【風の時代の本当の怖さとは一体何か? ?】天は自分の光に気付けと問う。その時自分はどう思うのか?が本当の怖さへ
否応ない魂のステージアップが全人類に降り注がれています。
そこで揺らされてしまい、本当に苦しい思いをしている人たちがたくさんいて、
「何をどうすればいいのだろうか?」
「何が解決の糸口なのだろうか?」
と右往左往だけしてしまう…。
そんなことが色々降り注いでいます。
コロナ禍は当然そうですし、ここ最近の各国で起きている天変地異…。ハリケーンや洪水に地震、自爆テロなど…コロナを逃れたとしても逃げ場のないような、そんな気さえしてしまいます。
そして、例えコロナや災害を逃れたとしても、そのニュースや時勢で受けるメンタルへの打撃などにさらされて、二次被害的な苦痛に襲われ、違う事象が起きてしまう…。
一体、人類は何を見つめろと言われているのか?
一体これは何が起きているのか?
こここそ、マスターに聞いてみたいと思いました。
こうした対話を発信することが、私ができる「哀悼の意」なのではないかと思い、アップさせていただければと思っております。
(「哀悼」については、後のマスターとの対話ででてきます)
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私>マスター!マスター!(><;)これは…。
これは…、もう~どう思えばいいのか?神も仏もないのか!?と思うようなことがいろいろ起きています。
でも、起きているんです…。何かが起きているんです!
一瞬でたくさんの方が犠牲になってしまったことが起きました。
また、本当に素晴らしい活躍をされていて、まさに光の中心にいた方が亡くなられてしまいました…。
これは、どう見ればいいのか?そこへの対策や思い方を教えてください。
悔やんでも、悔やみきれないような気がしてます…。
マスター>>そなたがそう思うのも当然だ。
しかし、すべては実際のことだ。
いいかね。
そこにはリアルが存在する。
【リアルと非リアルの交錯】
~光は残酷にも自分を照らし出す
それは皆にとって、本当の、実際の、ことだ。
そして、本人にとってもそれは「リアル」なのであろうが、しかしリアルだと思うことができれば、リアルな世界で「非リアルのような物事」を起こそうとか、それに引きずられるようなことなどは起こらないのであろう。
さて、時に「光」とは残酷だ。
そして、その光がましてや自分自身だとすれば、その人間にとって、逃げ場はなく、どこへ隠れようとしても自分自身からは隠れることなどできない。
いいかね。
そなたたちは、決して自分自身からは逃れることなどできないのだよ。
であれば、自分とどこまでも向き合い、自分を見つめなければならない。
もし仮に、一瞬でも他の誰かになれたとしても、その夢が覚めてしまえば、また自分と向き合わざるを得ない。
そして、そのかりそめの姿の方がもし、大勢の人から愛され、輝かしければ輝かしいほど、素の自分自身への認識の落差に、心を痛めるのかもしれない。
【輝かしい光とは自分自身】
それにどう向き合うのか?
自分は一体どれほどの人間なのか?と言われた時、光を光として背負うことの難しさに、光が強ければ強いほど、人間であるそなたたちは右往左往するのだよ。
この地球は美しい。それは、はたから(宇宙から)見たらよく分かる。
しかし、宇宙からこの地球をみることなど普通はできない。
(今、できている人間もいるな。それは大変貴重なことだ)
幸運にも宇宙から地球を眺めた人間たちは幸いだ。
「地球に帰ったら、もう二度と自分をつまらない存在だなんて絶対思うものか!こんな素晴らしい星に生まれたのだから!」
と誓えることであろう。
そして、光に対して「その光を楽しめるのか?」ということと、「その光を重い荷物だと思うのか?」では、生きる人生の道が違ってしまう。
こうして「それをどうとらえるのか?」が、その人間の人生を大きく左右してしまう。
さて、光とはその通り「純粋で、美しく、清くもあり、崇高なもの」である。
人類はそれが自分たちだと理解するためにこの地球へと生まれてきている。
そなたたち自身も、そしてそなたたちが生まれたこの星も、「光の存在」であり、「純粋で、美しく、清くもあり、崇高なもの」なのだよ。
しかし、そなたたちはどう自分のことを見ているかね?
