♯11.まだ残っている毒に気づいた日
🌴 久々に悔しくなった 🌴
すると、いつもは自分の部屋を閉め切りにしているのだけれど、気兼ねなく、窓やドアを開けて、気兼ねなく掃除ができる、そんな些細なことに心も開放された気がした。
今日は、旦那さんも飲み会でいない。私は1人自由行動。貴重な休みだから1人旅も考えたけれど、目の前にあることでできることをすることにした。
家から3キロ先の海の見える公園で、10キロのランニング🍀🏃♀️
帰りがけに、ジムに寄って、マシーンもした。
12月に仲間の誘いで、10キロマラソン大会に出ることになったからである。
誘ってくれる仲間の存在に、応援してくれる仲間の存在に、感謝の気持ちが込み上がってやる気が漲っていた。
いつも私を外の世界に連れ出してくれる。一歩を踏み出させてくれる存在。
生産的な生活ができたなと思っていたら…
いつもの生活が、見て見ぬふりしていたことが目に飛び込んできた。
私の家なのに、私のリビングにもダイニングにも、全部全部、両親の家具で埋め尽くされているのだ。
両親が引っ越してくるのには抵抗があった。母の存在がそうさせていた。
しかし、コロナ禍で父は職を失い、ローンも残っていた。
両親の夫婦仲は悪く、母は持病の悪化と、骨も脆くなって腰骨が折れ、介護が必要な状態。
当時の私には、引っ越してくるのを拒むことはできなたった。その選択はなかった。
しかし、引っ越すとなると母の我儘が案の定エスカレートしていた。
「これは○○の作家さんの一点ものの食器なの。」
「これはアンティークの家具なの。」
「あーあ、捨てるのもったいない。」とか。
私は、「私たちの物は良い物ではないから、食器棚や食器類、ダイニングテーブルや、テレビボード、全部捨てるから持ってきていいよ」と。
今思うと、私が許可したのだ。
でも、引っ越してきてみて、こんなに親のもので埋め尽くされるとは思っていなかった。
「食器棚や収納は半分ずつ、使おうね」
と話していたけれど、結局全部埋まっているから、入れられるスペースはもはやない。
考えが甘いと言われたらそれまでだ。
私たちの9畳の寝室も介護ベッドを入れたいからとか諸々懇願されて(結局は介護ベッドではない)、今の私の寝室は4畳半になった。
リビングにあったものも部屋に運んだ。今まで使っていたベットと棚を置いたからすごく狭い。
母は少しずつ減らすと言っていたし、迷惑をかけないと言っていた。
持病のある母は、コロナが心配で、リビングやキッチンはあまり使っていない。
でも、母の所有物はそこに佇んでいる。おまけに、嫌味も時々言ってくるし、ロフトにまで季節のインテリアが置いてあるし、まだ全然減ってやしない。
仕事をしているから、日々は忙しくて気にしている場合じゃなかったけれど、こうやって時間ができると、現実が目についてしまった。
こんなに親の所有物まで私は引き受けて、受け入れてしまったんだ。
心は解放されてきたのに、母が陰で有る事無い事言っていることにも気づきながら。
私は自分の家で、辛い気分になるなんて滑稽だな。自分の居場所だったはずなのに。
そんな風に思う一方、母が
「大好きなマンションが無くなって寂しいけど、こうして私の家具があるから、有難い」と言ってちょっぴり安堵している姿に、それは良かったな、なんて感じていたところも以前はあった。
自分が整ってきたから、以前の言いなりになっていた私と、今の私のギャップにぶち当たっているのかも知れない。
シンプルに、必要なものの中で暮らせるように整えてみよう。母にもそれを伝えてゆく。
自由に生きよう。
だからこそ私は息子たちを縛ることはしたくない。生きやすいように、まずは自分たちの生活は整えてゆく。吐き出したあとは、今を心地よくできることにフォーカスしよう。
終わりを描く。
海の見える家に引っ越そう。
自分の好きな仲間が集まるウッドデッキの広い家に。
好きな人たちと、好きなものに囲まれて、五感に心地よい空間と会話の声を聞きながら、ご飯を振る舞っている。