『夜に駆ける』はなぜこんなに流行るのか? 原作『タナトスの誘惑』の読後、気分が晴れるのはなぜか?! スピリチュアルカウンセラーの視点で読み解きます!①
【「タナトス」は本当に「僕」の手を引けたのか?】
「♪沈むように 溶けてゆくように~」
娘が気分よさそう~にある歌を歌い上げていました。「ん?その歌は?」と聞いたところ娘はこう答えました
「『夜に駆ける』だよ」
…あぁ~!!
それはまさに、最近よくYou Tubeに上がっている「きっと今、流行っているんだろうな~」と思いつつも、開けられないでいたのはこの歌だったのかー!と、娘の酔いしれた歌い方にさらに耳を澄ましました。
しかし歌詞を聞いていくと、「ん?自殺願望の歌?!」と思うような内容であり、それにもかかわらず中学生の娘が気持ちよさそう~に歌っていることに、多少の違和感を覚えたのです。
そして、私も恐る恐る一緒に口ずさんでみました。
すると、どうでしょう~!!
なんと、まぁハマること、ハマること!すっかり、この歌の虜になってしまいました。
そして、あれよあれよという間にこの歌は流行りだして、特集のTVまでやっていました。どうやら、この歌には元ネタの小説があるらしく、そこから映像、歌のクリエーターさんたちが手掛け、この大ヒットにつながったとのことなのです。
そこで元ネタの小説を読んでみました。
すると、なぜこの歌が流行ることができたのかということをスピリチュアルカウンセラーの視点で読み解きたい!という気持ちに駆られました。
そこにはスピリチュアル的には根源的ともいえる世界観や、今メッセージとして流行ることのできる意味があることに気が付きました。
それでは、この小説には一体何が描かれているのか?一緒に読み解いていきましょう!
【度肝を抜かれた小説の仕掛けは映画『シックスセンス』を彷彿】
これを読み解くにあたり元ネタである『タナトスの誘惑』は避けては通れないかと思います。簡単に読むことができますので、ぜひ一度読んでみていただいてから、解説していきたいと思います。
(元ネタはR15指定です。十分ご注意ください)
※以下、映画『シックスセンス』も併せてネタバレあり
さてこの作品を読んだとき、私は映画『シックスセンス』を観た時と同じ感覚に襲われ、度肝を抜かれました。歌の世界観だけですと登場人物は二人だとばっかり思っていました。
しかし、よく読んでいくと実は登場人物は一人だったことにゾーっとしました。
さて、映画『シックスセンス』の内容とは、幽霊が見えてしまう主人公の少年の悩みを心に傷を負った精神科医に扮するブルースウィルスが聞き続け、その少年と一緒に幽霊たちの思い残しを解決しようとします。そして最後の最後に、実はブルースウィルスも亡くなっていて、幽霊だったということにひっくり返ったことを思い出しました。(このどんでん返しが当時すごく流行りました!)
それと同等のショックを受けました。
これは、なかなかです。
そうです。『タナトスの誘惑』とは、主人公の少年が自殺をとめようとしていた恋焦がれる少女の正体が、実は少年の心の中にある「タナトス」の化身(死神さん)であり、やっとその少女の思いが遂げられ一緒に「夜に駆けだした」というお話でした。
(作中にもありますし、あとで詳しく触れますが「タナトス」とは死への欲求であり、対義語として「エロス」があります。これは生への欲求だそうです。人間は生まれながらにこの生と死への本能(衝動)を持つとされています。精神科医フロイトの見解)
歌詞の中では、少女を止めようとしている姿しか描かれていないんですもの~!
そして「♪夜に駆けだしてく」で終わるんですもの~。「心中」をポップに描いていると思うじゃないですか~!
そう思って小説を読んだので、度肝を抜かれたわけです。
そんなこんなでプルプルしていた私ですが、な~んか読み越し(喉越しみたいなものですね)が、スッキリしているというか、爽快感さえ覚えたのです。そして、そう感想に書かれている方もいました。
…これはおかしい。
もし「タナトス」(死への欲求)が描かれているとしたら、こんな読み越しになるわけがない。もっと、どんよりした「死にたくなるような気分」に襲われるはずです。
その違和感を感じた私は、もっと詳しく読み解いていこうと思ったのです。
そこから、「タナトス」とは何か?そしてなぜ爽快感さえ覚えるのかの、独自の視点から見えてきたものがありました。それを解説していきたいと思います。
【タナトスとエロス?それは表裏一体同じもの】
まず「タナトス」とは下記にもある通りに本能的な「死へ欲求」であり、その対義語が「エロス」であり本能的な「生への欲求」だそうです。
【タナトス】フロイトの用語。攻撃、自己破壊に向かう死の本能をさす(Weblio国語辞典より)
【エロス】フロイトの用語。性本能・自己保存本能を含む生の本能をさす。(Weblio国語辞典より)
これは相反する、真逆のように感じるかと思いますが、実はスピリチュアル的にみれば、同じものであるといえます。
どういうことかと言えば、「死にたい」は「生きたい」の裏返しだからです。
この世の中で「生きる」とはなんなのか?
