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叔父さんが死んだ。

叔父さんが死んだ。74歳だった。
照章(てるあき)という名前だった。親父の妹、僕の叔母の夫だ。

肺がんだった。3年前に診断されて、それからじわじわと体力を奪われていった。それでも、どこか静かにそれを受け入れているような人だった。「まあ、仕方ないよ」と言いながら、それ以上深く話すことはほとんどなかった。

正月の2日、毎年恒例の馬場家の親族集まりがあった。代々続く恒例行事。親父の兄妹とその子どもや孫たちが一堂に集まる場だ。

けれど、今年は叔父さんが来られなかった。

「今年はお父さん無理だな」と叔母さんが笑って言った。それを横で聞いていた叔父さんの娘、僕と同じ歳の従姉妹が「今年いっぱいかな」なんて小さくつぶやいた。その時は「いや、もう少し粘る気がするなぁ」と思ったのに、まさかその2日後に息を引き取った。僕の予想が大外れした。

叔父さんは、僕にとって妙に印象に残る人だった。

親族が集まると、僕たちは畳の広間で遊んだ。そこに必ず「おっしゃ、プロレスだ!」と絡んでくるのが叔父さんだった。得意技はコブラツイストだった。

「苦しい苦しい!」と叫ぶ僕に、「いい声だな」と言いながらさらに力を込めてくる。たまに本気すぎてイラっとしたこともあったけれど、それでも嫌じゃなかった。それが叔父さん流の僕らとの「関わり方」だと幼心にわかっていた。

僕が20代後半、東京でアパレルの仕事をしていた頃。夢中で働いて、好きなことを追いかけて、楽しい日々だった。

そんな頃の正月の集いで叔父さんがぽつりと話しかけてきた。

「拓也、今の仕事楽しいのか?」

「うん、すごく楽しいよ」

「そうか、それならいいな」

それだけの会話だった。でも、叔父さんの表情が妙に記憶に残っている。下を向いて、口元は少しニヤけて、何かを言おうかどうしようか迷っているような、そんな顔に見えた。そしてその後、肩を寄せながら小さな声でこう言った。

「拓也、お父さんが牛屋辞めた理由、ちゃんとわかってんのか?」

「婆ちゃんが介護状態になったから、だよね?」

「それもあるけどな。お父さん、『これから酪農は厳しくなるし、俺も酪農を継ぐのは嫌だった。それを、拓也に継がせるわけにはいかねえだろ』って言ってたんだぞお前。」

そして、少し笑いながら付け加えた。

「お前のために辞めたようなもんなんだぞ〜」

と、悪い目をして僕を横目に見ながら離れていった。
今思うと、ズルい言葉だ。責任を押し付けられたわけじゃないけれど、妙に残る言葉だった。東京に戻った後も、靴に入り込んだ小石のようにその言葉がチクチクとずっと気になっていた。

それがのちに僕が地元に戻って福祉の仕事を継ぐきっかけにもなったわけだから、今思うと重要なシーンだったと思う。

娘が介助して旅行できた夜


叔父さんが亡くなる2ヶ月前、去年の11月の最後の箱根旅行の写真が届いた。
旅館の座敷で、うちの両親や叔母夫婦たちと一緒に、叔父さんがコーラのグラスを掲げている写真だった。酒を飲まない人だったから、乾杯といえばいつも「おい、拓也コーラ取ってくれ」と言い、よく注いだ記憶がある。周りの大人たちがビールや日本酒を呑んでいるのに、コーラばかり飲んでる叔父さんが幼い僕には当時は不思議に見えた。写真のその姿もコーラを片手になんだか穏やかで、でもどこか静かに「これが最後だ」と告げているように見えた。

明日、骨を拾う。
泣きたくないけれど、たぶん涙が出る気がする。そういう叔父さんだ。

コブラツイストをかけられた時のあの感触も、肩を寄せて話されたあの言葉も、全部が、僕の中で生きている。

今日は通夜だった。なんだか今夜は、コーラを掲げるあなたの笑顔が、浮かんでくる。

どうか、ゆっくり休んでください。
ありがとうございました。

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