関東大震災時に流行った「船頭小唄」を聴いて、2011年に無を見たことを思い出した
今回鑑賞する歌は「船頭小唄」です。
作詞:野口雨情
作曲:中山晋平
1923年の関東大震災と前後して流行した歌です。ジャンルとしては、大正時代の民謡、演歌に分類され、戦後は歌謡曲として森繁久彌さんがカバーしたものが有名です。
この記事を書いている2023/9./1は関東大震災からちょうど100年なので、思うところがあります。
哀しみにあふれた歌
船頭小唄は、一組の夫婦が自分たちを枯れたすすきに例えながら、月に向かって泣きつつ、これから利根川の船頭として生きるということを歌う内容です。
パブリックドメインなので、一番の歌詞を載せておきます。
作詞も作曲も震災前なので地震の話は出てきませんが、震災後に何もかもが崩壊した東京市周辺の人々が、この哀しい歌に惹かれ多くの演歌師が歌ったようです。
五番までありますが、昭和歌謡曲の時代には、一から三番を歌う場合が多かったようです。三番と四番は月についての歌詞でつながりが強いので、中途半端な切り方に思いますが、媒体の都合で仕方なかったのでしょう。
日本と災害文学、災害歌謡
災害文学の古典として有名なものはやはり方丈記(1212)ですが、日本と言う国は災害と隣り合わせに成り立っています。
「古事記に書いてある」というネットスラングが昔はやりましたが、大地震の話は少なくとも日本書紀には書いてあります。(古事記はちゃんと読んだことがないのですみません)
日本の古典を読むと高い頻度で災害(地震に限らず台風や火事なども含む)が登場します。方丈記を読みながら無常を感じるというのは多くの日本人が通った道でしょう。
2011年夏の東北で無を見た
ここからは個人的な震災体験です。
私にとってもっとも印象深い地震は2011年関東大震災です。当時私は東京にいたため、帰宅困難な友人を自宅に泊めるくらいで済みました。私の実家は茨城にあるため、ライフラインが一時的に止まったそうです。
およそ五か月後の夏に宮城県沿岸部に行きました。何を見たかと問われると「無を見た」という表現が適切でしょうか。
津波の被災地は何もありませんでした。がれきはある程度まとめられていましたので、本当に何もありません。人の住んだ痕跡はもちろん、木も生えていません。ただの平らな土地です。
生命力の強い草だけがたくましく育つ中、草の間に境界杭を見つけました。
その場所が住宅地であったという知識はあるものの、本当にその場所が人の住んでいた場所であると実感し涙が流れたのを覚えています。
その住宅地がどんな場所であったのか、現地では全く分かりません。地上にあったものは何一つ残っていません。ひどい無力感をまだ思い出せます。
(舗装された道路は残っていたはずですし、土台のしっかりした建築物の跡も残っていたはずなのですが、なぜか草の間に見た境界杭だけが強く印象に残っています。十年以上前の記憶ですし、当時は若かったので、記憶が少々変質しているのでしょう)
震災を前に人は枯れたすすきも同然
震災を前にした人なんて枯れたすすきも同然です。きっと百年前の人も似た感情を抱いたのではないかと思います。根っこがあるだけ津波に対しては枯れすすきの方がマシかもしれません。根無し草という表現がありますが、どこに住んでいようとも人に根っこはありません。
ここ数年、東日本大震災の記憶が薄れていたのですが、再度深く思い出し、こういう記憶を風化させてはいけないなと思って記事にしています。
「船頭小唄」と直接関係ないのではないか、と思う方があるかもしれませんが、歌に関連する出来事を思い起こすというのは、音楽鑑賞において重要な要素だと考えています。本歌取りが千年前に存在したくらいですから、歌の背景は重要です。
結び
災害関係の記録を調べていると気が滅入るものも多いのですが、これが現実なんだなと、受け入れて生きていくしかありませんんね……。
無常はもともと仏教の言葉ですが、日本語の無常はおそらく意味が変質しているだろう、などと思っています。
おまけ
船頭小唄の記事を書いた理由は、私自身の音楽活動としてデュエットアレンジしてカバーしたからです。
ご興味があればどうぞ。
(9/22リリースなので、一部ストアの事前予約を除き22日以降にリンクが表示されます)
https://linkco.re/QQ9VvHc0