『日本共産党の百年』読書ノート その6


4・17スト

『百年』の4・17ストに係る部分。
『七十年』までは記述があったが、『八十年』で記述がなくなり、『百年』で再度追加された記述がある。

64年4月、党は、労働組合が計画していた4・17ストライキに反対する、指導上の誤りをおかしました。宮本書記長が病気で不在の時期に、一部の幹部が毛沢東の提唱した「反米愛国の統一戦線」との主張に影響をうけ、ストライキを"米日反動のたくらむ挑発スト"と評価し、反対の声明をだしたのです。

『日本共産党の百年』p24s5

64年春、党は、労働組合が準備していた4・17ストライキに反対する、指導上の誤りをおかしました。この年の1月、中国を訪問して、毛沢東の「反米愛国統一戦線」の提唱の影響をうけた一部の幹部が中心になって、毛沢東の提唱した「反米愛国の統一戦線」との主張に影響をうけ、このストライキがアメリカのたくらむ「挑発スト」と位置づけ、党中央の名で反対の声明を発表したのでした。

『日本共産党の八十年』p168

64年の春闘のさい、党は、労働組合が準備していた4・17ストライキに反対するという重大な指導上の誤りをおかした。これは、宮本書記長が中国東南部の広州で肺炎後の療養生活をおくり、袴田里見、松島治重両幹部会員が、ソ連、中国、朝鮮、ベトナムを訪問するなど、幹部会の集団指導がよわめられている時期におこった問題であった。

『日本共産党の七十年』p320

その他第3章(1)で追記された主なもの

その他『百年』第3章(1)で『八十年』と比べ追加された(と思われる)記述のうち、私がチェックいれたのは次の箇所。
〇67年総選挙中に、共産党を除いてテレビ討論会が計画されたが法的手段に訴え出席を認めさせたこと(『日本共産党の百年』p24s7)
〇9大会3中総で「要求活動と党勢拡大を『二本足の党活動』…と呼ばれる活動として相乗的に発展させる」ことを提起したこと(同p26s1)
〇50年問題でいったん断ち切られた国民とのつながりを60年代の活動で回復していったこと(同p26s2)
〇数多くの法案への態度が課題であったが、論文「法案審議にたいする党国会議員団の態度」(前衛68.2)によりその内容を明らかにしたこと(同p26s2)

(1967年5月、6月に)中央委員会の指導のもとに国会議員団会議を数回ひらき、国会での法案審査方針として次の一応の基準をきめ、第55特別国会にのぞんだのである。
 法案等諸案件の審査についての基準
 1 その案件が大衆の利益の点からみてどういう意味をもっているか。
 2 たとえ一部の改良があるとしても、それが原則上の取引きになっていないかどうか
 3 大衆の意識水準に照らしてどういう関係をもつか。

第55国会と…第56国会とのあいだに、わが党がとった政府の法案等にたいする態度は、次の結果となった。
 賛成率 26.3%
今国会で賛成率が若干高くなった…

谷口善太郎「法案審議にたいする党国会議員団の態度」(『前衛』1968.2)

現在もおおむねこの基準で対応しているようだ。このページが書かれた2000年ころは「最近十年間では、その六割近くに賛成」とのことだ。https://www.jcp.or.jp/faq_box/001/2000514_faq.html

ケネディの二面政策、非同盟運動、キューバ

『百年』では、非同盟諸国の動きに対応するため、ケネディの二面政策がつよめられた、とある。
『八十年』では、キューバの革命政権がしだいに社会主義をめざす道にふみだしはじめたことも、ケネディの二面政策がつよめられた要因と書かれていた。キューバ危機が世界の焦点となったのでとくに記述したのだろう。

61年9月1日にベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議が開かれ、帝国主義・植民地主義反対、軍事ブロック反対と平和共存などを掲げる非同盟運動が発足しました。
こうした世界の変化に対応して、アメリカのケネディ政権は、「平和」や「進歩」の言葉をかかげながら、戦争と侵略の政策を追求する二面政策を強めていました。

『日本共産党の百年』p26s4

61年9月には、25カ国の参加で非同盟諸国首脳会議が発足しました。また、アメリカのすぐ隣のキューバでも、59年1月に誕生した革命政権がしだいに社会主義をめざす道にふみだしはじめていました。
ケネディ政権の二面政策は、世界情勢のこうした変化に対応したものでした。

『日本共産党の八十年』p180

60年代初頭の当時の日本共産党は、ケネディの「二面政策」をどうみていたか。
1962年12月の4中総では、世界の各所でアメリカが狂奔していると述べているが、非同盟運動については何も触れていない。当時は非同盟運動を"注視していた"というところかもしれない。
61年綱領で安保廃棄後の中立化政策を掲げてきたが、「非同盟」を前面に押し出すのは1973年の第12回党大会において民主連合政府の非同盟諸国会議参加を打ち出してから。

アメリカ帝国主義は複雑な二面政策をとり、ジュネーブでの軍縮交渉に参加しておきながら、世界各地で戦争と侵略の体制をつよめるためにひきつづき狂奔している。
ベトナムの解放運動にたいする「宣戦布告なき」事実上の侵略戦争、…タイへの出兵、南サハリンへ…中国へ侵入したU2機、ひきつづきキューバへの侵略と挑発の策動…西ベルリンを基地として…社会主義国への挑発をつづけている。

今年の夏…ソ連が…核実験を再開したのをとらえて、…世界の緊張の原因を「二つの軍事ブロックの対立」として、社会主義国と資本主義国の軍事力を戦争勢力として同一視すること…は、帝国主義戦争勢力を免罪

第8回大会第4回中央委員会総会幹部会報告(「前衛」1962.12  p5)

