上村裕香『ほくほくおいも党』 雑感その8
『ほくほくおいも党』には「卒業制作版」(単行本)と、改稿された「小学館STORY BOX版」(Web版)があります。
この「雑感」は前回まで「卒業制作版」をもとに書いていました。
今回も、前回(その7)の続きで千秋と浅間くんのやりとりの続きを書くつもりでした。けれども、Web版5月10日公開の第3話では浅間くんのことは一切触れられていませんでした。
ここで私が卒業制作版の浅間くんの話を書いてしまうと、今後のWeb版のストーリー展開のネタバレになってしまうおそれがあります。
ということで、今回は、4月10日公開の「小学館STORY BOX版」(Web版)の第2話を取り上げることにしました。
◆党員母娘の半生――現実世界とのズレによる違和感
『ほくいも』Web版第2話には、活動家二世らの懇話サークル「ほくほくおいも党」のメンバーである佐和子さん(元党中央委員会国際部勤務員)とその母(元市議会議員)が登場する。
第2話は、活動家二世である佐和子が、母のある「言動」を抱え込んで生きてきた半生を振り返りながら、母への感情を整理しようとする姿が描かれる。
『ほくいも』主人公・千秋は、佐和子の語りを聞き、そして恍惚となった佐和子さんの母を見る。父との関係に悩む千秋はその二人に会い、何を感じ取ったのか…。
親子の関係を党を舞台に展開させるという『ほくいも』のテーマに沿った内容であるし、それを書こうとしているのは、よくわかった。
ただ、このお話がリアリティを感じさせてくれるかと問われれば、なかなかイエスとは言い切れないとことがあったと言わざるを得ない。
なぜか。それは、佐和子とその母が生きてきた作品内の舞台が、現実の日本共産党や党員らの実際とズレまくっていると感じるからた。
それに加え、母にたいする不可解な批判的回想も、本作がせっかくこれまで築いてきたリアリティさを壊してしまっていて、それが読者である私にストレスを感じさせたのだ。
◆作品世界の「日本共産党」・「共政党」と、現実世界の「日本共産党」
フィクションなんだから細けえことはいいんだよ、という意見を持つ人も当然いるだろう。
とあるとおり、卒業制作版でもフィクションである旨ことわっている。また、Web版では「共政党」という架空の団体を使用している。
けれども、『ほくいも』の作者は、『ほくいも』の登場団体と実在のモデル団体との関係をつよく意識していたことは否定できないと思う。
そして当然のように、読者の少なからぬ者が『ほくいも』の「日本共産党」や「共政党」を、現実に存在する日本共産党に投影して読むであろうことを作者は分かっているはずだ。
『ほくいも』作者ほどの描写力や表現力は、小説内の住人がリアルに存在するものと読者をいざなってくれる。また、小説内の架空団体がリアルに存在する日本共産党そのものの描写であると読者をいざなう。それは芸術や文学のなせるすばらしいことである。
小説世界の中の人間が、架空団体を通じて実在の現存する日本共産党を自由に体験し論評し批判することは別にかまわない。
けれども、「小説内の住人だから、架空団体だから」といって現存する日本共産党にたいする認識についての客観的論証の責任から免れる、ということにはならないのでは、と思う。
◆佐和子とその母の半生――年表
第2話からのみ得られる情報で彼女たちの年表をつくってみた。
ざっと、目を通してみてほしい。
☆印は、私が時代考証をしやすくするために補足したもの。
○印は、『ほくいも』内の登場人物が小説内2022年時点で語った回想。
なお、佐和子の誕生年など確定するのが難しいものは「○~○年頃」と記載している。
1945 母、誕生
☆1953 スターリン死去
1960~62 母、夜間高校時代に青年同盟加盟
☆1960 安保闘争
☆1961 日本共産党、綱領確定
☆1962 ガガーリン訪日、日本共産党や労組等で歓迎集会開く。
1963 母、18歳で入党
☆1963 ソ連が部分核停条約賛成を原水禁運動に押しつけを図る
☆1964 ソ連が日本共産党内に分派育成、日本共産党がソ連分派を除名、ソ連側を内政干渉と批判、断絶
☆1965頃をピークに歌声喫茶のブームはうたごえ運動の退潮に連動して急速に衰退、その後の10年ほどでほとんどの店が閉店<wikipediaより>
