認知の歪み
目に入る視覚情報は同じでも受け取る人によって感じ方が変わる。面白いですね。
サッカーボールを見たら蹴りたくなる人もいれば、学生時代の苦い経験を思い出すやつ、友達とか言い出すやつ。
色々いるわけです。
これは視覚情報にとどまらず、聴覚情報、触覚、味覚、嗅覚...
こう考え始めると怖くなって来るわけです。
さっきまで電車で同じように立っていた奴は、場の空気からそれとなく流れている殺気を感じ取ってさっきの駅で降りたのかもしれない。
目の前でスマホを見て笑っている奴は、地球の環境データのあまりの居住に適したパラメータに気づき、侵略することを決めた異世界人かもしれない。
各駅に敷かれている点字ブロックは、東京都内に巧妙に、精巧に配置されており、日食のタイミングで地表に落ちた影を媒介に起動するとんでもなく大きな魔法陣かもしれない。
とまあ考えようによっては当たり前の光景が、実はとんでもない非日常の始まりであると認知する人間がいてもおかしくないわけです。
そんなウン十億の日々思考し続ける脳が自由に大海に解き放たれているのにも関わらず、まだ秩序ある世界として成り立っていることが不思議でたまりません。
だから多分自分以外の人間は人間では無いのかもしれない。いや別に自分自身さえ人間であるとは分かりません。
人間、思考は電気信号で行なっているというのは良く聞く話です。
なんで電気を利用しているんですかね。
そんなバカな話はさておき。
この認知の差異が伝わりやすいような土台を作り、伝わる演技を学び実践することで、分かりやすく且つ独自性のある特異なコントが作れるのではないでしょうか。
芸人を志すものとしての意見をとりあえず言っておかなきゃ的使命感に駆られたのでこんな考察もしつつ。
うん我ながら良いとこに着地できた。
ありがとうございました。