『日本共産党の百年』読書ノート その10


(4)第4章部分

真の平和綱領のために

『百年』。「世界平和と核兵器廃絶をめぐる国際論争」の部分。
「真の平和綱領のために」において核抑止論にソ連が陥っていることを批判したことが追記された(『八十年』には記述なし)。

党は、81年6月…、「真の平和綱領のために」を発表し(ました。)
…党が、核抑止論を明確に批判し、ソ連がこの…誤謬におちいったことを正面から批判したことはその後の国際情勢の展開にてらして大きな意義をもつものでした。

『日本共産党の百年』p37ss4-5

1973年に中国の核実験をうけ、日本共産党は「中ソの行動がすべて無条件に防衛的なものだとか、よぎなくされたものだとは、簡単にいえなくなってきている」との態度表明を行った。
今回1981年の「真の平和綱領のために」では、70年代よりも危険な国際政治の体系が生まれており、その原因に(アメリカに加え)ソ連が「軍事力均衡論」に陥ったことがあるとした。アメリカ帝国主義が軍拡競争の起動力であるとの見解は変えていない。

…このワルトハイム報告は、帝国主義アメリカをも社会主義ソ連をも同列においたものとなっているが、これは一つには、核軍拡競争の悪循環によってアメリカとソ連の区別がつかなくなっていることの反映でもある。
しかし、世界の基本的な階級構造を土台としながら、この報告が精密に分析した、米ソ両国の核兵器の均衡という恐怖にみちた悪循環の構造と論理が、今日の戦争の脅威を生み出す大きな要因となっていることは見落とすべきではない。この意味で、われわれは、報告のつぎのような明快な結論に全面的に同意する。
「核軍縮への道が長く困難であるにしても、ほかにとるべき選択はない。核戦争の危険を防止することなしに平和はありえない。もし核軍縮が現実になるものとすれば、恐怖の均衡による相互抑止という行為は放棄されなければならない。抑止の過程を通じての世界の平和、安定、均衡の維持という概念は、おそらく。存在するもっとも危険な集団的誤謬である」
ソ連共産党第26回大会が明らかにした、公然たる「軍事力均衡」論の採用は、ソ連がこの「もっとも危険な集団的誤謬」としての抑止による均衡維持という概念に、アメリカ帝国主義につづいておちいったことの自認を意味している。

「真の平和綱領のために」(1981.6)『前衛』p46

朝鮮総連との関係回復

『百年』の「北朝鮮の国際的無法」の箇所。
83年の朝鮮労働党との断絶に係るの記述の後に、次の記述が追加されている(『八十年』には記述なし)。
初めて知った。

朝鮮総連とは2000年に…意見が違う問題があっても敵対的な論争はくりかえさないことを確認し、正常な関係を回復

『日本共産党の百年』p38s5

2000年11月に、不破委員長が朝鮮総連代表と懇談している。
https://www.jcp.or.jp/jcp/yakuin/3yaku/FUWA/fuwa-file/201121_22_fuwa_souren.html
2001年5月に、朝鮮総連大会で志位委員長が来賓あいさつしている。
https://www.shii.gr.jp/pol/2001/2001_05/O2001_0526_1.html
ただ、いずれの記事も関係正常化の経緯までは書いていない。

宮本退陣論と幹部政策

『百年』。第19回党大会(1990.7)の箇所に次の文が追加されている。『八十年』に記述はないが、『七十年』にはある。

重要な課題となったのが…マスメディアを利用した反共攻撃、とりわけ宮本議長に矛先をむけ、退陣をせまる集中攻撃を打ち破ること…
幹部政策の基本…が単なる世代の結合ではなく…正確、機敏な指導性を保障すること。…革命的伝統にそって…発展を継続することに、その核心がある。

『日本共産党の百年』p39ss1-2

『七十年』では、宮本議長の論文「歴史にそむく潮流に未来はない」を紹介し、党の指導部論として重要な意義をもつと書いていた。

民主集中制や「宮本議長退陣」論など党の組織原則と最高指導部に焦点をあわせた反共攻撃がはげしく展開されるなか、その影響をうけた一部の人による善意からの意見や誤解、あるいは悪意からの日本共産党についての誤った論調があらわれた。
宮本議長は、こうした事情を考慮にいれながら、論文「歴史にそむく潮流に未来はない」を…連載し、問題を論者のニュアンスに応じて説得的に解明した。

『日本共産党の七十年』p381

その後書かれた共産党の幹部政策の論文はだいたいがこの宮本論文を下敷きにしていると思われる。
同じことが書かれていても、宮本顕治があの文体で書くと印象深いものになる。宮本議長は同論文で、『ゼンボウ』、『週刊朝日』での松岡英夫氏や井上ひさし氏、『朝日ジャーナル』での本多勝一氏の各論に触れながら、(その内容に反論のある人は当然いるだろうが)教条的でなく、官僚的作文でもない、読ませる反論をしている。

目次
1,第19回党大会にむけての秘密警察の作戦
2,日本共産党の指導体制はどのような試練を経て形成されたか
3,まともな批判のみられない大会攻撃と一部の論評にたいして
4,民主集中制の弁証法
5,「赤旗まつりも今年で見納めか」ーこの声をどうみるか
6,わが党は無知ではなかったールーマニア問題補論
7,謙虚だった「私のようなものでも党に入れるだろうか」
8,未来について

…党風としては、日常の最高指導部である政治局会議などで冷静に民主的討議をつくすということがなく、書記長の専決が優先した。これは徳田の個性的な特徴に負うところも多かったと思うが、かれに批判的な意見がでるとどなりつけるということが珍しくなく、私などはこれが前衛党指導部の討議なのかと慨嘆したものだった。その時の印象が強烈だったので、第8回党大会後の党運営においては品性を強調した。たまたまそういうどなるなどの言行におよんだ幹部は、周囲から批判されるようになった。

宮本顕治「歴史にそむく潮流に未来はない」(『前衛』1990.10)

二全協

『八十年』には91年10月開催の第2回全国協議会について簡単に触れていたが、『百年』では削られた。

第二回全国協議会をひらき、客観的条件が成熟している(が)…社会発展の主体的条件が成熟していない…と強調…

『日本共産党の八十年』p271

ついでに、一全協(84年4月)については『八十年』『百年』ともに記述なし。『七十年』は2ページとそれなりの分量(pp191-193)。

…七中総決定の全党への徹底と…充実(の)ため…第一回全国協議会をひらいた。全国協議会は、第14回党大会の規約改定で…ひらくことができる(ようにした)。…

『日本共産党の七十年』pp191-192

なお、2000年の第22回大会の規約改定において、臨時党大会の制度があり全国協議会は不要との理由で削除された。

参考:過去の全国協議会(『七十年』『六十五年』の年表による。正規でない全国協議会にはカッコ「」をつけて表記する)
  第1回全国協議会 1945.11.8-10
  第2回全国協議会 1947.1.6-9
  「第3回全国協議会」 1950.6.18 (所感派の開催した全国代表者会議を三全協と呼んだ。正式ななものでない)
  「第4回全国協議会」 1951.2.23-27 (所感派開催。正式なものでない)
  「第5回全国協議会」 1951.10.16-17 (所感派開催。正式なものでない)
  「第6回全国協議会」 1955.7.27-29 (不正常なもの)
  第1回全国協議会 1984.4.10-13
  第2回全国協議会 1991.10.9-11


つづく

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