どう気づこうとしているかね?
自分に向き合い、自分を愛し、自分とその故郷(ふるさと)のこの地球を愛そうと、大事にしようと、思ってくれているであろうか?
それには、自己愛がなければ無理なのだよ。
「愛そう!」とできるためには、まず自己愛がないとならないのだよ。
人類の個々人にまかせていたら、自己愛ができるまで、ずっと、ずっと、時間を浪費する者もでてくるであろう。
何もせず、傍観して日々を暮らす者も出てくるであろう。
では、大いなる光の存在である「天の意志」はそれを許すであろうか?
であるから、時に天はこう人類に指し示す。
「純粋で、美しく、清くもあり、崇高なものでありなさい。あなた方はそうでしょう?」
と指し示されることは、人類にとって、つらく、苦しいときがあるだよ。
できれば、自分が「純粋で、美しく、清くもあり、崇高なもの」であると気づきたくない。
このまま、「ダメで、汚(よご)れていて、醜い、低俗な自分」でいられたら、どんなにいいだろう…と、そこに安息の地を求めてしまう。
もう光だといっているのに、光になろうとして苦しくなっている。
だから、ダメであることが、楽で居心地が良いと勘違いしてしまう。
それは、自己愛ではなく、誰かの愛を欲し、誰かから愛されることから逃れられず、自分がまず自分を掛け値なしで愛そう!と決意し、そうするのではなく、愛を欲し続けたまま彷徨い続けてしまうとしたら、どうなってしまうであろうか?
そしてその自分の光の方が、「欲しいと思っていた人間たち」よりも、数百倍も、いや数千倍もの輝きを持っているのに、その人からもらうまでは、その輝きをねじ伏せねばならない、そうでなければ認めてもらえないとしたら、どうであろうか?
ダメであれば、認め、ゆるされ、愛される…と間違った認識をしていたら、どうなってしまうだろうか?
時に、光とは残酷にも映るのだよ。
【目覚めるとき、選択が訪れる】
「自分の光の強さに、もう目覚めなさい。もう、そのやり方ではだめなのですよ」
と、天からの許されない否応ないものが、その人間を襲ってしまう。
そして、超えてはならないものを超えてしまうくらいなら、超えない方がいいとさえ思ってしまうのだよ。
その人間が「純粋で、美しく、清くもあり、崇高なもの」で、その人間への愛が深ければ深いほど、自分を度外視しても、愛がもらえない現実を逃れようとしてしまう。
もう、逃れるだけの方法では、ダメな時勢まで来てしまっているのだよ。
分かるであろうか。
であれば、常に、そしてずっと私は言い続けている。
自分の光に気づきなさい。
自分の素晴らしさに気づきなさい。
自分を否定し、自分を傷つけた人間の方が素晴らしいから、否定してくるのだと思うことはやめなさい。
皆がいい人だというから、それが正しいと思う事を止めなさい。
それは誰であっても、自分が違うと思えば、それでいい。
そして、その自分を愛せた時、愛の器の違いに気付く事が必ずできる。
それは、自分の愛の器が広がったからだ。
自分は素晴らしいと、掛け値ない、ありのままの自分を
「そのままでいい。超えてもいい。越してもいい。世界へ羽ばたいて、そこで評価されてもいい」
と認め許せたとき、自分も掛け値なく、その人をその人の器のまま、
「それでいいよ」
と愛することができるように「なれる」。
自分がきちんと超えて引導を渡せたとき、その時に相手を相手のままゆるし、認めることができるだよ。
「そのままでいいんだよ」とな。
逆に相手に言ってあげることができるようになれる。
しかし、その自分の器と、その人間の器のレベルが、誰にも分からないレベルのものであれば、内実は誰にも理解されず、その人間は孤独へとおちいってしまうであろう。
そして、「純粋で、美しく、清くもあり、崇高」な者たちは、はかない気持ちにさらされてしまう。
それは、誰も悪くはないからだ。
