ありがとう、いんのしま!泳いで漕いで走って見つけたわたしの居場所
私は現在、東京都日野市で保育士として活動しています。
保育園勤務ではなく、地域にある登校時の行き渋りが出始めた学生のひとつの拠り所となっているフリースクールのような機能がある古民家を利用した公共施設で週2回管理人として隔日4時間勤務しています。
また月に数回ほど、近くの小学校の中に設置されている放課後居場所教室では有償ボランティア登録をして活動をしています。
この生活スタイルになってから2024年の夏でちょうど3年が経過しようとしています。
皆さんに質問です。
小さい頃に感じていた気持ちってどれぐらい正確に覚えていますか?
上手く伝えるってどういうことだと考えますか?
そして、得意だったこと、苦手だったこと、挫折をしながらも続けたスポーツについてお伝えできればと思い、文字を打ちこんでいます。
皆さんの小さい頃の夏休みのなんでも無い1日の思い出やいつか来た道を歩いて家に帰るような感覚で青春を思い出したりしながら読んで頂けたら嬉しいです。
私は、大学を卒業してから今まで、学童クラブ、児童館、保育園とさまざまな年代の子どもと関わる環境に身を置き仕事をしてきました。
そんな子どもやさまざまなカタチがある環境で時間を過ごしていく中で、一つの気持ちが芽生えてきました。
社会人になっても、今だに簡潔に話して伝えることが苦手だなぁと感じます。
解決方法がすぐにまとまらなくて分からなかったので紙に書き出してみようと思い、無地のA3用紙を使い思うままに書いてみました。
①得意だったこと。
②苦手だったこと。
③自分と親との関係。
④自分と兄弟との関係。
⑤小さい頃にみえていた将来のこと。
⑥今の自分が保育者としてどうありたいか。
並べてみると、急に嫌だった記憶に、無意識で身につけた自分の感情に蓋を閉める癖が染み付いていたことに気づきました。
巾着袋ぐらいの口穴から急に紐を緩めて口を開けてしまい物が溢れ出て床に落ちて散らばってしまうかのように勢いよく襲ってきました。
わたしは、
「ああ、久しぶりにこの感覚に襲われたなぁ」と気分が悪くなりそうな心境を立て直そうと座って気持ちが切り替えられるまで時間をかける必要があった幼少期のトラウマ体験を思い出していました。
有償ボランティアで小学校に行ったある日。
いつも利用している活動教室で下校してくる子どもたちが入ってくるのを他のスタッフさんと談笑しながら待っていました。
その中で、たまたま出身地や故郷の話題が広がり私が生まれは八王子市で、途中から日野市内にある保育園に通い卒園するまで過ごしていたことを話す機会がありました。
私は、日野市に住んでいたら知っているであろう地域のローカルニュースすら分からず、イメージが湧かないままの状態で次第に傾聴していくポジションに落ち着いていました。
そうしているうちに仲良し3人組や顔見知りの一年生が勢いよく教室に入ってきては、今日の出来事を一斉に話しかけてきて教えてくれました。
私は先ほど聞いていたローカルニュースにはちっともついて行けずなんだかモヤモヤしたまま帰りました!
また時間があいてから紙に書き出してみました。
やっと素直な気持ちを思い出しました。
小さい頃、大人に自分の気持ちを上手く伝えられず悔しかったことがあります。
でも、何とか伝えられるように努力していく中で話せなくても文章にしてみれば良いとポジティブに気持ちを切り替えられるようになりました。
ついでに、誰かに発表してみたいと思うように心境が変化していきました。
スマホで検索をかけた結果、創作大賞の存在を知り、自分なりのチャレンジとして応募を決意しました。
ここからは、簡単に分かりやすく伝える練習として保育の5領域をコンテンツに出し、お伝えしていきます。
5領域の紹介です。
①人間関係
②言葉
③環境
④健康
⑤表現
ここで特に書きたいのは③の環境です。
私は、東京都八王子市で生まれましたが途中で日野市に引っ越し、保育園を卒園する6才まで過ごしました。
生まれは八王子市明神町。途中で日野市に引っ越しをしたのであまり記憶がありません。なんとなく覚えている情景はSOGO八王子、東急スクエア、都まんじゅうのショーウィンドウ、京王八王子駅のミスタードーナツ、大和田のあったかホールで紙漉き体験をしたことです。
母が小さかった私を自転車の後ろに乗せて移動していたので明日はどこに行くんだろうと楽しみにしていた思い出がよみがえります。
日野市にある旭が丘中央公園では芝生が広がった広場が開放されており、八王子市から引っ越しをしてからの遊び場はこの場所でした。小さい頃から体を動かすことが楽しかった経験から走ることが好きになり、まだ補助輪が付いている頃から自分でこの公園まで持っていき1人でウロウロとまたぎながら練習に励んでいたと母から聞いて、なんとなく思い出しています
今振り返れば2度と戻ってこない6〜15才の9年間は、もしかしたら東京ではどうやって過ごしてたんだろうか。と考えたりした多感な時期がありました。
私が因島で得意として見つけた居場所は
「ただひたすら走ること」でした!
