花譜「不可解」 「不可解」とは何なのか

ライブのざっくりしたレポートから、抽象的な話へ。前半で私が経験してきたVtuberのライブ、そして後半では「不可解」についてちょこっと話したいと思う。

以前にも記述したように、Vtuber文化における歌は親和性が高く、それはVがキャラクター性に加えて、特筆すべき能力を持っているからである。その走りとして、ときのそら富士葵などの「純粋に歌が上手い」と評価される存在がある。彼女らは間違いなく、それまでタレント的だったVtuber(とは言っても、彼女ら以前と言えばキズナアイやシロのような、アイドルタレント的な存在がメインだったからだが)に「歌う」という付加価値を見いだした存在である。

そして、やはり歌と言うとライブが大きなひとつの舞台になる。2019年8月1日までにも数多くのライブが行われた。いくつか例を挙げよう。
①キズナアイ
キズナアイは2018年12月に単独ライブとして”Hello, world”を開催している。

DJを脇に携え、サイリウムの映えるクラブ的、且つアイドル的なライブ、そして(この映像にはないが)、衣装交換や、最近のライブでは2人目のキズナアイ(中国語インストールバージョン)も用いた、非常に多彩なライブを行った。

②樋口楓
Vによるライブのひとつの大きな転換点というか、特異点として樋口楓1st live"KANA-DERO"が挙げられることは間違いない。

このライブ映像を見ればわかるように、彼女のライブは極めて”リアル”のライブに寄せてきているのである。これは彼女自身がアイドル・ライブオタクで、多くのライブに参加してきたことから「どう観客を盛り上げれば良いか」を熟知した上での方法である。ダンスではなく自然体な、歌に合わせた身振りに加えて、DJや音源ではなく、リアルバンドを携えたのもより「リアルな」ライブに近づく手段だろう。アイドル的というよりも、アーティスティックなライブに仕上がっている。
そして"KANA-DERO"の大きな特徴は、演出のほぼすべてに樋口楓の意見が反映されていたということだ(後日の雑談配信で明らかになった)。つまり、彼女がやりたいと願ったライブで、樋口楓が「こうしたい」という意見で以て作り上げられたライブになる。
これは、彼女がアイドル的な、一歩向こう側の存在ではなく、配信を通してファンと心を通わせた結果生まれたライブと言える。にじさんじに始まるストリーミング式のVの特徴は、こういった「距離の近さ」があり、そのひとつの到達点として”KANA-DERO”の樋口楓と我々ファンとの感動の共有という形があるのだろう。

③EMMA HAZY MINAMI

さらに、よりVとして、「バーチャルは一歩向こう側」を壊した存在にEMMA HAZY MINAMIがいる。彼女は路上ライブを敢行することで、つまり「触れ合える」距離感で以てライブを行った。これはもはや実在性云々という話ではなく、我々が駅前で歌っているシンガーを見る目と同じ扱いができるということだ。

④SPWN DIVE
SPWN DIVEはMonsterZ MATEや銀河アリスを擁するバルスが中心となっているライブプラットホームで、全国多数箇所での「同時多発的な」ライブが可能となる構造である。つまり、演者がハブで演じ、ブランチになる映画館などの複数の設備の状態がそのままハブに届けられるという、多方向とインタラクティヴなライブが可能となるプラットホームである。これまでのライブビューイングと異なり、ブランチとして機能している設備もまた、ライブ会場となっているという点が特徴的である。

現在SPWNを用いて行われたライブとしてはMonsterZ MATEや銀河アリス、HoneyStrap、ルキロキなどが挙げられる。

⑤VRライブ
最もバーチャルらしいライブといえば?といわれると、おそらくヘッドマウントディスプレイを用いたVRライブが思い出されるであろう。例えばVARKで開催された樋口楓・鈴鹿詩子ライブ「ReStartLine」だとか、clusterだとか。
あるいはVRではないが、REALITYなどの3Dバーチャル空間を使ったライブも、誰でも参加出来るという点からすればバーチャルらしいライブかもしれない。

⑤そのほか
そのほか、メンバーを変えて開催される「TUBEOUT」やDMM VR THEATERで行われたGEMS COMPANYのライブなんかもある。

ジェムカンのライブはいかにもアイドルライブ的な部分と、Vを感じさせない技術力に驚く。僕は水科葵ちゃんが好きです。

こういったように、Vによるライブは、基本的にVを目立たせるために、そしてカルチャーとしてあるようなオタク・ライブやアイドルライブになぞらえた空気を持っている。それは、対象であるVファンが基本的にオタクであり、例えばサイリウムやオタ芸などを前提としたライブ構成になっている、という部分がある。
そういう、アイドルライブ的な部分から外れていくと、例えば樋口楓や、MonsterZ MATEのような形態になるのかもしれない。

