「死んだら無になる」という恐怖を克服するまで【タナトフォビア】

はじめまして、まず少しだけ自己紹介させてください。

私は20歳の男子大学生で、哲学を専攻しています。1か月ほど前から死の恐怖に襲われ、日常生活もままならない状態でしたが、希望の糸口を見つけることができました。拙い文章ではありますが、その経験を書いていこうと思います。

この記事は自分自身で読み返す目的も兼ねていますが、少しでも苦しんでる人の救いになれたのならとても嬉しく思います。


私を襲った死の恐怖について

私が初めて「死」に恐怖したのは5歳くらいの頃でした。死という概念を理解したのと同時だったと思います。命が終わるということに怯え、「死んだらどうなるの?」「死ぬのが怖い」と毎晩母に話していました。

そういった時期はいつの間にか終わり、しばらくの間は特に死について考えることなく過ごしていました。ただ、「長生きしたいか」という話題になったときには「何年でも長生きしたい」と答えていましたし、「幽霊はむしろいてほしい」と話したこともあるので、死への拒絶感はずっと持っていたのです。

私が本格的に死の恐怖に襲われるようになったのは、今年の3月下旬に祖父が亡くなってからでした。ただ、幼いころは死について漠然と恐れていたのですが、今回の恐怖は「死んだら無になる」ということに対する明確なもので、自分の死後も世界は続いていき、その永遠を私は遠く離れた闇のようなところ(無)で漂っている、というようなイメージが湧き出し、次第に四六時中そのイメージが私を蝕むようになりました。それに伴い、動悸や震え、食欲低下など身体的にも異常が起き、最終的には「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」「死の恐怖から逃れるために死にたい」とも考えるようになりました。

それでも、死後の世界や生まれ変わりを肯定している記事や動画を見ている時と、「生まれる前と同じ論」について知った時は少しだけ気持ちが楽になりましたが、長続きはしませんでした。

これらが、私が死恐怖症になった理由、症状、恐怖の正体です。


どう乗り越えたのか

・「死は怖くない」という理屈を知る

私は恐怖を感じている時、「死恐怖症」や「死ぬのが怖い」といったワードで何度も検索しました。そうしていると一時的に気が楽になる話に出会えたり、問題の解決に取り掛かってる感(どうせ死ぬから意味のない世界で唯一意味のあることをしている感)で少し心が軽くなります。

そのなかでよく「死んだら怖さを感じるものがないから死に恐怖する必要はない」「無なんだから怖さすらない」といった考えを見かけます。確かにこれらの考えは至極真っ当な理屈で、正論に他なりません。

とはいっても、それを聞いただけで恐怖が収まることはありません。理屈を知ったところで、いま現在私は恐怖を感じている。出会うタイミングがないというだけで、恐怖に足りうる何かが存在しているのではないか、と考えるからです。

なので、こういった理屈を知っただけでは恐怖は消えません。ただ、知っておくことに意味があります。「確かに正論だな、じゃあもう怖くないな」とはならなくても「理屈はわかるけど……うーん」と思えれば大丈夫です。


・恐怖の正体を明確にする

「負の連鎖によって起きた理由のない恐怖」というのもありましたが、私の場合は死から想起される死後の永遠の「無」が明確な恐怖の原因でした。

ここで1つ疑問が浮かびます。無を恐れることはできるのか。先ほど「理屈で考えれば死を恐れる必要はない」といった人たちならおそらく「無はないんだから恐れることなんて不可能」と答えるでしょう。

これも確かに正論です。しかし実際には私は無を恐れているわけで、正論だからと受け入れることはできません。ただ今回は「理屈はわかるけど……」で止まるのではなく、なぜ自分に恐怖が起きているのかを考えてみます。

私が恐怖を感じている時、いつもあるイメージを浮かべていました。初めのほうに書いた「自分の死後も世界は続いていき、その永遠を私は遠く離れた闇のようなところ(無)で漂っている」というイメージです。言葉で完璧に表現できるわけではないですが、これが私にとっての「死の恐怖」であり、「無」でした。

