地球上のすべての質量を100%として、毛、1本分くらいの確率。

 映画『ふきげんな過去』観た。実は見るの三回目くらい。めちゃくちゃ好きな映画で偶にふと見たくなる時がある。

 この映画は何も変わらない日常に辟易している主人公の果子(かこ)の前に突如、死んだと思われていた未来子(みきこ)伯母さんが現れ、二人で時間を過ごすことになるという話だ。

 この映画がなぜ俺は好きなのかと言うとそれは主人公の果子の気持ちがとてもよく分かるからだ。彼女が自分の心境を吐露したシーンがある。いとこのカナちゃんが部屋に遊びに来ていて、そこで独り言のように話す。カナちゃんはまだ小学生なのでやたら理屈っぽく話す果子の話が分からず、当然話は噛み合わないのだがそれが逆にリアルでめちゃくちゃ好きなシーン。


「面白さなんて期待するのが間違いで、だいたい同じことの繰り返しの中で感覚を麻痺させていくのよきっと」
「何言ってんのかわかんない」
「人生なんてそんなもんってこと」
「どんなもん?」
「だからー、結局フツーに大人になって、フツーに恋とかして、フツーの男の子と結婚してフツーに暮らして。仮にフツーじゃない男と出会ったとしても……。ねえ?フツーじゃない男なんていると思う?」
「分かんない。いるとおもう」
「……仮にフツーじゃない男がいたとして、さらにそれと私が出会ったとしても、別に空を飛べるようになるわけじゃないのよ」
「なんで空飛ぶの?」
「だから飛ばないの。つまり、結局絶対的な法則からは逃れられないし、その想像を超えることも起こらない。起きたとしてもすぐに対処出来て想像の範囲内の出来事に収まっていくの」
「へー」
「だからもともとつまらないもんなの世界は」
「なるほどね」
「……なにがなるほどなの?」
「………。よくわかんなかった。わかるように話してみてきっとできるから」「いい。一人で喋ってたら変人だと思われるからあんたに喋ってるだけで、本質的には独り言だから」
「本質ってなんだっけ?」
「え?…本物の…………本物」

 人生の普通さについて、みんなどんな風に考えているのだろう。俺は果子と同じように高校生くらいの頃、この世の普通さに気が滅入っていた。漫画とかアニメとかが好きだったから余計に現実とのギャップが嫌だった。当然、普通じゃない人生を送っている奴はこんなことを考えたりはしないだろう。なにかしらの天才少年少女だったり、両親が偉大な科学者だとかピアニストだとか、生まれながらに非凡であることを保証されたような奴にはこの気持ちは分からない。
 しかし田舎出身、地元の公立中学、公立高校を経てきたあの時の俺は当然普通というものに対して行き場のない苛立ちを覚えていた。取り囲む人生は普通過ぎる。何をやったとしても誰かが既にやっていることの二番煎じ。特にネット社会になってきて普通じゃない奴がどんどん表に出るようになって自分のアイデンティティってなんなの?って感じで。
 じゃあやっぱり俺のような普通の奴は普通に学校行って普通に仕事して、普通に結婚して子供が出来て、家族に看取られながら死ぬ……。というテンプレのような人生を受け入れるしかないのか。……というかそういう風にしか未来が見えないことが問題なのだ。「つまんない…全部が。だって、全部なんて全部見えてるじゃない」と果子も言っている通り、自分も世界も普通過ぎるから、どれだけ行っても結局想像の範囲内に自分の人生は収まるんじゃないかって。

 しかし、そんな普通の果子の前に、未来子伯母さんが現れた。彼女は普通じゃなかった。まず、死人であること。死んでいるというのはゾンビって意味じゃなくて死んだとみなされて戸籍がないという意味。死んだと思われたが本人は否定せずモロッコ(?)かどっかに潜伏していたらしい。もうこの時点で意味が分からない。他にも「人さらい」の謎のイケメンと親交があったり、やたら爆弾の作り方に詳しいなど、数奇な人生を現在進行形で歩んでいる人だ。
 彼女がなぜ果子の前にやってきたのか、彼女は一体なんなんだというのはネタバレになるので言わない。けれど、それにならない範囲で一つだけ言うと、彼女もまた、過去に、果子と同じ考えを持っていたということだ。そして人生を変えた。自らの手で数奇な運命をつかみ取った人間。
 未来子伯母さんはなんというか、ある意味天才なんだと思う。俺は映画を見ていてそんな印象を受けた。何か「持っている」人。だから爆弾とか作ったり一度死んでみたりすることが出来たんだと思う。果子とは違う。果子は少し理屈っぽいだけで普通の女の子なのだ。普通の女の子がそんなことはしない。
 だが、影響はされる。
 実際未来子伯母さんと時間を共にするうちに果子の中で何かが変わる。テンプレ人生。ありふれた未来。何も起こらない世界の普通さ。そうやってつまらない、つまらないと言い続けてきた果子は、伯母さんと過ごしたあの爆弾作りの日々の中で何かが変わる。

 最後、伯母さんは果子にこう言った。

「あんたが見てる未来ね、それただの過去よ」

 つまり、そういうことなのだ。果子が想像する未来は実は過去なのだ。過去に彼女に起きたことの範囲なのだ。だから、本当の未来は分からない。過去も未来も全て見えると言っていた彼女にとってこれは大きな意味を持つ。
 ラストシーンで果子が見たものとは一体なんだろう。でも、それは間違いなく彼女の想像の壁をぶち破るものだったに違いない。そういう表情を彼女はしていた。

 

 俺はこの映画が好きだ。果子に共感できるからだ。俺はいつもこの映画を見た後、硝石取りに行って爆弾が作りたくなる。爆弾を作りたくなるというのはやばい発言だが本当に作りたくなるので仕方がない。みんなもみよう。

 また、俺はこの作品を作った前田司郎さんの映画がとても好きで『ジ、エクストリーム、スキヤキ』も何回も見ている。小説も「誰かが手を、握っているような気がしてならない」を読んだ。しかしもうそれはだいぶ前なので忘れてしまった。また再読しよう。前田司郎さんで有名なのは世にも奇妙な物語の次世代排泄物ファナモだろう。興味のある人は映画も小説もめちゃくちゃ面白いので見て欲しい。独特なセリフ回しでハマる人は会話してるだけで面白いので俺みたいにどのシーンもすこってなる。ちなみに記事タイトルも果子のセリフの一つ。バンドやってるチャラ男にあんたのバンドが人気になる可能性は毛ほどもないという果子。そこで「毛ほどってどれくらい?」と返すチャラ男。彼のその問いに、果子はこう言い放つ。
「地球上のすべての質量を100%として、毛、1本分くらいの確率。」
 このセリフ回しのセンスが半端じゃない。こんな会話している奴らいたらすぐに友達になりたいわ。このチャラ男もそんな質問すんなよ。なんだその質問は。さっきも上で、カナちゃんとの掛け合いも書いたがそれも面白い。前田さんの脚本ではこういう掛け合いが多くて非常に良い。

 語り始めると長くなってしまった。とにかく「ふきげんな過去」面白いのでみんな見てください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?