1961年にベオグラードで開かれた非同盟諸国会議において、ユーゴスラビアは、非同盟諸国の全体的利益と東西両ブロックの「排他的な性格」との対立を正面に押し出し、この会議を事実上中立主義的な「第三のブロック」結成への出発点にしようと試みたが、この企ては、インドネシア、キューバなど…によってしりぞけられた。

不破哲三「現代修正主義の世界綱領(下)--ユーゴスラビア修正主義批判」(「前衛」1963.12)

…いかなる軍事同盟にも参加せず…中立法を国会で制定し…中立宣言を採択…する。…平和・中立国家として非同盟諸国会議に参加し、反帝・平和の連帯を強化する。

民主連合政府への日本共産党の提案(「前衛」1974.1臨時増刊 p225)

なお、日本共産党は1948年8月に、コミンフォルムのユーゴスラビア党批判に基づき、ユーゴスラビアを非難する決定をした。その後も60年代中頃までユーゴスラビアに対して否定的な評価をしていたように見受けられる。だが、1972年の『五十年』で誤った決定であったと自己批判した(『五十年』増補版p125、『百年』p15s3)。

各個撃破戦略の矛先「他の地域」とは

『百年』は「各個撃破戦略」を、米国が対ソ接近戦略をとりつつ攻撃の矛先を「他の地域」に向けることと記述している。「他の地域」とはどこなのか気になるところ。
『八十年』は「社会主義をめざすより小さな国や民族解放運動を」と記述していた。
『七十年』は「民族解放運動や、中国、朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国」と書かれていた。

党は、ケネディ政権の…世界戦略を「各個撃破戦略」と特徴づけました。これは、アメリカが対ソ接近政策をとりながら、攻撃の矛先を他の地域に向けようとしていることを警告・解明したもの…

『日本共産党の百年』p26ss4-5

…党は…アメリカの世界戦略を「各個撃破戦略」と特徴づけました。これは、アメリカがソ連にたいしては「緊張緩和」政策をとりつつ、社会主義をめざす小さな国や民族解放運動などを個別にうちやぶろうとする政策をとっていることをあきらかにし、警戒をよびかけたもの…

『日本共産党の八十年』pp180-181

「…一方ではソ連などの一定の『やわらぎ』に一応応ずる態度をとりながら、『中国封じ込め政策』を中心として、各個撃破的にアジア、ラテンアメリカなどの民族解放運動の圧殺や中国、朝鮮、ベトナムなどアジアの社会主義国への侵略戦争の陰謀」(1963.10第8回大会第7回中央委員会総会)をすすめる各個撃破戦略政策として特徴づけ…

『日本共産党の七十年・上』p331

外国党大会参加の日本共産党代表団長名を書き忘れ

外国の共産党との会談等について記述する場合『百年』は「日本共産党代表団(団長〇〇)」と記載する。
だが、61年11月のソ連共産党第22回大会に出席した日本共産党代表団の団長名を書き忘れている(『百年』p26s5)。
『八十年』には「党代表団(団長野坂参三、副団長宮本顕治)」とあった。

犬丸 『(日本共産党の)四十五年』では、さっきいったように現代修正主義グループを追放したという事情もみえて、志賀義雄の名前やさかのぼっては堺利彦の名前が記載されていなかったり、あるいは名前があっても役割も書かれていませんでしたが、『五十年』の場合は、現在、共産党との関係がどうなっていようと、事実は事実として書き、的確な評価をくだすというかたちになっています。

犬丸義一・小林栄三・飯塚繁太郎『「日本共産党の研究」の研究』p39

20世紀の歴史的偉業

『八十年』の「歴史的偉業」の記述は、『百年』では削られた。

当時まだ小さな党であった日本共産党が、一歩もひかずにたたかい、(ソ連の)干渉攻撃をうちやぶったことはまさに20世紀の歴史的偉業というべきものでした。

『日本共産党の八十年』p186

ベトナムへのソ連からの援助が強まった理由

ベトナム党との会談における記述で「ソ連からの援助が強まっていることも知らされました。」とある。
『八十年』を見ると、日本党の訪問目的に「ソ連のベトナム支援の実情」をベトナム党から聞き出すことも含まれていたことが分かる。
また、援助が強まったのは「フルシチョフ失脚後」と書かれている。米帝美化の現代修正主義者が失脚したから援助が増えたという含意があったのだろう。
『百年』ではブレジネフ指導部が(その本心はどうあれ)援助を増額したという事実だけを書いている。

(北爆開始後)の時期に、中国共産党は、ベトナム支援の国際統一戦線に頑強に反対しはじめました。"ソ連はアメリカ帝国主義の共犯者だから、かれらをふくむ共同行動に反対する"という主張です。
党は、こうした状態を放置せず、ベトナムの実情を知り、まちがった方針をかかげる中国と話し合うことが国際的責務と考え…(66年9月のベトナム労働党との会談を行い、ベトナム側から)ソ連からの援助が強まっていることも知らされました。

『日本共産党の百年』p27s7

(北爆開始後)の時期に、中国共産党は、ベトナム支援の国際統一戦線に頑強に反対しはじめました。"ソ連はアメリカ帝国主義の共犯者だから、ソ連をふくむいかなる国際的な共同行動にも反対する"…という主張です。…
党は、ベトナムの実情、ソ連のベトナム支援の実情を知る必要がある、また、まちがった方針をかかげる中国共産党指導部と…話し合うことが国際的責務と考え…(66年9月のベトナム労働党との会談を行い、ベトナム側から)フルシチョフ失脚後、ソ連の援助もつよまっていることも、具体的に確認されました。

『日本共産党の八十年』pp187-188

つづく

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