『日本共産党の百年』読書ノート その3


占領下の平和革命路線

まずは、『八十年』の、「第五回党大会で」から「欠けていました」までを読んでみる。

次に、『百年』の「第五回大会は」から「欠いていました」まで読んでみる。

『八十年』では、"大きな弱点とは、当面する民主主義革命を平和的な方法で行おうとしたこと"と読解できるし、実際そうであった。
しかし、『百年』では、"解放軍規定は大きな弱点だったが、その他は特に問題はなかった(=占領下平和革命路線は間違っていなかった)かのように"読者が読んでしまう叙述となっている。

所感派も事大主義

『百年』では、1950年コミンフォルム論評への対応について、所感派も国際派も事大主義的だったと書く。『八十年』では記述なし。

当時の党指導部は、宮本をふくめ、コミンテルン時代の名残から、コミンフォルムやソ連共産党などにたいする事大主義を脱していませんでした(『宮本顕治著作集』第6巻408ページ)。

『日本共産党の百年』p16s3

『七十年』では、"国際派の主張自体は正しかったが事大主義的だった"と書かれており、所感派が事大主義的かどうかは触れられていなかった。

論評の意義を当初から主張した人々[宮本ら国際派]の立場をたんなる大国への同調とみることはできない

『日本共産党の七十年・上』p203

朝鮮戦争とスターリンの目的

『百年』では、朝鮮戦争に係るスターリンの目的や意図まで踏み込んだ記述となってます。『八十年』は目的までは書かれていません。

北朝鮮軍が…韓国への攻撃を開始…。この戦争は、アジアで軍事衝突をおこして、アメリカの軍事力をヨーロッパから極東にそらせたいという、スターリンの構想に後押しをうけたもの

『日本共産党の百年』p17s5

…三十八度線で大規模な軍事衝突がおこり、全面的な内戦がはじまりました。この内戦は、スターリンの承認のもとに、北朝鮮の計画的な軍事行動によってはじめられたもの

『日本共産党の八十年』p113

六全協の51年綱領評価

『八十年』では六全協の51年綱領(51年文書)評価に関して次のように記述するが、『百年』では該当箇所(p19s1)に同記述は見当たらない。重大なことなのに。

「六全協」は、…「51年文書」について、その「すべての規定が、完全に正し」かったとして、「51年文書」の承認を党の統一の前提とする誤った立場をとるなど、重大な問題点をふくんでいました

『日本共産党の八十年』pp121-122

臨時中央指導部と旧優性保護法賛成

党国会議員団は、公職追放や川上貫一議員の衆議院からの除名、徳田・野坂分派の「臨中」指導部との関係もあり、さまざまな困難をかかえていました。52年の旧「優性保護法」の改定で…党も賛成して全会一致で成立させるという重大な誤りをおかしました。…

…また、…自由党と改進党との対立を一面的に評価し、首相指名選挙で改進党総裁の重光葵を支持するなどの誤りもありました。

『日本共産党の百年』p18s2

公職追放や議員除名については、議員団に責任があるわけではなにのだから『八十年』の記述のように素直に「困難にみまわれた」と書いたほうがよいだろう。

「『臨中』指導部との関係もあり」は、『百年』で追記されたが、その意味をくみ取るのが困難だ。
その直後に、旧優生保護法改正に賛成した議員団の誤りの文章が続くので、同法賛成の誤りの責任は「臨中」にあるのだろうかと読者は推測しながら読むことになる。
しかし、2023年7月26日に志位委員長は『日本共産党の百年』発表記者会見で旧優性保護法の誤りについて語っているが所感派の責任について一言も触れていない。
https://www.shii.gr.jp/pol/2023/2023_07/D2023_0728_1.html

重光首班論については『七十年』で明確に所感派の誤りだと記載されている。
旧優生保護法賛成が「臨中」の責任であるとする根拠資料を公開してほしいところ。

党国会議員団は、10人をこえる議員が公職追放され、衆議院からの除名などの困難にみまわれましたが、この時期も、全面的な講和をもとめる立場から国会での論戦をつづけていました。

『日本共産党の八十年』p117

51年1月、日本共産党衆議院議員川上貫一は…全面講和と再軍備反対を主張し(たところ、)…国会からの除名(をうけた。)

(武装闘争路線は、)徳田・野坂分派の全面的な指揮下におかれた組織のなかに関連した多くの誤りをうみだした。その一つに1953年の「重光首班」論があった。

『日本共産党の七十年・上』p234,p241

「北京機関」諸組織の解体時期

六全協に係る記述の後に次の記述がある。『八十年』にはない。

『北京機関』に関係した諸組織は、55年中には解体されました。

『日本共産党の百年』p19s2

『七十年』の年表から関連事項を抜粋すると次のとおり。

55年12月 自由日本放送閉鎖
57年3月 北京の党学校閉鎖
57年7月 袴田・河田帰国
58年7月 白山丸で北京機関従事者のほとんどが帰国

『日本共産党の七十年・年表』

党学校が57年まであったのなら『百年』の記述は何なのか。
「諸組織」とあるので放送局以外に55年中に解体した組織があるのだろうか、補足説明が欲しい。


つづく

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