『日本共産党の百年』読書ノート その2


(2)第2章部分

第4回党大会と天皇制廃止の提起

(45年11月の第4回党大会後)敗戦と占領という、新しい情勢のもとで、党は、国民の飢饉を窮乏を打開し、天皇が絶対的権限を持つ制度をなくして民主政治に変革しようと提起し…

『日本共産党の百年』p12s6

『百年』は、当時の党が象徴天皇制を提起していたとの誤読を誘いかねない叙述である。一方『八十年』では「天皇制をなくして」と簡単明瞭、これでよい。

党は、…日本軍国主義の敗北と連合国の占領というあたらしい情勢のもとで、国民の飢饉を窮乏の打開、天皇制をなくして民主政治への徹底した改革をなしとげようと提起しました。

『日本共産党の八十年』p74

政府「新憲法草案」の天皇条項に反対する理由

1946年6月、新憲法草案が議会に上程されました。

党は、憲法草案に採決にあたり、反対の態度を表明しました。大きな理由は…一つは、天皇条項が民主主義と人間の平等の原則と両立するものでなく敗戦後の日本では、徹底した民主主義の体制への前進が求められていたことです。

『日本共産党の百年』p13ss5-7

(略)
党は、憲法草案に採決にあたり、反対の態度を表明しました。大きな理由は…一つは、天皇条項が主権在民と矛盾したものであり戦後の日本では、天皇制の廃止と徹底した民主主義の政治体制への前進がもとめられていたからです。

『日本共産党の八十年』p83

憲法草案に反対した理由について『百年』は『八十年』をかなり修正している。
46年の野坂政治局員の反対討論を確認してみた。

○野坂參三君 私は日本共産黨を代表しまして、…全憲法草案に付て、私達の所見を述べ、此の修正案及び原案全體に對して反對の意見を述べたいと思ふのであります
…共産黨は、當憲法草案が發表された時、主權在民を明記することを主張しました、幸ひにして我々の要求は容れられ、前文に是が明記されました、是は此の憲法草案の一歩前進である、併しそれでは此の草案は果して主權在國民の思想を一貫したものであるかどうか、遺憾ながら實質はさうでない
…一般國民の上に君臨する特權者が存在する時には、之を利用して再び反動勢力を復活する危險があるからであります
…我々は日本の將來の爲に、我々子孫の將來の爲に、民主主義の爲に、我々は少しでも反動的に利用され得るやうな條項を含む憲法にどうしても贊成することは出來ない、我々は草案の第一章は民主主義に反する規定であると認める、ここに我々が此の草案に反對する第二の理由があります、以上の如く天皇を規定する第一章は、古き天皇制を新しい形に於て殘さんとするものであります、是は明かに反民主的規定である

衆議院本会議 昭和21年8月24日 憲法草案に対する野坂参三の反対討論

主権在民と矛盾しているとは言わず、主権在民が一貫していない"と言っている。また、天皇制が廃止されないから反対とは言わず、天皇条項が反動の方向を復活させる足場になりうることを理由に反対している。
ただし、野坂政治局員は「子孫の将来のため」と言っており、「敗戦後」(『百年』)に限っているわけではない。
なので、「敗戦後」部分を除き、修正は間違ってはいないと思われる。
なお、『八十年』の記述が正しくなかったというわけではない。そもそも党のつくった憲法草案は天皇制廃止だったのだから。

「党史」刊行時点での天皇条項に関する見解

46年当時の党の態度の記述に続き、党史刊行時点での天皇条項に関する見解の記述が続く。

…その後、…党は、現在の綱領路線を確立するなかで、…天皇条項の問題でも、現在の政治行動の原則として、憲法の関係条項を厳格にまもらせる立場を明確にしました。

『日本共産党の百年』p13ss5-7

…その後、…党は、現在の綱領路線を採択するなかで、…天皇の問題でも、徹底した国民主権の立場から、将来の天皇制廃止を展望しながら、現在の政治行動の原則として、憲法の関係条項を厳格にまもらせる立場を明確にしてゆきました。

『日本共産党の八十年』p83

『八十年』の「徹底した国民主権の立場から、将来の天皇制廃止を展望しながら」が『百年』では削られている。
これは、『八十年』の刊行年が2003年1月で当時はまた61年綱領の時代だったからで、『百年』は、2004年綱領改定にともなって同文を削ったのだろう。
なお、『八十年』は、「将来の」と曖昧な表現にせず「民主主義革命政府の段階で」と書けばよかった。
また、『百年』も、当該文章につづけて「そして、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものとしました。」と書いておけばなおよかった。