自分の光の強さも、欲しい相手の器の狭さも、それは悪さではないからなのだ。
だから、はかない気持ちになってしまうのだよ。
認めるしか、方法がないからな。
それこそ、それは逃げ場がないからな。
さて、光とは時に残酷だ。
自分が「それでいい」とどれだけ思っていたとしても、それが真実でないならば、必ず「真実を見つめなさい」と問われれるであろう。
それが、厳しくも光というものだからだ。
そして、その天の意志に向き合えなければ、心の悪魔に魅入られてしまうのだよ。
分かるであろうか。
その人間が負えるだけの光がちょうどよく来ればいいのに…と思うかもしれないが、それはその人間のチャレンジであるから、私たちは何も言うことはできないであろう。
さて今、人類には「光へと立ち戻りなさい」と天からの指し示しがきている。
では、そなたたちは一体どうしておけばいいのか?であろうか。
それには、「目の前の厳しくともツラい、その現実を愛しなさい」というであろう。
それは、そなたたちを成長させようと来ていくれているものだ。
忌み嫌うのではなく、「ありがとう、私のために…」とそう思い、それを愛し、優しく抱きしめていくのだよ。
「そんなの、絶対いやだ!」と思うかもしれない。
しかし、それでもその現実は皆に何かを問おうとしている。
どれだけ自分を認められないのかに「現実問題」はまったく関係なく、ただ心のあり様(よう)にかかわって来る。
どれだけ心と向き合い、どれだけ心を見つめていけるのか?
この一点しか方法はない。
大いなる器には、大いなる指し示しがくるし、大いなる指し示しを乗り越えなければならない。
それには、一般的な解決方法だけでは、まかなえない時もある。
それを知るために、心を学び、魂を学び、人の話に耳を傾け、自己愛について、練習を重ねておきなさい。
そして、幼少期からの心と向き合い、癒し、寄り添ってあげる時間を絶対設けなさい。
今回のコロナ禍では、今までの個々人の人間たちのあり様が問われている。
身体の話を聞けているか?
無理して、ストレスをためていないか?
自分の生き方に向き合っているか?とな。
【免疫が奪われると人は生きられなくなる?】
~最大のストレスの原因とは?
自分の生き方がそぐわない時に、人は一番のストレスを抱える。
自分の心を守っているか?
愛せているか?
愛するやり方を知ろうと努力しているか?
それに向き合っているか?
そんなことを、天からは
「今後の光の地球の波動レベルに合わせなさい。大丈夫です。あなた方はそのような存在ですよ」
と問うてきているのだよ。
まだまだ私が伝えたいことは、山のようにある。
だから、こうしたアセンションにめがけて17年も前から、現れて、メッセージしている。
今日はここまでにしよう。
すべての事象に哀悼の気持ちががあるならば、残された者たちは
真剣に、
必死に、
一生懸命自己愛を学んでいきなさい。
それが、一番の哀悼の意であるからな。
いいかね、分かったかね。
【自己愛に向き合う】
私>なるほど…。そうですか…。
う~ん、私も一生懸命自分に向き合います!
「こんなこと発信しても何の役に立つんだろうか。蛇足じゃないか…」とか、ちょっと思ってしまったのですが、も~!そう思うことは止めて、必死に発信します!(しました!)
それが、私の「自己愛に向き合う」ということだと思います。
そして、皆さんもきっと自分の光があって、でも認めたくないような気持ちがして、右往左往しているかもしれません。
でも、自分の素晴らしさに向き合った時、その光は皆さんを絶対裏切りません!
やり方が分からなければ、私たちのようなことをしている人たちがいます!
独りじゃありませんので。
是非、お役に立てる日が来ることを心から願っています。
これからも「スピリチュアル・カウンセラー」の地位向上と、良質なカウンセラー育成のためにまい進していきたい思います!是非、ご賛同していただけると嬉しいです♪