、周りに人がいなくなり、また満たされず、だから凝り固まり、余計に周りの人がいなくなり、もっとこじれ…の悪循環になります。
こじらせているとは、「餓鬼(ガキ)」(子供のような思い)が昇華できていない状態を指すのです。その想いが段々と「自分を認めない周りが悪いんだ」となり、「自己顕示欲」が高まってしまうです。
作中の「鉄雄」が堕ちていく様子は、それが丁寧に描かれていると思います。
普通の人はあそこまでいかないにせよ、自分自身がほったらかしてしまった「インナーチャイルド」は後に、周囲とそして自分さえも破滅へと導きかねないのです。
それは、人類にとってもう看過できないものなのだとこの作品では警鐘していると思います。
「そんな事をしてしまえば、どうなってしまうのか…?」
こうした他を思いやる気持ちを育ませるために…。
今、自分が置いてきてしまった「インナーチャイルド」と再び出会い、向き合う時間が持たされているように思えてなりません。
【「ボク テツオ…」の意味することは?】
だからこそ、人類を破壊するのは「アキラ」という「力」ではなく、「アキラ」に魅入られた「人の心の中にこそある」と問うていると思います。
映画の最後に「ボク テツオ…」で終わっているのも、たとえ力が「アキラ」から離れたとしても、また誰かの中に宿り、その力に人類がまた出合った時、それをどう取り扱うのかはまだ問われているよ、と含みが持たされたのではないかと思います。
その先の答えは、映画やフィクションの中にあるのではなく、リアルの世界の私たちの中にある、とメッセージしているのではないかと思います。
次回は…
映画『AKIRA』に込められた天からのメッセージとは?!
スピリチュアル・カウンセラーの視点で読み解きます!③
【なぜ題名が「AKIRA(アキラ)」なのか?】
【インナーチャイルドのもっと深みへ】
【この映画が今、人類に問いかけていることは?】
【癒すとはどういうことか?】