○佐和子「吉本隆明や柄谷行人などの評論家がもてはやされ、六十年安保や全共闘、あさま山荘事件が世間を騒がせた革命闘争の時期に、そうした新左翼と対立する旧左翼にいたひと。けれど、母自身は党の外の人とのつきあいが極端に少なく、闘争にも関心がなかったらしい。書籍も党の機関紙と綱領以外、読んでいるのを見たことがなかった」
☆1968 ソ連のチェコ侵攻を日本共産党が批判
☆1969 大学民主化闘争、共産党は大学解体を叫ぶニセ左翼暴力集団と対決
1976~1979頃 佐和子、誕生(母31~34才)
☆1979 東京革新都政・大阪革新府政、敗退
☆1979 ソ連のアフガニスタン侵攻を日本共産党が批判
☆1979 共産党「地方議員活動の手引」発行
☆1983 立会演説会廃止
☆1983~1984 トマホーク配備反対闘争(佐和子4~8才頃)
1983~1987頃 母、うたごえ運動を公民館等を借りて活動(母38~42才頃)
○竹本「(母が市議選にはじめて立候補した時より十年前にロシア革命歌「エフヤブラチカ」を)お母さんから教えたもらった」
○佐和子「『小さなりんご[エフヤブラチカ]』…『インターナショナル』、『赤旗の歌』、『ワルシャワ労働歌』…母が歌っていた、幼少期から身の回りにあった歌」
1991~1994頃 母、県委員会勤務員になる(母46~49才頃)
同 佐和子、高校入学
☆1991 ソ連崩壊、日本共産党はソ連党=巨悪の解体を歓迎
☆1992.12 「世界政治」(日本共産党発行雑誌)停刊
☆1996 衆議院選挙に小選挙区比例代表並立制が導入
☆1992~1995 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1994~1997頃 佐和子、東京の大学(ロシア語科)に進学(~2000頃まで在学)
○佐和子「大学で(ロシア語を)学んでたから。母がロシア――当時のソ連に憧れてたんです。社会運動に命を捧げている人でね。ロシア留学に行くっていう母の夢が、いついのまにか私の夢になってた」「母にとって…ソ連って国は、文化的素養の象徴たっだ。そして母にとっての共政党は、都会への憧れもあって善そのものだった。田舎の因習から解き放って、女性の地位を認めてくれて、うたごえ運動で仲間もできて…」
同 母、市議会議員立候補(母49~52才頃)
○佐和子「大阪や東京は革新府政、革新都政後の名残もあったけど、地元はまだまだ保守層が強かった」
○立候補同士の討論会で母が他候補者に「あなたなんて私立文系おじさんじゃないですか」と発言したが相手に批判されると「言ってません」としらを切るのを見て佐和子は母の圧倒的な正しさ(佐和子にとっては苦しさ)が崩れた。
同 佐和子、18歳で入党
○母は「お父さんが特攻隊で死んだから戦争はダメだっておもうようになった」と演説したが、佐和子は図書館で祖父が病死したことを知り、母の虚言だと知り「母の業をいっしょに背負うことが『共政党の子ども』の責務だと、いつからか荷物を背負いすぎていた」
1999~2002頃 佐和子、2年間ロシア留学(佐和子23~25才頃)
2001~2020頃のうち6~7年間 党中央委員会国際部の勤務員(ロシア語の翻訳の仕事)
2020 佐和子、地元(母の近く)に転居(母75才、佐和子41~44才頃)
…
以上である。
◆ソ連崩壊後も、ソ連への母親の「憧れ」は娘に伝播するか
だれでも感じるであろう疑問は、1963年入党の母がソ連に憧れ、その思いを娘が大学進学する1994年頃(ソ連崩壊は1991年)まで持ち続け、それを娘に語り続け、その影響を受けた娘・佐和子がロシア語を専攻し、ソ連崩壊後のロシアに留学してしまうことだ。
『ほくいも』では、これをとくに問題ないというふうに、さらりと、佐和子に語らせている。
日本共産党がソ連共産党を否定的にみていなかった1962年までに青年同盟に加盟していた母であれば、ソ連に憧れる感情を持っていても不思議ではない。ただし、1963~64年には日本共産党はソ連共産党から干渉を受け、党内につくられたソ連分派を除名する。その後もアメリカ帝国主義を美化するソ連共産党を徹底的に批判する大論文が出るたびに党員はそれを学習したはずである。