「存在する」とはどういうことなのか?
と、それがよく分からなくなってしまう時ってあると思います。
つまり、「ある」ということが「ある状態の中」では分からなくなる瞬間があるのです。
(ん~!みなさん~、ついてきてくれてますか?!)
だから「ない」状態を体感することで「ある」(もしくは「あった」んだ)を感じられることがあります。
失ってから、それがあった喜びや感謝を感じられる時ってありますよね?
それは失くした時の方がより鮮烈だったりしますよね。
物もそう、人だってそうです。そして、時に自分自身だってそうかもしれません。
だから、「死にたい」とは、失くそうとすることで「ある」を強く感じようとする情動なのかと思います。それは、より強く生きたいと願っているともいえることなのです。
「生きたい!!」という気持ちは根源的でパワフルですので「死にたい!!」も、よりパワフルになるときがあります。
それは、バイタリティはあるのに「生きている喜びや感謝」を感じられなければ、内在するバイタリティの大きさと「生きている喜びや感謝」を感じられない、抑圧された状態のギャップにより、そのバイタリティごと「死」へ爆発的に向かうことがあります。
誤解を恐れずに言いますと、実は「死」へ向かえる人は「弱い人」というよりも、生きたい力をうまく昇華できず、そのバイタリティで「生きたい」思いを「死」へ動かせてしまった人なのかと思います。
時々、びっくりするような方が自死してしまったりします…。
それは、その人の「本当に自分が生きられるところで生きたい!」というメッセージだと思います。
つまり「タナトス」も「エロス」も、この世で「生きている」という状態を体感するために生まれた本能的感覚なのです。
つまり「生」を失くそうとする(つまり「死」)とは、「生」があることが前提だから「失くそう」とできることなのです。
「生」があるから、生きたいと思うのが「エロス」、「生」があるから死にたいと思うのが「タナトス」。ともに「生」というものを対極で表現していることなのです。
「タナトス」と「エロス」は実は表裏一体で、ともに「生」を感じようとする本能だということが分かりますでしょうか?
失くして初めて「あぁ、自分はこの世にあったんだ」と気づける…。それが「タナトスの衝動」であり、それは「生」に向かっているものであり、より鮮烈に「生」を感じる方法なのです。
【宇宙ができた根源は「タナトス」】
これを、天界からの視点(スピリチュアルな視点)から見てみましょう。
天界にはいわゆる「あの世」と呼ばれるものがあります。そこには魂たちが光の状態のままで存在していて、ただ素晴らしいだけの世界であり、永遠の世界です。
しかし、ある時ある魂が「自分は本当に一緒にいる神様やみんなと同じく素晴らしい存在なのだろうか?」とふと思ってしまいました。
そして神様は「では、自分がどれくらい素晴らしい存在なのか勉強しにいったらいいよ」と学び舎を作ってくれました。
それが、この宇宙であり、地球はその学び舎の一つである…という考え方がスピリチュアルにあります。
つまり、私たちは「自分はどれだけ素晴らしい存在なのか?」ということを学びに来ている魂なのです。
光の中で「ただただ素晴らしい」という中では「素晴らしい」が分かりにくい魂のために、そこで神様が発明した「ない」とか「無くす」「失う」「素晴らしくない」…などのバーチャルな感覚を体感し、「いいや、あるのだ!」「いいや、素晴らしいのだ!」を理解できるようになれるのがこの「地球」の存在意味なのです。
今の苦しみ…。それはバーチャルなのです。
私たち魂は、実は「なくならない」し、肉体は滅んでも「存在」はずっとあり続けるし、さらに神様と同じくらいそれは素晴らしい輝きなのです。
では、そのバーチャルな感覚を例え話で感じてみましょう。
もし「お金がない」というのが本当ならば、今口にした食事も、今住んでいる家も、今着ている洋服も(そのほかモロモロ)そこに「ある」はずがありません。
それなのに、私たちは「お金がないないない…」と、お金で得たものに囲まれながら「ない」を体感してしまうのです。あたかも本当のことのように!!