実際、気持ちを楽にするのに有効だった「死後の世界や生まれ変わりの肯定」や「生まれる前と同じ論」は死後の無へのイメージを変える方向性でのアプローチでした。

しかし考えてみると、私が浮かべていたものは本当の無ではなく、無のイメージにすぎません。イメージというのは間違うものです。私はウミウシという名前を初めて聞いて水かきのついた牛をイメージしていました。それと同じだったんです。「無」と「恐怖」のつなぎ目になっていた「イメージ」は水かきのついた牛と同レベルのデタラメだったのです。なぜなら無はイメージすること自体出来ません。私は、ここまで考えて先ほどの理屈を受け入れられるようになりました。

こうして恐怖の正体をはっきりとさせていくことで、正しいとわかっていても受け入れられなかった「理屈」を本当の意味で理解できるようになるのです。そうすれば、次第に理屈に従って「死は怖くない」と考えることができるのではないでしょうか。


死を恐れる“必要”はない

「死恐怖症」といっても、死のどういったところに恐怖しているのか、どのような恐怖を抱いているのかは人それぞれです。ここまではあくまで私の経験で、納得できない人もいるかもしれません。ただ、私が本当に伝えたいのはここからで、死恐怖症で苦しむすべての人に共通することだと思っています。

死恐怖症が苦しい一番の理由は、恐怖がなくなるのも怖いからだと思うんです。

死は誰にでもやってきます。なので、入学や就職、人によっては結婚、出産、死はそれと同等もしくはそれ以上に重要な人生の出来事だといえます。

だから死について考えるのは当然で、むしろ義務と言っていい、もし死と向き合って生まれたものが恐怖なら、それを背負い続けるのも義務なんだ。そう私は考えていました。

死が避けられないという事実、死は恐ろしいという固定概念、死後の生や不老不死の技術にすがることもできず、存在した時点で将棋の詰みのような絶望感。それによって見失うこの世界の意義。

そして、私はそれを「気付き」だと信じてしまったんです。四六時中死に恐怖していない人は気付いていないだけ、自分は不幸にも気付いてしまった。そう思ってしまったんです。

ハッキリと言います。それは絶対に間違いです。

それは「気付き」なんかじゃありません。「誤り」です。確かに死は寂しさや悲しさをはらんでいます。しかし、恐怖ではないはずです。死と向き合って現れたのが恐怖なら、それは幻想なんです。理屈と論理が証明しているんです。初めて感じた死の恐怖を見破ってください。そしたら残る恐怖は負の連鎖から生まれた必要のないものです。こびりついた汚れのようなものです。

死と向き合うのは大切です。でも死の恐怖と向き合うのは義務でも何でもありません。大丈夫なんです。考えなくていいんです。

「大丈夫」と自分に言い聞かせることで、初めて死の恐怖を退けた時、世界に色が戻るのを感じました。


最後に

「死は怖くない」それでも、死は寂しくて悲しいものです。死の恐怖を克服しても、死について考えると切ない気持ちになります。

でも、この切なさは高校時代の部活の引退試合で感じたものと同じでした。もっとこのチームで練習したかった。勝ちたかった。そのためにできることがたくさんあった。やっておけばよかった。

この気持ちって人生の全体で見ても同じなんじゃないか、私は今そう思い始めています。

「生が有限だからこそ頑張れる」という人、「もうやり切ったからいつ死んでもいい」という高齢者、過去20年の私ならそんなの絶対綺麗事だと言っていたでしょう。今でも100%理解できるかと言われると怪しいですが、その意味が段々とわかってきたように感じます。

私の祖父も「いい人生だったんじゃない?」と祖母に聞かれ「うん」と頷いていたみたいです。死恐怖症を経てですが、私は祖父に生きる意味を教えてもらった気がします。

拙い文章でしたが、読んでいただきありがとうございます。失礼します。

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