ノンフィクションのエピローグ
息を引き取ったその人はまだあたたかかった
昨日から夜勤で病院にいた。夕方から急変したその人はみるみるうちに呼吸が浅くなり2時間後に呼吸をやめた。眠っているようなその体を私はずっと見ていた。
いつも穏やかな人だった。声をかけるとニコッと笑って「ありがとね」や「ごめんね」が口癖だった人。今にも眼を開けそうな雰囲気ではあったが、もう永遠に目覚めることはない。駆けつけた旦那さんは、ずっと手を握っていて「僕が先に逝きたかった」と、ポツリと呟いた。若い時は好き勝手に生きていたお父さん。
私達は親しみを込めて旦那さんを「お父さん」と呼んでいた。毎日朝から面会に来られ、その人が昼ごはんを食べているのを寄り添っている姿が印象的で見ているだけで温かい気持ちになったんだ。10月に入院して3カ月、毎日やってくるお父さんと言葉を交わしいつのまにか家族のような目線で関わっていたんだ。
「笑って昼間別れたのに、どうしてそんなに早く逝ってしまうんだ、ねぇ」
優しい声で語りかけるお父さんの肩は震えていた。
「まだ怒ってくれないとダメだよ、ねぇ」
愛が溢れている言葉を聞き続けるのは辛過ぎて目眩がした。
お父さんが見守る中、呼吸が少しずつ遠くなる。
「お父さん、もう息が止まりそうです。娘さんは後どれくらいで駆けつけられますか?」
生きている間に娘さんにもう一度会って欲しかった。その人の肩をさすりながら自然と
「〇〇さん、きついけど娘さんが来るまで頑張って、もう少しで会えるから」
お父さんと一緒に声をかけ続けていた。その願いも虚しく息を引き取った。
娘さんが到着してから主治医と共にお話をする。
「残念ながら呼吸はもう止まっています。心臓はまだ時々動きますが次第に心臓も完全に止まります。後でお別れの時間を一緒に決めますがそれまでは言葉をかけてあげてください。また伺います」
主治医と共に退室する。
ご家族それぞれがしっかりとお別れの言葉を交わすのは大事で死亡確認の前にゆっくり時間をとるのが最期にできる事だった。
エンゼルケアで全身を保清する。入院中に過ごしていた衣服に着替える。
「いつもの〇〇さんだ」
思わず言葉が出る。
やがて葬儀社のお迎えが来てお見送りをする、いつもの手順…のはずだった。
なのに、その人が居なくなってからも胸に何がつっかえていた。
いつもの事だ、これまで沢山の人の死に立ち会い見届けてきた。仕事だから涙を流してはいけない。家族にしっかりと悲しんでもらうためには決して泣いてはいけない。胸の内側から込み上げてくるものを必死に堪えながら他の仕事を進めていく。
悲しい、寂しい、切ない。
わだかまりを見ないフリして淡々と業務をこなしていく。慣れたものだ、1人の患者に打ち込みすぎると周りが見えなくなってしまう。目に写るものが全てかすんで見えてくる。この仕事で1番辛い瞬間。
黙々と仕事を進めていくと、太陽が少しずつ顔を出し空が明るくなっていた。
駆けつけた頃のお父さんは沢山の言葉をかけていた。そのどれもが「どうして…」の後に続いていく。
たった2時間
どのように受け止めたのだろうか?
最後には「昨日、たくさん話をしました。『若い頃はいっぱい迷惑かけて苦労をかけたね、ごめん』と言うと母さんは『ほんとたい。でもいいよ、ありがとう』とはにかみながら言ったんだ。最期にしっかり謝る事ができたからいいかな」
と、少し寂しそうな声でだけど優しい眼差しで語った。
余命はすぐ近くに迫っていた。医師からの説明も十分にあった。
でも、解ってはいるけどやっぱり少しでも一緒の時間を過ごしたかったと思う。
私はどの立場で2人を見ていたのだろう。
きっと看護師ではなく、いつの間にか家族のように接していた。
それはプロとしてはいけないことかもしれない。患者さん1人1人を平等に看ていかないといけないから。いつものように「もう苦しまなくて良くなったね、お疲れ様でした」と見送っていけばいいのだ。
頭では解っているのに…
家に帰りソファーに座ると、途端に涙となって我慢していた感情が溢れ出す。
本当は泣きたかった、悲しみたかった。
いつもあなたの笑顔に励まされている私がいて、辛い事があっても頑張れた。仕事モードになれずに職場に足が迎えなくても"あなたが病棟で待ってくれている"と思えば、行かなくちゃと奮い立たされた。
顔や性格が違うように、死に様もその人らしい姿になる。1つとして同じケースではない。
散々泣きはらした後、熱くなった体温がサーっと冷めていく。
〇〇さん、今までありがとう。
素直にそう思えた。
そして、私は明日からも生きていく。違う人の心に寄り添い、「その人らしさ」を貫けるように精一杯看護師の目線でサポートしていく。
これからも感情が移入してしまう患者さんにたくさん会うだろう。
厳しい病状を目の前に絶望したり、切なくなったりするだろう。
その思い、大切にしていきたい。
だって私は1人の人なんだから。
看護師の中ではそこまで優秀じゃない。頭が悪いから知識のなさに今でも分からないことが沢山あって毎日学んでいく日々だ。
急な変化にオロオロしたり、自分の中でパニックになったりして冷静に対応できない。
私には人間性を伸ばしていくしかできない。
誰よりも患者さんや家族の思いを近くに感じるスキルを高めていくしかない。
だからこれでいいんだ。
「死」に慣れない。一緒に悲しめる存在になるしか…。
夜勤明けの日、1人の人の物語。
この気持ちを忘れないように。