4・17スト
『百年』の4・17ストに係る部分。
『七十年』までは記述があったが、『八十年』で記述がなくなり、『百年』で再度追加された記述がある。
その他第3章(1)で追記された主なもの
その他『百年』第3章(1)で『八十年』と比べ追加された(と思われる)記述のうち、私がチェックいれたのは次の箇所。
〇67年総選挙中に、共産党を除いてテレビ討論会が計画されたが法的手段に訴え出席を認めさせたこと(『日本共産党の百年』p24s7)
〇9大会3中総で「要求活動と党勢拡大を『二本足の党活動』…と呼ばれる活動として相乗的に発展させる」ことを提起したこと(同p26s1)
〇50年問題でいったん断ち切られた国民とのつながりを60年代の活動で回復していったこと(同p26s2)
〇数多くの法案への態度が課題であったが、論文「法案審議にたいする党国会議員団の態度」(前衛68.2)によりその内容を明らかにしたこと(同p26s2)
現在もおおむねこの基準で対応しているようだ。このページが書かれた2000年ころは「最近十年間では、その六割近くに賛成」とのことだ。https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/2000514_faq.html
ケネディの二面政策、非同盟運動、キューバ
『百年』では、非同盟諸国の動きに対応するため、ケネディの二面政策がつよめられた、とある。
『八十年』では、キューバの革命政権がしだいに社会主義をめざす道にふみだしはじめたことも、ケネディの二面政策がつよめられた要因と書かれていた。キューバ危機が世界の焦点となったのでとくに記述したのだろう。
60年代初頭の当時の日本共産党は、ケネディの「二面政策」をどうみていたか。
1962年12月の4中総では、世界の各所でアメリカが狂奔していると述べているが、非同盟運動については何も触れていない。当時は非同盟運動を"注視していた"というところかもしれない。
61年綱領で安保廃棄後の中立化政策を掲げてきたが、「非同盟」を前面に押し出すのは1973年の第12回党大会において民主連合政府の非同盟諸国会議参加を打ち出してから。
なお、日本共産党は1948年8月に、コミンフォルムのユーゴスラビア党批判に基づき、ユーゴスラビアを非難する決定をした。その後も60年代中頃までユーゴスラビアに対して否定的な評価をしていたように見受けられる。だが、1972年の『五十年』で誤った決定であったと自己批判した(『五十年』増補版p125、『百年』p15s3)。
各個撃破戦略の矛先「他の地域」とは
『百年』は「各個撃破戦略」を、米国が対ソ接近戦略をとりつつ攻撃の矛先を「他の地域」に向けることと記述している。「他の地域」とはどこなのか気になるところ。
『八十年』は「社会主義をめざすより小さな国や民族解放運動を」と記述していた。
『七十年』は「民族解放運動や、中国、朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国」と書かれていた。
外国党大会参加の日本共産党代表団長名を書き忘れ
外国の共産党との会談等について記述する場合『百年』は「日本共産党代表団(団長〇〇)」と記載する。
だが、61年11月のソ連共産党第22回大会に出席した日本共産党代表団の団長名を書き忘れている(『百年』p26s5)。
『八十年』には「党代表団(団長野坂参三、副団長宮本顕治)」とあった。
20世紀の歴史的偉業
『八十年』の「歴史的偉業」の記述は、『百年』では削られた。
ベトナムへのソ連からの援助が強まった理由
ベトナム党との会談における記述で「ソ連からの援助が強まっていることも知らされました。」とある。
『八十年』を見ると、日本党の訪問目的に「ソ連のベトナム支援の実情」をベトナム党から聞き出すことも含まれていたことが分かる。
また、援助が強まったのは「フルシチョフ失脚後」と書かれている。米帝美化の現代修正主義者が失脚したから援助が増えたという含意があったのだろう。
『百年』ではブレジネフ指導部が(その本心はどうあれ)援助を増額したという事実だけを書いている。
つづく