もちろん、Vによる表現はライブに限らず、月ノ美兎の「朝まで起立しNight」「月ノ美兎の課外授業」などのトークイベント東雲めぐの人魚姫などのミュージカル、あるいは渋谷ハル主宰「最協決定戦」のようなゲームイベントなど、多岐に渡る。これらはいずれも、Vを主体とするイベントであり、彼ら/彼女らのタレント性がうかがわれるモノである。


○花譜「不可解」は何だったのか

「不可解」というライブは、ライブ後すぐから多くのV関係者からの絶賛を受けた。KMNZのninoPだとか、Vで探すと(AZKiは当然ながら)、にじさんじ・剣持刀也やMonsterZ MATEコーサカなど。コーサカについてはラジオの中で、「どこからも逃げていないライブ、新しい界隈だから、バーチャルだからとかって言い訳をしていないライブ」と表現していた。

①「不可解」という作品

本題。花譜「不可解」はライブとしてどうだったのか。
前半でも述べたが、背面に背景、真ん中に花譜を含めたバンド体勢、そしてステージ前面にはモーションタイポグラフィのための透過スクリーンという構造であり、モーションタイポグラフィはかなり動きが激しい。つまり、ややもすると中間で演じている花譜や、その背景を飲み込んでしまいかねない装置になっている。実際、その歌詞のモーションの印象がかなり強かったパートは少なくない(「心臓と絡繰」「未確認少女進行形」「死神」など)。にも係わらず、そのように表現されたのは何故か。

本ライブでは、ライブ前に依頼されたイラストレーターたちが花譜のモチーフアートをツイッターに投稿している。

(これですべてではない)
さらに、ライブ後に数多くの新進気鋭のアーティストたちが自身の係わったプログラムについての紹介をしている(前半部)。加えて、ライブ終了後に関係スタッフをエンドロールで流すという構図になっている。そして、CF参加者の名前も流れる。
つまり、このライブにどういう形であれ参与した存在はこのライブの一部として前面に押し出されているわけであって*、前半冒頭で述べたように、花譜が中心でありながら、その周りに多くのアーティストとスタッフ、そして観るファンという構図があって、それ全体が「花譜」という作品なのである、ということである。花譜が「命に嫌われている」のMCでPALOW.さんやカンザキイオリ氏、川サキ氏の名前を出したように、花譜ただ一人が舞台で観られているのではなく、花譜を通した演出全体、作品として「花譜」が表出されていたということである。
これについて、たまごまご氏が分かりやすく述べている。

19曲中10曲が公開されていない楽曲というのは異例であろう。ゲストを乗らせるためではなく、「花譜」という作品を見せるために作り上げられた舞台と言って過言では無いと思う。
このような、表現手法としてのチーム「花譜」は、個人として演出に拘ったライブを演じた樋口楓とは真逆ながら、どちらも「Vの表現の新しい水平」を切り開いただろう。

ライブの構成について、私がハッとなったのはラストのスタッフロールだった。普通、ライブであれば演者がアンコールを締めて終わり、解散……となる。しかし、「不可解」では最後にエンドロールが入り、且つ「ハミングがきこえる」「フロントメモリー」というアップテンポな曲だった。どちらも歯切れの良い曲で、「そして花になる」までの余韻をさっぱり流してくれる……よくライブ後にある「後ろ髪を引かれる」という感覚を断ち切って、「これで終わり」という切り替えをみせてくれた。

そしてなにより、エンドロールがあるということは「始まり」と「流れ」があるということである。それはひとつの映画であるかのように。
「少女降臨」で降り立った花譜がつくる「展開」である。
セットリストを見てみよう。

①糸/忘れてしまえ/雛鳥/心臓と絡繰
②エリカ/未確認少女進行形
③うつくしいひと(リーガルリリー)/五月雨(崎山蒼志)/死神(大森靖子)
④祭壇/魔女
⑤quiz/夜が降り止む前に(remix)
⑥夜行バスにて/過去を食らう
⑦御伽話(朗読)/神様(東京ゲゲゲイ)/命に嫌われている
⑧-衣装⇒星烏-/不可解/そして花になる

便宜上、8つに区切らせてもらった。

OPはどこかの宇宙から、遡行するような奔流を経ての花譜による朗読「少女降臨」。

①は見ての通り、花譜の代表曲が集まったステージである。つまり、「これまでの花譜」である。おそらくここを望んできた観測者(共犯者)は多かったんじゃないだろうか、というか私は「忘れてしまえ」「雛鳥」はもっと盛り上がる真ん中~後半くらいに置いてくるんじゃないかと思っていた。

