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エッセイ - ひたすらに、歩く。

Google mapで、

目的地まで"徒歩1時間15分"くらいだったら完全に徒歩派でした。

これは時間を持て余していた学生時代の話。

私はデザインの専門学生だった。学校は渋谷。熊本のど田舎から上京し、都会のエネルギーが好きで好きでたまらなかった。当時は田園都市線ユーザーで、通学もかなりの満員電車だった。だけどなぜか、嫌になった事がなかった!ちょっぴり人とは感覚が違うのかもしれないが、、、満員電車の中で、イラついていたり、アラームが鳴り出したり、ギューギューの中でスマホを落としたり。。朝からそんな光景が、面白かった!

みんな生きてるなーっ!!!て。

完全に負のエネルギーなのかもしれないが、生きてるエネルギーを感じていた。

そんな中で私は"歩く"に目覚めたのだ。

学生で時間があったからかもしれない。とてもとても"歩く"という事にどハマりした。決してダイエットで歩き始めたのではない。

なぜ歩くことにはまったか。それは東京だったから。東京で、一駅歩いてみると、、、その道中が果てしなく面白いと言うことを知ってしまったのだ。

駅と駅の間には面白い建物、道、土地、個人のお店に、あふれているのだ。それが東京。そして、一度その事実を知ってしまうと、どうしても電車に乗っていても悔しくなる。電車に乗りながら、今のあの道に面白い光景があるのでは?そう思うようになっていった。

そして、とどめとなる出来事を生み出したのです。家から、浅草までを歩くのです。4時間くらいで着くんです!これを機に、なんだ!こんなもんか!と。

それから、学校、バイト、休日、、毎日大体2万歩近く歩いた。バイトはその頃、銀座に行っていたので、渋谷から銀座まで歩き、バイトが終わって、また歩いて帰る。

自分でも、"歩く"をやめられなくなりました。

電車の大幅な遅延、積雪による運休、駅付近に人が溢れていたら、迷わず歩きを選択しました。

そして、歩いてる時って色んなこと考えるんですよね。本当に色々と。私にとって、自分に内向していく時間。

今、社会人になって思うことは、"自分について考える"ということに慣れていることの大切さ。

そして私は学生の頃のゼミと、"歩く"ことで、その時間が自然に生まれていました。

自分について考える。他者からの目を改めて気にしてみたり、自分の言動を振り返り、客観視してみたり。答えが無い何かだったり、別に何かを突き止めたい訳ではなかった、、ただ、

ひたすらに、考える。


未だに自分のことなんか分かりません。分からないけれど、"自分の考え"を持つ。という事は少しはできるようになったんじゃないかなと感じます。

よく、若い日本人は、答えをもらう教育を受けてきた。と言われます。先生が答えを後ろに隠して、それを当てさせる。テストもほぼ暗記。

これは本当にその通りだた体感しているし、致命的だとも思います。ただもう、そういう教育で育ったものは仕方ないんです。子供には選択権がないのだから。それにそこに気付くか気付かないかなんて、そこを期待されても、困るんです。

教育に詳しいわけでもないし、勉強ができるわけでもない。社会にどこまでの意図が張り巡らされているのか、自分はどうすべきなのか。そんなの分からない。

兎にも角にも、私たちは"自分で考える"ことをもっとすべきだし、本の言葉が全て、偉い先生の言葉が全て、上司の言葉が全て。なんて思うのはもったいない!!

色んなものを見て、人と会って、色んな景色を足で歩いて見て、そこから感じること、見聞きすること、それを自分のすり鉢に放り込んで、こねくり回して、自分の考えを生んでいくことが大切なんじゃないかなぁ。

って、私は自分に言い聞かせます。


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aiko。

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