見出し画像

じゃあ、存在するのは誰?――市川沙央「オフィーリア23号」(文學界2024.5)


 存在する、ということは、そもそもどういうことだろうか。
 名前があることだろうか。他者から「ある」と認められることだろうか。そうであるならば、誰からも、すなわち自分自身から、、、、、、さえも、その存在を「ないもの」とされていれば、それはすなわち「存在しないもの」として元より立ち消えるものだろうか。
そんなことができるのだろうか。本当に?

 市川沙央「オフィーリア23号」は、生育環境によりミソジニーを植え付けられ、男尊女卑思考に(半ば意識的に)過剰適応している女性「那緒」が語り手の小説である。
 権利を求めて戦うより既に出来上がったシステムに乗って上手くやる方が生きやすい、というような、よくあるバックラッシュをそのまま主人公の思想として取り込み、彼女がその思想どおりに自分を「消す」ことを試み、それでも消しきれない自分、思想的に「ない」ものにされていても確実に「ある」もの、記憶、生傷、その身体性によってその「思想」が揺らぎ、ひび割れるまでを描く。

〈ヴァイニンガーの生まれ変わり〉を自称する那緒は、そうするだけあって言葉の強い人物だ。

 SNSでの女性蔑視的な発言をヴァイニンガーのそれと比べ、〈現代人の雑な呟きなど周回遅れのポンコツなエンジンが吐く細切れの黒煙〉〈味噌や醤油の作り方をわざわざ独力で発明する必要はない〉と評す。
 友人の絢子に対しては〈プライドの維持と人生設計にパラメータを全振りして生きている猛禽〉と断じる。
 三島由紀夫に憧れる軽薄な恋人の「和人かずひと」のことも〈ワジン〉という皮肉めいたニックネームで呼び、現代フェミニズムについても〈エマニュエル・トッドじゃないけれど、家父長制って現代日本には存在しないと思ってるんですよね〉と持論を展開し、自身の前世であると信じているヴァイニンガーをすら、〈ペンを走らせながらエレクトしちゃってるに違いない〉と皮肉るのだ。

 全方位にシニカルな彼女の言葉は読んでいて面白い。その一方で、彼女は自分の身体性について確信を持てずにいる。長年悩まされている、雨や低気圧がきっかけで起こる偏頭痛について、彼女は〈私の頭蓋内に頭痛は存在しないかもしれなかった(P110)〉と考える。なぜなら、彼女は医師である父と、その影響を受けた兄に〈気象病などといわれるものにエビデンスなどない〉と、実際に起こる体の変調を幼少期から否定されてきたからである。
 だから彼女はより一層思想を信じる。
〈これほど明確な絶望はないのに、知られる歴史には思想しか残らないのだ。頭痛も思想も頭の中にあって目には見えないが、思想は残る。不公平だ。(P147)〉

 那緒がヴァイデンガーの「女は存在しない」という思想を世に広めようとするのは、そのままその思想を自分に思い込ませるための行為でもある。
 後の世に残るのは思想だけ、と信じる彼女は、そう、女である彼女は、存在しないはずの自らを実際に消そうとすることで現実に適応しようと試みる。そのために、和人との素人AV撮影に積極的に同意し、「オフィーリア」になろうとする、すなわち、狂って死のう、自我を消そうと考えるのだ。

〈けれど、わたしの意識の傍らにはどこまでもつづく石垣が存在していて、いつまで歩いて、走っても、崩れてなどくれない。わたしが消えない。
わたしは消えない。(P156)〉

 那緒は狂うこともできず、嘔吐する。それは和人や、彼女が同化しようとしていた思想への拒否反応でもあろうし、どんなに強い思想にも消し去ることはできない、確実にここに在る自身の肉体との対峙だ。

 このとき彼女が〈壊れた人間になれなかった〉のは何故か。
 自分の「芸術」のために那緒の肉体を利用し、性交する和人に兄を重ねようとした彼女はしかし、兄に犯されたのだと思い込む事ができなかった、、、、、、、、、、、、からだ。
 那緒は、兄についての真実を「存在しないもの」にすることはできなかった。