②はどちらも新曲。ポップ系で、特に未確認少女進行形は80年代アニメOPのようなMVとともに表現された(〈物語〉シリーズ「恋物語」特殊OP「木枯らしセンティメント」を思い出した人は多いんじゃないだろうか)。ちょっと楽しいような、新鮮味のある場面

③カバーゾーン。どれも花譜が好きな歌。

④「祭壇」「魔女」は花譜の口から語られたように、対になる・相反する・連続する二曲。バックで流れていたイラストも、女神と魔女のような構成であり、神話的な要素が大きかった。どちらの曲調も重厚で、激しい。

⑤quiz(先行配信曲)、夜が降り止む前に(remix) どちらもテンションが上がる曲。

⑥テンションが最高潮になる部分。「過去を喰らう」では花譜が体を左右に振ったり楽しそうだった。

⑦アンコール後、急に重々しい空気で始まり、「実は違う世界から来たんだ」「だいっきらい」で締められた部分。さらに続く「神様」は花譜の生の歌声を殺すような、抑揚や響きを消した機械的な音の作り方(原曲もそう)。さらに低い、ローテンションな曲で「だいっきらい」からのこの曲でかなり沈み込んだ。そして「命に嫌われている」。やや明るめの節があった。

⑧新衣装お披露目。らぷらすが食ってからの「第一形態 雛鳥」からの「特殊歌唱用形態 星鴉」の演出はシンフォギアだかTRIGGERアニメだかを思い起こすような、めちゃくちゃに高いテンションの映像。そして新曲。「不可解」はライブイメージソング。「そして花になる」は花譜イメージソング。
王道アニメの鉄則といえば「最終回はタイトル」

そしてエンドロール。「ハミングが聞こえる」はもともとはちび丸子ちゃんのOP。

こういった一連の「流れ」は一種の作品で、例にも挙げたけれど、アニメとか短編映画の序破急・起承転結に通じるものがある。特にアンコール後の絶望→衣装変更→勝利ルートはその典型じゃないだろうか。
こういった一連の流れを作ることで、ひとまとまりの作品という形で「花譜」が表現されたのだろう。
そして最後に出される”THE END OF PROLOGUE”の文字。ここでひとつの”はじまり”が終わり、花譜は次の段階へと進むのだというメッセージだ。


②花譜、少女について

さらに花譜が表現した、そして実感として持ち上がったものに花譜の「実在性」がある。歌う時の、キリッとした、あるいは感情の昂ぶった感情の表出に対して、MCの際には噛んでしまったり、「人生何週目かと……」「沼にハマってしまった」などの非常に卑近なボキャブラリー。途中笑ってしまったり、話を終わらせるのに「……はい!」と切るやり方。どれをとっても年頃というか、場慣れしていないようなしゃべり方が花譜らしい。
この前提にあるのが、花譜スタッフによる「花譜との出会いと花譜のデビュー」の話である。

何の練習を積んできたわけでも無い、13歳の、歌が好きな少女をどうにか、そして急がず、彼女のしたいことが出来るようにして行き着いた答えがVsingerという表現方法。つまり、花譜15歳の少女であって、ただひとりの人間である。
(以下引用)
>これまでアーティストやクリエイターをコンテンツとして消費し、急ぎ過ぎることで結果的に使い捨てにしてしまう、投機的でビジネスライクな現場を何度も遠目で見てきたからです。

>特別な才能を持つアーティストであったとしても、自分達と同じように日々を生きる1人の人間でもあり、また、彼らとビジネスをするということは、プロデュースサイドだけでなくアーティスト自身も仕事に自覚的でないと不幸になってしまう場合が多々あるからです。
(引用ここまで)

花譜という「存在」を形作るのは、こういった流れからにも依る。さらに、花譜スタッフの人間の尊重は、上記のクリエイターにも続く。

(以下引用)

>今回のライブ「不可解」は別に技術的に新しいことをやろうとしている訳では無く、むしろ昔からあった「アーティスト」を「アーティスト」らしく扱うという、ある意味でこれからの時代にとってはもはや古臭いかもしれないことに敢えて挑戦しようとしています。

(引用ここまで)

あらゆる表現には、特にこういった芸術作品、それは音楽に限らず、例えば音楽だとか、映画だとか、舞台について、そこには多くのアーティストたちがいる。アーティストと花譜、スタッフをすべてひっくるめた「花譜」はそういうことを意味しているのかも知れない。
そして、その中でも花譜が「そして花になる」MCで語った部分。「歌が本当に好きだ」という話。これは動画でも花譜自身が語っている。

