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真理否定論 ~崩壊する文明と暗黒社会への序曲~の自己解説

『胡蝶の夢』と懐疑論の原点

『胡蝶の夢』とは、中国の思想家・荘子が記した寓話で、夢の中で蝶となった自分が目覚めた後、『自分が蝶の夢を見ていたのか、蝶が自分の夢を見ているのか分からない』という話です。この物語は、現実と夢、自分と他者、実在と非実在の境界の曖昧さを示し、東洋哲学の懐疑論を象徴します。

 荘子の哲学では、現実や自己の固定的な実在性を疑い、すべてのものが平等で流動的であると考えます。この視点は、西洋哲学の懐疑論とも通じるものがあります。

 デカルトは『すべてを疑う』という方法から『我思う、ゆえに我あり』という結論に至り、確実な基盤を見出そうとしました。一方、ヒュームは『自己とは感覚の束に過ぎない』とし、カントは『世界は私たちの主観的枠組みによる現象であり、真の実在(物自体)は認識できない』と述べました。

 東洋と西洋の懐疑論は、自己や世界の認識における不確実性を問い続ける姿勢を共有しつつ、それぞれの文化の中で異なる答えを探求してきました。『胡蝶の夢』もデカルトの懐疑論も、私たちに『確かなものとは何か?』と問いかける普遍的な哲学の原点です。

 哲学とは、このようにあらゆることを懐疑的にとらえることが基本姿勢です。そのため『真理否定論 ~崩壊する文明と暗黒社会への序曲~』で示したように、真理の絶対性や客観性を疑問視し、真理が相対的である、または社会的・言語的に構築されるものであると主張した哲学者は多く存在します。

 しかし『真理がないのが真理である』と明確に主張した哲学者はいません。これは論理的な自己矛盾を含むため、多くの哲学者はこのパラドックスを検討しつつ、真理の概念を再評価する方向で議論を展開しています。

 このパラドックスは自己言及的な問題を含んでおり『真理がない』と主張すること自体が一つの『主張』であり、その真偽が問われます。この問題は哲学において古くから議論されてきました。以下のような哲学者たちが関連する議論を展開しています。

古代の懐疑主義者

 ピュロンやセクストス・エンペイリコスなどの古代ギリシャの懐疑主義者は、確実な知識や真理に到達することは困難であると主張しました。彼らは判断を保留し、一切の断定を避けることを提唱しましたが、真理そのものの存在を否定したわけではありません。

フリードリヒ・ニーチェ
 
ニーチェは、絶対的な真理や客観的な道徳の存在を批判しました。彼は、真理は人間の視点や解釈によって構築されるものであり、固定的なものではないと考え、新たな価値観の創造を目指しました。しかし、ニーチェは『真理が全く存在しない』と断言したわけではなく、真理の概念自体を再評価し、人間が生み出す価値としての真理を探求しました。

ポストモダン哲学者
 
ジャック・デリダやミシェル・フーコーなどのポストモダン哲学者は、真理や知識が権力構造や言語によって形成されると主張しました。彼らは、客観的な真理の絶対性を疑問視し、真理が社会的・歴史的な文脈に依存していることを強調しました。しかし、彼らも真理の存在そのものを否定したわけではなく、真理の構築過程や多様性に注目しました。

 デリダの『脱構築』は、既存の哲学的テキストや概念の内在的な矛盾や前提を明らかにし、新たな解釈を可能にする手法です。彼は真理の固定性を解体し、多様な意味の可能性を示しました。

リチャード・ローティ
 
アメリカのプラグマティズム哲学者であるローティは、伝統的な真理の概念を批判し、真理を有用性や社会的合意に基づくものとして捉えました。彼は、客観的な真理よりもコミュニティ内での実践や対話を重視しましたが、真理の存在自体を否定したわけではありません。

ソフィストたち
 古代ギリシャのソフィストは、真理は相対的であり、人それぞれの主観に依存すると主張しました。彼らは普遍的な真理の存在を疑問視し、説得力や修辞の技術を重視しましたが、真理の存在そのものを否定したわけではありません。

『真理否定論 ~崩壊する文明と暗黒社会への序曲~』では何が言いたかったのか?