 この小説内における「女は存在しない」というヴァイニンガーの言葉は、男女を対とし、完全に別物とする二元論を根底として読める。その思想に則って生きたい那緒にとって、例えば兄からも虐待を受けていたのであれば、あるいはそう思い込むことができれば物事はシンプルになった。力を持ち、場を支配する男と、無力で支配される女、と。
 だが、兄はそうはしなかった。現実はそうではなかったことを那緒は知っていた。
 だからこの出来事の後、那緒は兄の勤務する父の病院を訪ね、〈パパが死んだら、お葬式のとき、骨を踏ませてほしいの〉と〈お願い〉をする。そして、彼女は兄にこういうのだ。
〈お兄ちゃまにはまだそんなセンチメンタルな時期は来ていないかもしれないけれど、いつか来るときのために憶えておいてほしいのは〉
〈わたしとあなたは同じ経験をしていた仲間だということです(P160)〉

 では、兄についての真実とはなんだったのだろうか?

 彼は、〈父の嫌味モラハラな言葉遣いを学習し〉、親密さの表現として相手を貶すような、〈藤井家独特な愛情表現の再生産〉をする人物である。妹に対し「おまえ」と呼ぶような人間だが、一方で、「おまえって呼ばないで」と言われるとその都度素直にやめ、「那緒ちゃん」と呼ぶ素直さはあるのだ。このやり取りは、作中で兄の登場する二場面で繰り返されている。
 たったこれだけの描写で彼の優しさを汲み取ることは流石にできないが、「父のような言動」は完全に学習によるものであり、彼自身の本質的な性格と必ずしも合致していないのだろうことは想像できる。那緒自身も〈物にあたる父の暴力衝動をコピーした〉という自覚があるように、特に跡継ぎとして期待をかけられ、母に尽くされてきた兄が一番身近な同性である父の言動を内面化し、コピーせざるを得なかったのは仕方のないことだろう。

 兄は那緒の〈お願い〉に驚きこそすれ、怒りもしないし、理解できないという顔もしない。そのかわり、〈お兄ちゃまもやる?〉と問いかけると、〈能面を被るように表情を消す〉のだった。
〈そうやって兄が能面を被るように表情を消す瞬間を、これまでも何度も見たことがあった。(P158)〉

 そう、那緒が自我を消そうとしたのと同様、兄も自分を消し、押し殺しながら今まで生き延びてきたのだ。
 支配する主体ではない、支配される客体である那緒の兄は、家庭内では確かに、「存在しない男」だった。
 そう思い至ったとき、那緒が羅弥乃ぬみの(フェミニストであり、那緒と肉体関係を持っている女性)に語った、「兄に脅かされそうになった時の話」も異なる印象に塗り替えられる。
医学部の受験で参っていた兄が夜中に突然部屋に入ってきて、部屋の入口で突っ立ったまま無防備な那緒の寝そべる姿をしばらく眺め、それからふと壁にかかったオフィーリアに目線を移し、顔色を変えて後ずさり、お陰で那緒は脅かされる危機を脱した――というエピソードだ。〈怖かったね……〉と寄り添う羅弥乃にしかし彼女はこう答える。
〈怖かったけど〉
〈その3分間だけ、見えないものが見えていた。異能力にとつぜん目覚めたみたいだった。あのとき見えたものが何だったか考えようとすると、きまって頭痛がひどくなるから答えを言語化できない。どうせ言葉にしたところで、見えないものを信じない人は信じないまま変わらない。そうでしょう?(P135)〉

 那緒にはその時何が見えていたのだろうか。兄は本当に那緒を脅かそうと部屋に来たのだろうか?
 父と、その父に殴られる母からのプレッシャーに追い詰められていた彼が、もし、限界を迎えて那緒に助けを求めに来たのだったとしたら。そして、母を連想させる脆弱で神経質な女性ファム・フラジールであるオフィーリアの死姿に父母からの抑圧を思い出し、怯えて後ずさったのだとしたら――。