「これからも、私がすきな歌をたくさん歌っていくと思うので、また聴きに来てください」というところ。
私は、このMCで彼女が語った「将来何をしたらいいかわからない、今から2,3年後、自分がなにをしているかわからない」「レコーディングをしていると、自分が自分では無い感じがする。……労力と結果があっていない気がする。」という、自分に真っ直ぐな、ネガティブな気持ち。それでも歌を歌っていく。そういう気持ちが、「そして花になる」にはこもっているんじゃ無いかと思う。

先に挙げた樋口楓も、「バーチャルライバーになっていろいろ経験するまで、将来的にはすぐ死にたいと思ってた」「将来のことなんて考えてなかった」など、将来に対してかなり後ろ向きな姿勢であったことを明かしている(一方で相方の月ノ美兎は、「すぐ死にたくは無い」「死ぬまでにやりたいことリストを作っている」「Vを引退するなら派手にする」などの意見を持つ)。こういった考え方は、思春期特有だと言ってしまえばただの彼女らの矮小化になってしまう。彼女らは真摯に自分と向き合って、悩んで歩いてVという存在に行き着いたのだと思う。だからこそ、この歌の歌詞にあるように

《私が歌を歌うのは それが楽しかったから》
《つらいことも 嫌なことも 何もかんがえてないだけさ》
《だから私は歌うのだ そして不可解な花になる》
《季節を巡るにはあなたが必要だった》
《私が知らない私がきっと まだ どこかで眠ってる》

《人生だとか青春だとか 不条理に思うことなんてなかった》
《私が歌を歌うのは 歌が好きだったってわけさ》
《好きなものを 好きなことを 好きでいることに理由はいらない》

まわりの大人たち、それ私たち観測者”共犯者”が、彼女の歌と、そして彼女の行く末を見守っているから響いてくるのだろう。

③「不可解」とはなんなのか。

ここまで書いておいて、実を言えばこの一週間、「不可解」を表出することができないでいる。

分からないからこそ美しい、計り知れない”何か”、”人間の証だ”というのが「不可解」で提示されたメッセージだった。よくわからない、”不可解な”、観測出来ない、そういうものが「不可解」。

結局、この「花譜」を作り上げているのは血の通った人間であって、花譜は歌を表出して、クリエイター達が映像を、作品を表出したハコの中で表現された世界だったと思う。
いちVtuberの追っかけファンとして、花譜、あるいは「花譜」は、彼らがそう言っているように、少しズレた存在だろう。「花譜」はタレント性やアイドル性という、キャラクター的な存在ではなくて、「花譜」という表現集団と言った方が良いのかも知れない。そこにバーチャルだとかリアルだとかいう野暮はことは無い。
私はつねづね、「バーチャル」と「リアル」は対立関係にはなくて、お互いレイヤーの関係にあると思っている。つまり、同一平面にあって、たかだか層が違うだけなのだと。だから「バーチャルでしかできないこと」とか「バーチャルのくせに」という言われ方が嫌いで、それは、「リアルでしかできないこと」という言葉の列自体が、リアルに生きている私たちにまったくナンセンスな問いかけだという理屈からだ。だから私は「魂」とか「肉体」だとかいう物心二元的な考え方をバーチャルで強調するのは違和感を感じている(なぜなら、魂と肉体は、人間が生きている以上、分離されないものだからで、レイヤーとして同じ層にいるバーチャルだってそれは同じ事だ)。
そして何よりも、私たちはリアルであろうがバーチャルであろうが、社会的な集団の一部にしかなり得ないということだ。それは、リアルで生を過ごしてきて、Vtuberを追っかけてきた私たちがよく知っていることだと思う。

そして、そういったモノは結局よくわからない。すべての理由が理屈通りに展開するなら、それは神のデザインに従っているだけだし、そうならないからこそよく分からない、不確かなものに私たちは惑わされる。そして、だからこそ「あるかもしれない」とも思う。「宝くじに当たるかも知れない」「三連単当たるかも知れない」「合格するかも知れない」……逆に、「死ぬかも知れない」「転ぶかも知れない」「落ちるかも知れない」……どっちも不確定で、自分自身に端を発するものだろう。

そして、きっとそういう不確かなものがあると知っていれば、もしかしたら明日の世界が変わるのかも知れない。それはよく分からない。


※追記1。そういえば「御伽話」の中でも「孵化する」という話があったし、花譜のスタンダードスタイルは「雛鳥」。「不可解」は「孵化(回?)」の語呂合わせにもなるのかも。終わりの始まり、生命の誕生に通じるところもあるのかな。

※追記2(*)。だからこそ「共犯者」と名付けられたのだろう。

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