私が通っていた三庄小学校は本校舎と渡り廊下で繋がっている本校舎がありました。
木造校舎には防空ごうのなごりがあったり、囲碁クラブが活動している教室では実際に授業でも使われ、地域のボランティアの方が教えに来てくださっていました。
日野市に住んでいた頃と同じように放課後は学校のグラウンドや海沿いを自転車に乗って出かけることが因島で生活する中での楽しみとなり、練習の成果が出たのか1人で補助輪がない状態で乗れるようになり、近所のおばあちゃんに見てもららいにあちこちに出かけていました。
因島で9年間過ごした中で特に思い出に残っているエピソードが2つあります。
1つ目は三庄小学校5年生の時、因島出身のロックバンドの因島凱旋ライブに参加出来たことです。
当時の広島県因島市が尾道市に合併することが決まりました。OさんとSさんのお2人が1991年に大阪で結成。下積みを経て1999年にメジャーデビューしました。
当時の広島県因島市が尾道市に合併することが決まりました。
地元の因北小学校出身のOさん、土生小学校出身のSさんのお2人が1994年に大阪でバンドを結成。下積みを経て、1999年に東京でメジャーデビューされました。
合併の知らせを受けて沢山の大人が動いてくれたこの企画。ふるさと因島を忘れないでほしいと市内の学生が市民会館に集まり、2日間だけの特別な時間をプレゼントしてくださいました。
その時、会場全体でバンドの楽曲である「愛が呼ぶほうへ」を歌う企画をお2人が考えていてくださっていました。
歌詞の中に
永遠で一瞬で、君にとっての全てだ
遠くから近くから君のことを見ている
という部分が入っており私が特に好きで
気にいっている楽曲のひとつとして今も踏ん張りたい時によくYouTubeで検索して聴いています。
大人になって振り返れば因島で嬉しかったこと、悔しかったこと、全部が想い出としてふとした瞬間に思い出せるように気持ちが変化しているように感じています。
ここの文章からは苦手だったこと、悔しかったことをお伝えしていきます。
中学校では、走る楽しさを加速させ、陸上部では地元主催の駅伝や因島健康マラソンに出て優勝することができました。
初めて周りから認められた瞬間でした。
練習した分だけ少しずつタイムが上がっていき記録を更新していく日々が中2の春まで続きました。
急に走ることが苦しく楽しめていない自分に気づきました。
そんなタイミングでモヤモヤして時期に家族で揃って見ていた番組「行列のできる法律相談所」。
当時は名司会者Sさんがが司会をされており、芸人さんがトライアスロンにチャレンジする企画がやっていてすごく楽しそうで、泳ぐのは苦手でしたが、希望の光が見えたような気がして何が変わるかもしれないという感覚があったことは何となく覚えています。
進路を考える時期の中学3年生の時でした。
因島の高校に残るか東京に戻るか私の選択が家族の今後にも左右することになると迷いながらも、なかなか決められない自分がもどかしく苦しかったです。
結局、決断出来たのは中3冬の2月でした。
とにかく走ることが好きだった私は当時、広島県内にある陸上競技が盛んな世羅高校に入りたくて日々の練習に励んでいました。
途中で挫折をして大会の結果は振るわず、次第に本当に走ることが苦しくなってしまいました。
その気持ちのまま、因島高校という島唯一の高校を受験し、なんとか合格。
しかし、既に私は9年間過ごした因島が逃げ出したい場所になっていました。
閉校式典を残し、3月には私の代で最後の卒業式がありモヤモヤしながら参加しました。
これで、東京に戻れる、苦しみから解放されるからもう少しガマンしようと頑張って耐えていました。
せっかく合格していた因島高校の合格取消しを伝えて、のちに進学した東京都立農業高校の最終募集の入試が引っ越しした後すぐに実施されるという段階で崖っぷちの中学生のまま受験勉強をしていました。
無事に合格し、晴れて高校生になれた私。
ここからは、5領域の言葉についてお伝えしていきます。
高校では、農業と調理の勉強をして調理師の免許を取得しました。高校に進学した当初、帰る方向が同じだったクラスの子に「どこの中学校?」と聞かれ、「広島から来たんだ」と言うと因島出資のロックバンドのファンだと教えてくれてすぐに仲良くなれました。学校の帰り道は京王線の成績桜ヶ丘駅のタワーレコードによく通いました。初めてアルバイトをして買ったCDは福岡出身の女性シンガーソングライターの to motherという楽曲です。たまにロックバンドのコーナーを探してみたりしました。