もちろん日ソ協会など友好団体は継続して活動しており、もっぱら音楽などソ連文化面への憧れの感情自体を個々の党員が抱いていても不思議ではないが、1968年のチェコ事件や1979年のアフガン侵攻で盲目的な感情は決定的に冷めるはずである。
また、佐和子が高校生だった1991年にソ連は崩壊する。日本共産党はソ連共産党の崩壊をもろ手を上げて歓迎すると表明しているのである。党県委員会専従の母がどれだけ「歓迎」の街頭演説をしたか、「歓迎」のビラを何回全戸配布したか想像に難くない。
旧ソ連への母の「憧れ」が娘・佐和子に伝播するだろうか。
もちろん、佐和子に、母親の若かりし頃の旧ソ連への憧れの原因を探求してみたいという欲求が生まれたのかもしれないけれど、その思いが、1994年の大学のロシア語科専攻入学や、大学卒業後にエリツィンからプーチンへの政権交代時期のロシア留学にまで至るものだろうか。
あるいは、母親の憧れの原因探求からソ連共産党アルヒーフ研究や社会主義生成期論批判へ知的関心対象が変化したことはありえるかもしれない。
けれど残念ながら、それらのことは『ほくいも』内では、誰も語ってくれない。
◆1980年代前半にうたごえ運動でロシア内戦での赤軍歌を唄うか
つぎに感じる大きな疑問は、うたごえ運動への母親の関わりである。
Wikipedia「歌声喫茶」では、「1965頃をピークに歌声喫茶のブームはうたごえ運動の退潮に連動して急速に衰退、その後の10年ほどでほとんどの店が閉店」との記述が見られる。
竹本という党員が、佐和子の母親が市議選にはじめて立候補した時より十年前にロシア革命歌「エフヤブラチカ」を「お母さんから教えたもらった」と言っているので、1983~1987年頃に、当時38~42才頃の母が「うたごえ運動の一環で市民劇場や公民館を借りて歌う活動団体んごたっとがあって」たわけである。
これも、ちょっと素直に受け止めるのは難しい話である。そもそも80年代前半に、うたごえ運動が地域を巡るほど盛んだったのだろうか。
もしも九州地方北部では、そういう活動がまだ残っていたとしても、ソ連のアフガニスタン侵攻後に「エフヤブラチカ」はどうなの?と思ってしまう。
ロシア革命直後、ソヴェト政権は外国軍隊の干渉と外国の支援を受けた白軍と内戦状態にあったが、この歌は、そんな時代に赤軍兵士たちが白軍を揶揄して歌っていたものだ。
なお、↓の動画は日本語字幕がついているけど、あまり上手く訳せていない。
本当のところは、竹本が記憶違いをしていて正しくは「三十年前」だったのかもしれない。30年前だったら1960年代半ばで、うたごえ運動最盛期だし母も20才前後だった。
◆彼女らを15才早生まれにしてみると
そう考えると、『ほくいも』世界における佐和子と母親の時代設定に難があるのではと思わざるを得ない。
たとえば、彼女らが15年早く生まれた設定にしてみると、
母親誕生1930年、入党1948年、うたごえ運動参加1970年、市会議員立候補1980年。
佐和子誕生1961年、大学進学1979年、ソ連留学1984~85年、党国際部勤務を1986年~92年。
なんとなく、しっくりくるのではないだろうか。1970年ならぎりぎりうたごえ運動をしていても不自然でないし、佐和子のソ連留学もソ連崩壊前となる。
そのうえ、佐和子が党国際部を退職したのは党の雑誌「世界政治」の1992年の停刊時と一致する。
Web版では佐和子の不倫がバレて退職という設定になっているが、卒業制作版では特に退職理由は明示されていない。
もしかしたら、『ほくいも』作者が取材した活動家二世さんは、「世界政治」停刊に伴うロシア語翻訳業務が削減され、国際部とは全然関係ない部署への異動を打診され、退職したのかもしれない。
ただ、この設定では、2023年現在母親は93才、佐和子は63才となる。63才の女性がネットを駆使して、まだ高校生の千秋をオフ会に誘う…というのも少々ウソくさくなりそうだ。
そこで、『ほくいも』作者は、やむを得ず、佐和子の年齢を40才代に若返らせたのだろうか。本当のところは分からないけれども、若返らせるなら、納得感のでるシチュエーションを考えてほしかったと思う。
◆唐突すぎる佐和子の母親批判はリアリティはあるか
最後に、いちばん私が疑問を感じたのが、元党中央委員会国際部勤務員たる佐和子の不可解な母親批判である。