源賴國──不老人間さんからいただいたコメント。

果たして『ド文系』のみで成り立つ世界が担保され得るのか⋯⋯もっともっと怖いです(´w`)ノ

 この小説『真理否定論 ~崩壊する文明と暗黒社会への序曲~』や『ド文系でもわかるシリーズ』では、日本の官僚、政治家、大企業経営者の大半が『ド文系』であり、義務教育レベルの理数系すら理解していない現実を炙り出しています。

 彼らが『私は文系なので、小学生にでも分かるように説明してください』と主張することがまかり通っている現状を描いています。

 小説内では、N博士が『真理に至ることがないことが真理である』というパラドックスを提示し、科学や法制度が崩壊する風刺が描かれています。しかし、この小説が風刺しているのは、科学や法制度が崩壊してもしなくても、日本に特有の『ド文系』の官僚や政治家、大企業の経営者が、そもそも科学も法律も理解していないという現状です。つまり、既に日本社会は終わっているという現実を揶揄しているのです。

日本の政策がド文系的発想に毒されている実例

 日本の官僚、政治家、企業経営者の中には、エネルギーや環境問題について十分な科学的理解を持たず、非効率なシステムに数十兆円もの資金を投入しようとする動きが見られます。

 たとえば、COP(国連気候変動枠組条約締約国会議)で議論されている目標として、『2030年までに世界全体の二酸化炭素排出量を2010年比で約45%削減し、2050年前後には実質ゼロにする』という内容があります。この目標は、世界の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて1.5℃以内に抑えることを目的としています。

 しかし、科学的視点から見ると、以下のような疑問が生じます。

平均気温の測定とその問題点
 
現在の最先端技術を用いても、世界の平均気温を正確に計算することは極めて困難です。気象衛星や海洋ブイから得られるデータには多くの仮定が伴い、精度の限界があります。さらに、産業革命前には気象衛星も海洋ブイも存在せず、当時の気温データは直接観測されていません。これにより、『産業革命以前との比較』という基盤そのものが科学的に不確実であるといえます。

 確かに、樹木の年輪や地表・海底の堆積物を利用した推定手法は存在しますが、これらの手法でも得られる推定値には大きな誤差が含まれます。そのため、『1.5℃以内に抑える』という目標値も科学的に厳密ではなく、誤差範囲内に収まる可能性があります。

コンピュータシミュレーションによる予測の限界
 気象と気候は異なる分野ですが、気象の予測においてさえ、現代の最先端技術をもってしても正確性には限界があります。たとえば、気象衛星、海洋ブイ、スーパーコンピュータ、各地の気象観測レーダーを最大限に活用しても、台風の進路を翌日まで正確に予測することや、半年後の暖冬・冷夏を的確に見通すことには依然として高い不確実性が伴います。

 こうした現状を踏まえると、100年後の地球の平均気温を予測するという主張は、現時点での科学技術の限界を考慮すると、科学的根拠が十分であるとは言い難いでしょう。

アンモニア事業の非効率性
 前述のような地球温暖化や気候変動予測の不確実な前提に基づき、多額の予算が投入されている事例の一つに、アンモニア事業があります。

> 1kgのアンモニアを水の電気分解を含めて14kWhの電力で製造できる触媒技術を採用する。

アンモニアの低位発熱量(LHV)≒18.6MJ/kg≒5.17 kWh

 アンモニアの製造について、米国のスタートアップ企業Starfire Energyが提案している触媒技術では、1kgのアンモニアを製造するのに14kWhの電力が必要とされています。しかし、この1kgのアンモニアが持つ低位発熱量(LHV)は5.17 kWhであり、エネルギーロスは約63%にもなります。

 さらに、製造されたアンモニアを輸送するための1000トン級の運搬船は非常に燃費効率が悪く、石油タンカーが50万トン級で原油を輸送するのと比べると、単位当たりの輸送効率で大きく劣ります。このため、アンモニアの運搬においても莫大なエネルギーが消費されます。

 また、アンモニアから水素を取り出す際にも大量のエネルギーが必要で、最終的に利用可能なエネルギーは風力発電で作られた元のエネルギーの10%以下にまで減少します。

非効率なシステムへの投資
 
これほど多くのエネルギーを浪費するシステムに、数兆円規模の予算が投じられていることには大きな疑問を感じます。このようなシステムを推進する背景には、一部の官僚や政治家、企業経営者が自身の利益を優先し、天下り先や補助金を目当てにしている構図が見え隠れしています。