この世ではそれが感じることができてしまうのです。
だからこそこの世の学びでは、どれだけ「ないの呪縛」から脱却し「ないと思っている中」から「ある」を体感できるかが「学び」となります。
人からの「愛」もそうです。
自分を愛してくれている人がいるはずなのに、そんな人がいないかのように「いない」「存在しない」と思ってしまうのです。
それは、どの環境下であっても「(愛してくれている人は)いる!」「存在している!」をどれだけ体感できるかがこの世の人間関係の学びです。
「ある」ことに気づけるかが、魂が課した壮大な学びなのです。
だからこそ「ない」と絶望しこの世を嘆き悲しむと、ここじゃないどこかへ行きたくなるのです。
それは天界にいた時に「自分は本当に素晴らしいのだろうか?」と、そこは「素晴らしさ」しか存在できない場所なのに、そう疑念を抱いたからこそ、自分の素晴らしさに気づく学びの旅が始まりました。
魂のステップアップには学べる事は喜ばしいことですので、みな祝福されて生まれてきます。やりたいことをやるためにです。
しかし、本当は「ない」の方がバーチャルな世界なのに、それを「そんなことはない!!あるんだー!!」とはできない、真面目で従順な人たちは「あぁ、やっぱり自分は素晴らしくないんだ」と、まるで天界からこの世へきたことと同じように、天界へと戻ってしまうのです。
それは、行ったり来たりになってしまうのです。
分かりますでしょうか…?
そうなってしまうのも、純粋にこの世の「ない」というバーチャルを信じてしまった素直さゆえかもしれません。
それは、今ここにあるものを疑えない正直さからかもしれません。
純粋で素直で正直なのに、自分の素晴らしさが分からない魂が「タナトスの衝動」に駆られやすいのだと思います。
本当は誰だって「生きる」ていることを強く感じたいと願っているからです。
だから、『タナトスの誘惑』のような作品は、まだまだ純粋で素直で正直な少年少女にはR15指定が必要なのです。
自死が美しいような甘美に見える作品を、純粋にそうだと信じてしまいやすいからです。
そして、それと同じように純粋で素直で正直さを持っている人は「タナトスの衝動」(なくそうとすること)で、自分が「ある(存在している)」のだと確かめようとしてしまうのだと思います。本能的に。
この世では純粋で素直で正直なほど、まっすぐに自分を失くそうとする「悪魔的なもの」へと変貌してしまうのです。
生粋であればあるほど、それは純度が高いものにもなってしまうのです。
でも、だからこそ今、この瞬間、この世で生きている限り、それは死の間際まで、自分の素晴らしさを学んでおかないとならないのです。
【「どんなあなたも絶対愛されている!」を証明する】
「自分のことを愛している人なんていない…」これは嘘なのです。
例えば、あなたがもし電車に乗ってどこかへ行ったのなら、あなたは電車を運行している人たちから愛されたから、どこかへと行けたのです。
だって、電車を運行している人たちは、乗客の人たちのことを愛しているから、安全に運んでくれるのです。
だからこそ運行に携わる人たちは、乗客の人たちから「今日も安全をありがとう」とたった一言言われただけで、仕事の苦労が報われるのです。
それは、愛した人から愛されたんですもの。苦労も吹っ飛ぶのです。
皆さんももし、自分が愛している人から愛されたら(感謝されたら)、それだけで勇気と力が湧いてきますよね。
そこには愛の循環が存在しているからなのです。「注いだ愛」から、またちゃんと愛を受け取ったから「頑張ろう」というエネルギー(生体エネルギー)に変換でき、また頑張ることができるのです。
このように「どんなところにも愛が潜んでいるのだ」「自分は愛されているのだ」と気が付くために、すべての事象が存在しているのです。
「ない」と思ってしまう「自分の心のトラップ」にどれだけ気が付けるのか?
これがこの世の学びなのです。
「なさそう」に見えるこの世の中で、その嘘を見破り、どれだけ「ある」を探せるのかが、この世でしている訓練なのです。
(圧倒的な「あるの世界」(天界)で、「ある」が分からなかった魂ですから訓練が必要なのです)
それは時に、この世では「純粋で素直で正直さ」が邪魔になることもあるのです。
「愛されていない」と思うその事象を疑え!!だからです。
それには、純粋さを捨て、従順をやめ、馬鹿正直にならない事も必要なのです。
……次回へ続く
『夜に駆ける』はなぜこんなに流行るのか?
原作『タナトスの誘惑』の読後、気分が晴れるのはなぜか?!
スピリチュアルカウンセラーの視点で読み解きます!②最終章
【タナトスへの挑戦~「タナトス」は本当に「僕」の手を引けたのか?~】
【この世の嘘を暴き、もう本当の自分を知る時期にきている】
この小説に仕掛けられている大どんでんなカラクリを独自の視点で考察していきます!
また、人間の本能へ挑戦した匠の技とこれからの世の中へのサイン(兆候)についても見解しております!
では、是非お楽しみに~♪次回まで、オヴォワ♪
とてもはげみになりますので、♡を押していただけたら嬉しいです♪