春日庄次郎らの権力問題の軽視
第8回大会前の綱領討議での春日らについての記述。ほぼ『八十年』と同じ記述。
アメリカ帝国主義打倒は、革命課題=権力問題であるにもかかわらず、それを軽視したという点を春日らは批判されたので、正確には「権力問題抜きの教条主義」と『七十年』のように記述しないといけない。
革命における「国会で安定した過半数」
『百年』は、第8回大会の箇所で、61年綱領を次のように説明している。ほぼ同じ表現が『八十年』にもある(『八十年』p159,p160)。
61年綱領を次に示す。
「国会で安定した過半数」は「革命の条件をさらに有利にすることができる」と書いている。そもそも61年綱領は、権力獲得の"方法"については規定しないことにしているのだ。だから「国会で安定した過半数」は"それができれば一番いいよね。そうなるよう努力しよう"という位置づけである。
逆に言えば、「国会で安定した過半数」がなくても権力掌握の可能性はあるという規定なのである。敵の出方によって国会が開催できなくなった場合でも、革命をあきらめるなという規定にしている。
なお、新しい民主主義革命は、独占資本の打破という点で社会主義的だが、農業や中小企業はまだ資本主義が残るので、社会主義的変革と区別している。だから、「連続的に」「急速に発展」という規定になっている。
現綱領を次に示す。
「国会で安定した過半数」を占めるならば、統一戦線の政府・民主連合政府をつくることができる、と規定している。
また、民主主義的変革による独立・民主・平和の日本の段階と、資本主義を乗り越える次の段階である社会主義的変革は、まったく別の段階と規定されており、連続的でも急速に発展させるものでもない、とされている。
61年綱領における君主制廃止の段階
『百年』の第八回大会の箇所で、「[61年]綱領は…『君主制を廃止』する問題を将来の目標におき」と記述している。
本noteの「(2)第2章部分」の「『党史』刊行時点での天皇条項に関する見解」が同じ論点なのでそちらを参照のこと。
https://note.com/aikawa313/n/nbe8ec3a8c8e7#7bc18841-4e06-4e1f-83c1-56f9b75d3c1a
(3)第3章部分
中ソの核実験は防衛的だとの見方は誤りだったと自己批判
『百年』で共産党は、60年代に中ソの核実験は防衛的だとの見方をしたことは誤りだったと自己批判した。
その原因は、核抑止力論やソ連覇権主義に対する批判的認識が不十分であったから。
また、73年に中ソの核兵器がすでに防衛的なものではないと見方を変えたが、その際に、"60年代の中ソの核実験にたいする党の見方は正しかった"としたことも誤りだったと自己批判した。
〇現在から振り返れば誤りだった(当時はやむを得なかった)と言ってるのか、それとも、当時からそういう批判的認識を持つことが可能だったにもかかわらず見破れなかったということなのか。
〇当時、社会党の「いかなる国の核実験にも反対」論を、社会主義国と米帝国主義と同列視し、米帝を免罪するものだと批判していたが、それも間違いだったということか。
〇"アメリカが戦後の核軍拡競争の起動力であった"(いわゆる米帝起動力論)も間違いだったというのか?
〇この自己批判は、原水協や平和委員会などの活動にどういう影響を及ぼすことになるのだろう。『百年』公表後約1週間後に原水禁世界大会が催されたが特段話題にもなっていないようにみえる。
〇なお、『百年』では、部分的核実験停止条約にたいする党の態度、原水禁禁止運動にかんする党の態度、については従来どおり正しかったものとしている。
論点も多岐にわたるので『前衛』などで解説論文をはやく出してほしいものだ。
参考資料:日本共産党第9回大会(1964.11)にたいする中央委員会の報告
参考資料:73年に宮本委員長が記者会見で、中ソの核兵器にたいする新しい党の対応について、次のように述べた(『七十年』より)。
参考資料:84年9月の日ソ両党会談予備会談において、日本側は、核軍拡起動力はアメリカ帝国主義だが、ソ連も核軍拡の一翼を担ってきたと主張した(『七十年』より)。
つづく