基礎的な科学知識の欠如
 
日本の一部のキャリア官僚、政治家、大企業経営者が優先しているのは、自らの天下り先でどれだけの利益を得られるか、あるいは非効率なシステムを推進することで国からどれだけの資金を引き出せるかといった短期的な経済的利益であるように見受けられます。

 しかし、こうした行動の背景には、地球環境やエネルギー問題に関する基礎的な科学知識の欠如があることも否定できません。特に、地球温暖化やエネルギー効率の議論においては、小学校で学ぶ理科や算数レベルの理解が不足しているように感じられます。

 たとえば、地球環境問題を語る際に、具体的なエネルギー効率や物理法則を無視し、感情的あるいは表面的なアピールに終始する姿勢は、問題解決に寄与しないばかりか、莫大なコストを伴う非効率な政策を招く可能性があります。

 こうした問題は、日本における『ド文系』と称される層が、科学的リテラシーの向上を軽視してきたことに起因する部分が大きいと考えられます。これにより、持続可能な社会の実現に必要な科学的根拠に基づいた政策が後回しにされる状況が生じているのです。

植林による解決策
 
地球規模での二酸化炭素排出量が問題であるならば、解決策の一つとして、砂漠化が進行しているサブサハラ地域への植林が挙げられます。この地域は、もともと森林地帯であり、現在でも森林を維持するのに十分な降水量があるとされています。

 砂漠化が進行した主な原因としては、以下の点が指摘されています。

・材木資源の過剰伐採 欧米や中国による大規模な伐採が、持続可能な管理を欠いたまま行われたこと。

・現地住民の生活利用 アフリカ諸国の現地住民が、薪木や木炭を生活のために利用する過程で森林を伐採し、その跡地に植林を行わなかったこと。

・森林伐採跡地では、過放牧の問題も深刻です。これらの行為が森林の再生を妨げ、砂漠化をさらに加速させていると考えられます。しかし、この地域で植林を推進し、適切な管理を行うことで、炭素吸収源としての機能を取り戻すだけでなく、砂漠化の防止や生態系の回復にもつながる可能性があります。

ともこ (絵・コラージュ・詩)さんからいただいたコメント

こ、これは、ニーチェの神の否定に続く、感じですね!

 ともこさん、コメントありがとうございます。ご指摘の通り、『真理が存在しないことが真理である』というパラドックスが提示され、もし真理を追究している科学や法律が機能しない状態になるとすれば、それはニーチェの有名な言葉『神は死んだ』とある意味で共通するところがあります。しかし、ニーチェが『神は死んだ』と述べた背景には、当時の宗教や神に対する信仰心の薄れにより、従来の正義や道徳が揺らいでいる状況がありました。ニーチェはキリスト教的な道徳を批判し、新たな価値観や生き方の創造を訴えるために、この概念を出発点にしました。

 ただし、『真理が存在しないことが真理である』というパラドックスは論理的な自己矛盾を含んでおり、哲学的には慎重な検討が必要です。ニーチェも真理そのものの存在を完全に否定したのではなく、絶対的な真理や普遍的な価値観を疑い、人間の視点や解釈の重要性を強調しました。

 このような挑発的なレトリックは哲学者が用いることが多く、近年では『哲学界のロックスター』と呼ばれるマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』も注目を集めています。

『神は死んだ』と『世界は存在しない』は、一般の読者にとってキャッチーな概念であり、哲学的な議論を喚起するものです。また、『哲学は死んだ』という概念も興味深く、哲学者と物理学者が異なる視点から哲学を評価している点が面白いです。

 物理学者のスティーブン・ホーキングは、科学の進歩によって哲学が時代遅れになり、現代の問題に答えられなくなったと主張しました。彼は、物理学や宇宙学の成果を基に、哲学的思考の限界を指摘しています。しかし、この見解は多くの哲学者から批判を受けており、哲学と科学の関係については現在も活発な議論が続いています。

 哲学者のジャック・デリダ(1930年~2004年)は、哲学の伝統的な枠組みや前提を再検討し、新たな可能性を模索する必要があると主張しました。彼の『脱構築』という手法は、既存の哲学を無用とするのではなく、その内在する矛盾や隠れた前提を明らかにし、哲学の再解釈や深化を促すものでした。

武智倫太郎

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