『日本共産党の百年』読書ノート その1ver2


はじめに

『日本共産党の百年』(日本共産党中央委員会 2023.7)の読書ノートです。
『百年』の一節を読んだあと『八十年』の該当箇所を読み、気づいたことや気になって調べたことを、適当に書いています。
『百年』全体に対して論点を提示して自論を展開する、なんてことはしていません。
twitterでツイートした内容と同じことを書いている場合もあればそうでない場合もあります。

(1)第1章部分

党創立までの前史の記述

すでに少なくない人が指摘しているが、『百年』では、日本共産党創立までの前史の記述が、『八十年』の約10分の1に圧縮されてしまい、31行しかない(『百年』p1ss1-2)。
『八十年』では5ページをつかい、明治維新、天皇の絶対支配、日清戦争、朝鮮の植民地化、日露戦争、韓国併合、対華21か条要求、シベリア出兵などの国内外の概史、および日本における自由民権運動、大正デモクラシー、社会主義研究会、社会民主党、平民新聞、米騒動、メーデー、友愛会などの社会運動史を叙述したあと、次のように続ける。

このような社会進歩をめざす運動のひろがりと、1917年にロシアでおきた社会主義革命の国際的な経験をへて、21年、日本共産党準備委員会が組織され(ました。)…
22年の1月から2月にかけて…コミンテルン…のよびかけでひらかれた極東民族大会に、代表をおくりました。この大会への参加と、1921年いらいコミンテルンで活動していた片山潜らの援助も、日本共産党の結成をうながす力となりました。

『日本共産党の八十年』p18

上記のような前史の記述が『百年』にはない。そのため、共産主義者がいきなり降臨して党を結成したような、よくない"出だし"となっている。

また、『八十年』では、21年7月の党創立の記述のあとに、時系列に沿って、「日本共産党とコミンテルン」という項があり、22年1月に正式にコミンテルン日本支部として認められたことや、コミンテルンの意義や弱点の説明が続く。
しかし、『百年』では「日本共産党とコミンテルン」の項は、27年テーゼに関する項のあとに移されてしまった。しかもそこで叙述されている内容は『八十年』とほぼ同じである。読者の理解を妨げるような不自然な構成になっている。

朝鮮人共産主義者の入党

朝鮮人の日本共産党員に関する記述は、これまでの党史をざっと繰ったが見当たらず、『百年』が初めてではないかと思う。

31年4月…このころには、在住地の党に参加するというコミンテルンの方針で、朝鮮人共産主義者も入党し、さまざまな分野でその活動をすすめました。

『日本共産党の百年』p5s3

以下、戦前期の在日朝鮮人の運動を対象とした岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』、戦前戦後の外国籍党員の活動について著した黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト:1920-1970年』からの引用。(断っておくが、これらは各執筆者の論述であって党の見解ではない。)

こうして、朝鮮共産党日本総局じたいが日本共産党に発展的解消をとげた。それは、コミンテルン第6回大会の決議にもとづくといわれるが(吉浦大蔵『朝鮮人の共産主義運動』)、1931年10月に朝鮮共産党日本総局の名で明らかにされたところでは、コミンテルンの指令ではなく客観的情勢の変化にともなう大衆の自然成長的創意によるものであったという(『赤旗』1931年11月23日号)。

岩村登志夫『在日朝鮮人と日本労働者階級』(校倉書房1972)p184

順調に拡大する朝鮮人労働運動に激震を起こさせたのが、「一国一党の原則」のもとでの労働組合の組織的一本化の要求だった。…全斗鎔は、朝鮮人への「狙い撃ち」の弾圧に立ち向かいながら運動の再編をはかるために、第二次日本共産党の指揮下で日本人労働者と共闘して階級的労働運動を行うべきであると主張した。

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト:1920-1970年』(有志舎2020)p120

「政治テーゼ草案」をもちかえったのは「31年秋」なのか?

「政治テーゼ草案」の内容は、31年秋に、コミンテルン関係者と会同した党員がもちかえったもので、日本の当面する革命を社会主義革命の方針に転換せよという誤った指示をふくんでいました。その内容を知った野呂栄太郎は、賛成できない旨を党の会議で表明しましたが、野呂は意見をふりまいたり、党外にもちだすようなことは、いっさいしませんでした。

『日本共産党の百年』p6s2

1930年後半から、「27年テーゼ」を再検討してあたらしいテーゼをつくる活動が、コミンテルンではじめられていた。この討論が正式の決定にまでいたらないあいだに、日本問題を検討する委員会にかけられた最初の草案の一つを、コミンテルンのこの問題の関係者が風間丈吉、紺野与次郎らの帰国の際に日本にもちこませ、党中央委員会は、それにもとづいて、1931年4月から、あたらしい「政治テーゼ草案」を「赤旗」に4回にわけて発表した。