アメリカ帝国主義と日本独占資本に反対する強大な民族民主統一戦線が発展し、反民族的・反人民的な支配勢力を敗北させるならば、そのうえにたつ民族民主統一戦線政府は革命の政府となり、日本独占資本を中心とする支配をやめさせ、アメリカ帝国主義への従属関係をたちきって主権を回復し、人民の手に権力をにぎることができる。この権力は、労働者、農民、勤労市民を中心とする人民の民主連合の性格をもち、世界の平和と進歩の勢力と連帯して独立と民主主義の任務をなしとげ、独占資本の政治的・経済的支配の復活を阻止し、君主制を廃止し、反動的国家機構を根本的に変革して民主共和国をつくり、名実ともに国会を国の最高機関とする人民の民主主義国家体制を確立する。

日本共産党綱領(1994年7月23日一部改定)

党は、一人の個人が世襲で「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである

日本共産党綱領(2020年1月18日改定)

戦後の在日朝鮮人党員

(占領軍は)49年9月、団規令によって在日本朝鮮人連盟を解散させ、金天海(党中央委員)をふくむ朝連幹部…を公職追放し、その活動をおさえつけました。党に参加していた在日朝鮮人の活動家たちは、55年中ごろまでには党籍を離れました。

『日本共産党の百年』p15s5

戦後の在日朝鮮人党員に係る記述がこれまでの党史であったのかざっと探したが見つからない。戦前の記述と同様、『日本共産党の百年』が初めてかもしれない。
「党籍を離れ」る前の、終戦直後からの在日朝鮮人党員の活動や、党籍離脱の理由の詳細については、別途『前衛』等での解説を期待したい。

以下、他文献からの引用(念のため言っておくが、これは当該文献執筆者の論述であって党の見解ではない)。

1949年に入ると、朝連に加盟している朝鮮人が共産党に集団入党する事例が相次いだ。…日本人党員のほとんどが経営細胞に組織されて地域との結びつきが希薄であったのに対し、朝鮮人党員のほとんどは居住細胞に属して地域との強い結びつきを保っていた。…「朝連系」朝鮮人の共産党への入党は、以降の共産党の活動をさまざまな面で支えていく。

黒川伊織 前掲書 p214

(朝鮮戦争休戦協定後の平和共存路線への転換とともに1954年6月に中国が提唱した)「平和五原則」には「平和共存」とともに「相互内政不干渉」が含まれているように、…外国人コミュニストが居住国の党に入党してその指導下でその国の革命運動に献身することを原則とする「一国一党の原則」は改められねばならなかった。
…1954年7月、…北朝鮮外相・南日は、「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の在外公民である」という趣旨の声明…を発して、事実上朝鮮人共産党員に日本共産党の指導から離脱するよう促していた…これ以後…離脱が進み、1955年5月…在日朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成されて、日本共産党を離脱した朝鮮人コミュニストは…朝鮮総連へと結集するに至った。そして、7月15日、日本共産党民族対策部は解散し、1920年代にはじまった「一国一党の原則」に基づく党のあり方は終焉を迎えたのである。
…(1955年7月六全協を経た日本共産党は)議会主義による国政政党という道を選択するかぎり、外国人コミュニストとの組織的分離は不可欠であった。1956年4月、朝鮮労働党第3回大会に出席した袴田里見らは、朝鮮労働党との協議の結果、「かつて日本共産党として活動を行ってきた朝鮮人党員」に対して、「今後日本共産党は彼らに党員資格を与えないこと」…を確認した(下斗米2011)。

黒川 前掲書 pp263-267

伊藤律とゾルゲ事件

戦前、たびたび党組織を特高警察に売り渡し、ゾルゲ事件摘発に協力するとともに、戦後も党を内部から破壊する活動をおこなったことがあきらかになった伊藤の除名を第七回党大会が確認したのは当然だった。

『日本共産党の七十年・上』p224

『七十年』では「伊藤律の除名とその確認」にかかる記述は3ページに及んでいたが、『八十年』では総ページ大幅縮小のためか分からないが、まったく触れられることはなかった。
伊藤律にたいする数ある除名処分理由のうちゾルゲ事件に係る部分を『百年』でどう取り扱うかを編集委員会が検討しなかったはずはないだろう。『百年』では見送ったが、10年後か20年後かにまた再検討することになる。

つづく

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