日本共産党は「赤旗」や「前衛」で1980年代や90年代においても、吉本の過去のニセ左翼暴力集団賛美や反核文学者声明への悪罵などの言動の根底にある反マルクス主義や反国民的態度、柄谷の非合理主義からくる戦前国家への共感と戦後民主主義の否定性を批判してきた。彼らは、文壇や文芸批評の分野での活躍はどうあれ、現実社会においては反革命的嘲笑者、闘争現場の破壊者ともいうべき役割を果たしてきたわけである。
除籍後に佐和子が彼らを再評価するにしても、なぜ180度自身の思想基盤を転換させたのか語っていないし、転換を迫るほどの体験があったのかも『ほくいも』世界では見えてこない。
母は文化面ではうたごえ運動で党外の人とつながっていたし、1970年代なら九州北部では、玄海原発反対運動が行われたであろうし、高物価・インフレ闘争も地道にとりくまれたであろう。市会議員候補者になったからには外の人に語らずしては赤旗も党員も増えないだろう。
母は、吉本や柄谷のような現実社会から遊離した「闘争」には関心はなかった。党中央委員会勤務員なら、そういう母を否定的にとらえることに躊躇すると思うのだが、どうだろうか。
しかも、母が「書籍も党の機関紙と綱領以外、読んでい」ないことを若干軽蔑気味に回想しているが、母子家庭で党議員をしていては、その忙しさからやむを得ないだろうと、私なら思うところだ。
批判が母親に向かうのではなく、本を読む時間さえとらせない党機関に向かうのならまだしも。
除籍になったとはいえ、この回想が佐和子本人のものと理解するのは、私にとってはなかなか難しいところだ。
この佐和子の回想は、あまりにも唐突すぎて、本作のリアリティを著しく損なっていると感じてしまうのは私だけだろうか。
◆その他、リアリティを失わせているもの
せっかくだから、あとふたつだけ。
ひとつめは、佐和子の大学ニ年先輩の長岡の発言。長岡は佐和子をコミュニティ「ほくほくおいも党」に誘った人物である。彼は、大学進学で上京中(1995年)に実家が阪神・淡路大震災で被災する。そして、彼によると、親が「震災で一気に党活動に引き込まれていった」らしい。
そのあと彼は「学費も仕送りもたいして出してくれる親じゃなかった――党専従の親なんてたいがい貧乏やから、それは当然なんやけど――ってこともあって、親のことはほんま許せへんくなっちゃった…」と述べる。
彼が大学に進学する時は、まだ親は専従ではなかった(当活動に引き込まれていなかった)と思われるが、一方で、専従だから学費も仕送りも出してくれる親じゃなかったとも語っている。
どちらが正しいのか、私の読解力がないのか。
ふたつめ。
佐和子の母親が私立文系をディスる発言である。
1995年頃に、立候補同士の討論会で、母が他候補者に「あなたなんて私立文系おじさんじゃないですか」と発言する。
それを相手に批判されると「言ってません」としらを切るのだ。
それを見て佐和子は母の圧倒的な正しさが崩れ、一方でそれは佐和子にとっては苦しさからの解放でもあったが、母の業を抱え込むことになる…という大事な場面である。
夜間高校に通った母親は大学進学はしていないだろうと推測できる。
その母親が「私立文系」が否定的な語彙であることが演説会場参加者に共通認識であることを承知したうえで、「私立文系おじさん」と発言した。
1990年代前半の当時40歳代後半の母が、この種のネット独特の言い回しを使うだろうか。
立会演説会は1983年に廃止されたし、2ちゃんねるが登場するのは1995年から4年後の1999年である。
『ほくいも』作者の創作でないとすると、取材相手から聞かされたのかもしれない。国立大学理系卒の共産党議員(もちろん他党の議員も)が公の場でこんなことを発するとは思えないが、もし発したのならそれなりの理由を語ってくれないと読者は困ってしまう。
つづく
つづきの内容は未定。浅間くんのつづきとか、「薄情」とか「決定的な意義をもつようになりかねないそういう種類の些細なこと」とか、書ければ書く。
単行本『ほくほくおいも党』(卒業制作版)は、オンラインで発売してましたが完売していて再版の予定はないようです。
しかし、小学館STORY BOXで連載中(無料)で、毎月10日ころ更新みたいです。
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