ここからは③自分と親との関係と⑤表現についてお伝えしていきます。
大学では、走ること、自転車に乗ることが大好きだったので思いきってトライアスロン部に入りました。因島にいる頃からずっとやりたかったのでコツコツ練習して挫折しながらも卒業するまでに全国大会へ3回出場することができ、また自信を取り戻すことが出来ました。
卒業後はボランティアで参加していたトライアスロンの大会運営と強化育成拠点で選手所属の上、サポート活動も担っている小規模の会社に就職しました。
その後は小さい頃から子どもに関わる仕事をしてみたいと考えていたので冒頭にもお伝えした学童クラブ、児童館、保育園と転々として今までの経験を活かしてコロナ禍には保育園で保育補助として勤務しながら保育士資格を取得しました。
子どもに寄り添い、成長を見届ける楽しさとやりがいを知りました。
園児が卒園、進級するタイミングで自分の生い立ちを振り返ることが多くなり、悩んだり踏ん張りたいときによく愛が呼ぶほうへを聴いています。
因島の海を思い出して自然とポジティブになれる落ち着ける場所になっていきました。
東京にいても、唯一因島を感じられる場所があの歌にはあり、歌ってくれたOさんと作詞をしたSさんも同じ景色を見ていたのかなぁと嬉しくなりました。
まだ先の話ですが、今まで経験してきたことを活かして、お2人が招待してくれた特別な空間に思い出としてライブを楽しむことを教えてくれた恩送りを実現させます。
私が得意なことは、スポーツ。走ることを極めた私にはトライアスロンが居場所になりました。
生涯スポーツとして注目されつつ水泳、自転車、ランニングを続けて1人で行うトライアスロン。
社会人になっても続け、因島の自然の中で育った子どもたちがふるさとを大切に、子どもたちの可能性と成長を応援できるような場所、環境を因島を築いていきたいと考えています。
私自身、2013年に始めたトライアスロンは競技歴としては11年目に入りました。
50才を目標にトライアスロン発祥の地ハワイでレースに出場し、完走することをここに宣言しておきます。
今年2024年はデビュー25周年という大きな節目の年。
私は4/29〜5/5の1週間で15年ぶりに因島に帰り、ありのままの自分で過ごしました。
きっかけは農業体験をしながら生活が出来るマッチングサービスを利用しての滞在でした。
お2人の思い出が色んな場所で形として残り、ファンの方がとぎれることなく訪れていることがとても嬉しく誇らしく感じます。
2024年。保育士として活動している今。
子どもから保護者の方々、同業者、有償ボランティア活動を経て、一緒に過ごしていくなかで助けたい。チカラになりたいと思うことが増えてきました。
小さい頃に思い描いた大人よりもずっと幼ない感覚があり自負しています。
今、私があの小さい頃の私に伝えられることがあるとすれば、よく食べてよく遊ぶことかなと思います。
ありきたりな表現ですが、過ぎてきた日々全部で私が出来上がっているとします。
そう振り返ると概ね完成形態としては上出来だと評価させていただきます。
最後になりましたが、この作品に出会ってくださった方々のひとつのきっかけ、頑張れば夢は叶うという現実離れした発想ではなく、まだやりたいことは見つかっていないけれど沢山遊んで今見た景色を見て何を感じられるか、これからどうなっていきたいかを探し続ける人生の旅の案内掲示板のような存在になって行けたら幸いです。
がんばる!よりも
コツコツ地道に
涙を笑顔に
挫折を経験に
スタートラインに立っていることに
感謝して
ゴールする最後の一歩まで
諦めず
力を出しきること。
これは私なりに11年間、トライアスロンと
向き合ってたどり着いたモットーです。
今後、誰かの為に存在し、この本の分身となって遠くから近くからあなたのことを見ています。
2006年
尾道市立三庄小学校卒業
2009年
尾道市立三庄中学校卒業
2012年
東京都立農業高校食物科卒業
2013〜2017年所属
東京女子体育大学
トライアスロン部出身
菅近優菜でした。