『日本共産党の七十年・上』p89

『百年』は、政治テーゼ草案が「31年秋に」もちかえったと書く。
『八十年』は、「31年に」で「秋」の文字はない(『八十年』p44)。
『七十年』は、「1931年4月から」赤旗に4回(「年表」では39・42・43・44号)にわけて発表と書いているので、もちかえったのは31年4月以前になる。
新史料が発見され訂正したのだろうか。別途公開してほしいところ。

『日本資本主義発達史講座』の準備期間に「もちださなかった」

「野呂栄太郎は、賛成できない旨を党の会議で表明しましたが、野呂は意見をふりまいたり、党外にもちだすようなことは、いっさいしませんでした」との記述が新たに『百年』に追加されている(『百年』p6s2)。
なお、『七十年』の記述をもとに時系列に整理すると以下のとおりであるが、32年5月に『発達史講座』を刊行しているのでその準備作業に着手したのは刊行の相当前からと思われる。「意見をふりまいたり、党外にもちださなかった」という根拠資料を別途公開してほしいところ。

31年4月 「赤旗」で「政治テーゼ草案」を公表(コミンテルンの承認し
      た事実上の決定として発表された)     
32年5月 『日本資本主義発達史講座』の刊行開始
32年5月 コミンテルンが32年テーゼを決定
32年7月 「赤旗」で32年テーゼを公表

『日本共産党の七十年・上』pp89-93

(2023.8.21追記)
「根拠資料を別途公開してほしい」と書いたが、「政治テーゼ草案」と野呂の「講座」準備との関係については、不破哲三「戦前の理論史と野呂栄太郎 : 一九三〇年代に焦点をあてて」(『前衛』2012.9/不破哲三『歴史に学ぶー日本共産党史を中心に』所収)が詳細を論じていた。
同論文によれば、野呂は、党の事実上の承認のもと、『講座』刊行準備を進めていたとのことである。
そうであれば、『百年』の記述は、たとえば「総合雑誌に意見をふりまいたり、党外にもちだすようなことは、いっさいしませんでしたが、『講座』発刊準備にあたっては、『政治テーゼ草案』にこだわらずに研究を進めることについて党の事実上の後押しがあり、非党員研究者も含めた大規模な共同研究に取り組むこととなりました」のように書いたほうがより読者の理解が深まるし、より共感も得られたであろう。

野呂はもう党に入っていましたから、反対意見はきちんと述べながらも、いろいろな雑誌[「中央公論」や「改造」などー引用者注]などに発表する諸論文で、革命の性格に触れる時には「テーゼ草案」の規定を引用する。しかし、主要な論点は「広範な民主主義的な任務」の方の解明に置く、という論じ方をしていました。たとえ、「草案」の呼称をつけて発表されたとはいえ、党中央が決定しその責任において発表した文書ですから、自分の反対意見を対外的に述べることはきびしく自制したのです。…
野呂を中心とする『日本資本主義発達史講座』の計画は、32年春、まさにこの時期に始まったものでした。…ここでは、野呂は、雑誌での論文執筆の態度とはちがって、「政治テーゼ草案」を前提とする態度は、一切とっていません。…
党が「政治テーゼ草案」を発表した条件のもとで、その戦略構想とはまったく違う観点を貫いた『講座』がどうしてこの時期に実現されたのか。…しかも、その野呂は、『講座』の計画の進行中に、党の中央委員に選ばれました。…
私[不破]は、こうした経過は、『日本資本主義発達史講座』の発刊という発意の背景に、党のバックアップが(後押し)があったことを物語るものだと、推測しています。
31年当時、野呂が緊密な連絡をとっていたのは、中央指導部の一人・岩田義道でした。…岩田自身、…中国侵略戦争に向かって突き進む日本の情勢や、獄中から伝達された旧指導部の反対意見、また最終決定でない中間的なテーゼ草案でにわかに「27年テーゼ」をおきかえる唐突さなどが、この機会に日本社会の研究を本格的にやって、運動の路線の科学的な基礎を明らかにしたいという思いを強めたのではないでしょうか。…
岩田は、この立場から…「テーゼ草案」にこだわらずに、日本のマルクス主義理論化の力を集めて、日本社会の本格的な研究をやってほしい、こういう意味で野呂を中心とした『講座』推進の後押しをしたのではないでしょうか。…
この後押しが、…確定的なことは言えませんが、『講座』計画の進行中に野呂が中央委員に選ばれた事実は、党指導部の集団的意向とする見方に一つの有力な根拠を与えるものです。
そういう党のバックアップがあったからこそ、野呂は、「政治テーゼ草案」の路線になんら遠慮することなく、日本資本主義の本格的分析をもって日本革命の事業に貢献することだけを目的として、多くの研究者を大胆に結集した大規模な共同研究を思いきって推し進めることができたのでした。

不破哲三「戦前の理論史と野呂栄太郎 : 一九三〇年代に焦点をあてて」(『前衛』2012.9 pp24-34

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?