 那緒は兄を恐れているが同時に憐れんでもいる。娘であることで蔑まれもしたが家から出るという選択肢がある自分に対し、息子である兄は父の跡を継がされ(「継がされ、という自覚がない」という記述は、主人公に「ミソジニーを内面化された」という自覚が当初は薄いのと鏡像関係だ)、いつか自身が家族を持ち父になった時、暴力をも再生産するだろう。道が用意されているからこそ、その連鎖から容易に抜け出すことができないのだ。
 それはすなわち、かつての父もそうであったことを示唆する。
 母が祖母の言葉を内面化して同化してしまったように、父も祖父を、自身の父の振る舞いを内面化し、同化してきたのだろう。全ての母がかつては娘であり、父の支配の被害者であったのと同様、全ての父もまたかつての息子であり、同じく父の支配の被害者であったのだ。
 女対男の構図に持ち込まず、「母と娘の話」として収束されがちな家庭内権力勾配の物語で取りこぼされがちな息子への眼差しを感じ、目の前が開けたような心地になった。

「時間は一定方向に流れているのではなく、すべてここにある」という境地に至った時、那緒は過去に母親を助けなかった自分を顧み、母をスケープゴートにして父の暴力から逃れてきたことを認める。「母のため通報するべきだった」と自らを顧みる。
 声を上げる、ということは、母の、そして自らの痛みを「存在させる」ことだ。痛みを感じる自らの肉体を「存在させる」ということだ。
今も母の叫びは耳に残っている。「存在しない」としてきたすべての物事は、今からでも存在させうる。なぜならば、それは実際に「ある」ことだからだ。
 時間の流れなどなく、一切が「今ある」ものなのだとしたら、取り返しのつかないことなどはそこにはない。だからこそ那緒は兄に「自分たちは仲間だ」と告げたのだ。

 戦争で女たちが兵士に凌辱され殺されている時、また別の場所では強制的に出兵させられた男たちが蹂躙され殺されている。
 どちらが、ではない。どちらも、なのだ。
 現代的フェミニズムを皮肉り、また同時に和人に代表される男のロマンチシズム、ホモソーシャルを嘲るこの小説が、だから翻って性差を超えた連帯の必要性を示唆していると読めるのは、いささかアクロバティックな解釈だろうか?
 しかし、那緒が自らの痛みを無視するように兄の痛みも無視されるのであれば、果たしてこの世に思想上のではない、生身の肉体としての「男」は存在すると言えるのか?
 思想的に規定された「女」を演じるのと、思想的に規定された「男」を演じることに差異はあるだろうか?
 女が存在しない時、同時に男も存在しないのではないか。

〈あえて白か黒かで言うならばわたしも邪悪な者たちの一人〉である那緒は、自らを「灰汁あく色」と称する。
 白でも黒でもなく灰色であるということは、男でも女でもない、それが混じり合った存在であるということだ。ここで言う男女とは身体的なものでも性自認でもなくて、思想として、性質を「男的なもの」「女的なもの」に分けた場合の、比喩的な用法である。ヴァイニンガーの『性と性格』から直接ではなくあくまで小説本文から読み解いたものではあるが、最後に明かされる〈トランスジェンダリズムを先取りする思想でもあった〉というのも、人はみな(伝統的な性規範における)男性的性質と女性的性質を両方持ち、その間で揺れ動きうるということであろうと解釈した。

 幾重にも捻れて容易にはその本心が掴めない那緒の思想と同様、この世界そのものも捻れに捻れ、解決の糸口は容易に掴めない。
 あらゆる「非在」に耐えられなくなった今、少女像に縋り付いた那緒はまるでオフィーリアのように歌う。誰にも届かない声で。
 その声はいつか誰かに届くだろうか。いや、届けようと張り上げられるだろうか。


※〈 〉は小説からの引用を、「 」は筆者による語句・文言の強調を意味します。


🖼🖼🖼

 前作の『ハンチバック』も素晴らしかったです。未読の方はぜひ。


 今回は触れませんでしたが、今作において階級限定的なフェミニズムへの言及があったことの参考として、市川沙央氏は『ハンチバック』で健常者中心主義的なフェミニズムに対しても意義を投げかけています。「産むこと」を押し付けられる健常女性と「産まないこと」「性的な存在でないこと」を前提として押し付けられる障害女性は、全く反対の抑圧を受けるのです。
 紙面で拝読し、大変感銘を受けた往復書簡も添えておきます。


いいなと思ったら応援しよう!

秋鹿一花
よかった!面白かった!と感じていただけましたら、サポートいただけるととても嬉しいです。いただいたサポートは参考資料の購入や取材のために使わせていただきます🦌🌷

この記事が参加している募集