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短編小説「見つめられる罪」

 真夏の午後、川面に映る太陽が異様な輝きを放っていた。山岸 遥斗はるとは川岸の低い場所から、溺れる河合 りつの姿を冷徹に見つめていた。二人の距離は、互いの表情がはっきりと見える程度だった。腕時計の秒針を凝視しながら、彼は律の悲鳴を数えるように聞いている。

「助け……て」

 律の声が川の流れの音に交じって届く。遥斗の瞳に映る姿が、少しずつ小さくなっていく。その光景に、二年前の記憶が重なる。いじめに遭って自殺した弟・蓮斗れんとの最期の姿を、彼は今でも鮮明に覚えている。蓮斗に対するいじめの加害者は律だったにもかかわらず、大人たちはいじめの存在自体を否定してしまった。

 川の流れが律を飲み込んでいく。遥斗は腕時計を見つめたまま、身動きひとつしない。救急車を呼べば、まだ間に合ったはずだ。誰かに助けを求めることもできた。だが彼は、ただ静かに時を刻む秒針を見つめ続けた。神様はしっかりと見ていたのだ。これが報いだ――そう思った瞬間、律の姿が水面から完全に消えた。


 三日後、学校は騒然としていた。律は一命を取り留めたという。そして、遥斗が見殺しにしたという噂が広まっていた。

「山岸君、本当なの?」

 竹中先生の声には、悲しみと複雑な感情が滲んでいた。竹中先生は、律が遥斗の弟・蓮斗をいじめていたことを知っていたからだ。

「僕は泳げませんから……」

 遥斗は平然と答えた。それは嘘ではない。しかし、それは人を見殺しにした理由として正当化できるものではない。

 数週間後、律は学校に戻ってきた。かつての乱暴な性格は影を潜め、穏やかな生徒へと変貌していた。事故の恐怖が、律の心の奥底にあった何かを変えてしまったのだろうか。その純粋な眼差しに、遥斗は言いようのない不快感を覚えた。

(蓮斗は死んだのに、どうしてお前は生きてるんだ……)

「遥斗君、おはよう」

 律の笑顔には、純真さが満ちていた。

 この「偽物」のような律を見て、遥斗の心は更に暗く沈んでいった。復讐の達成感は薄れ、代わりに虚無だけが残る。


そして卒業式の前日、律は遥斗を校舎の裏に呼び出した。夕暮れの影が二人を包み込む中、律の表情が一変する。

「お芝居はもう終わりにするよ」

 律の声音が変わる。

「俺は、全て覚えている」

 その言葉に、遥斗の世界が静止する。

「俺がお前の弟を追い詰めて、死に追いやったこと。そして、お前が俺を見殺しにしたこと。俺たちは永遠に、この罪を背負って生きていくんだ」

遥斗は無言のまま崩れ落ちた。律は薄笑いを浮かべながら、その場から立ち去った。


 卒業式が終わると、遥斗は佐藤法律事務所を訪れ、スマートフォンの録音を再生した。律の自白が静かな応接室に響く。

『俺がお前の弟を追い詰めて、死に追いやったこと。そして……』

 佐藤弁護士は眼鏡の奥の目を細めた。

「これは重要な証拠だね」

 遥斗は前のめりになって尋ねた。

「もう一度、協力して下さい」

 佐藤弁護士は深いため息をつき、眼鏡を外してレンズを拭いながら静かに答えた。

「そうだね、どうしたものか……」

 遥斗は帰宅後、両親に事情を説明した。弁護士への相談を独断で行ったことで叱られたものの、両親は最終的に理解を示し、佐藤弁護士に改めて連絡を取ったようだ。

 自室に戻った遥斗は、ベッドに倒れ込み、深いため息をついた。蓮斗の最期の姿と溺れる律の姿が、頭の中で何度も繰り返される。

 遥斗は自分の心の闇と向き合った。律を見殺しにしようとした自分の行為も、神様はしっかりと見ていたはずだ。

(蓮斗、俺はどうすればいい? 俺は間違ってるのか?)

返事が聞こえるはずもなかった。


小さいときの記憶を呼び起こして進めました。小説のような大騒動ではありませんでしたが


おまけ 1
最後まで悩んだ別エンディング

「俺がお前の弟を追い詰めて、死に追いやったこと。そして、お前が俺を見殺しにしたこと。俺たちは永遠に、この罪を背負って生きていくんだ」

 遥斗は無言のまま崩れ落ちた。律は薄笑いを浮かべながら、その場から立ち去ろうとした。

「認めたな、蓮斗を殺したことを」

 遥斗はゆっくりと立ち上がり、冷たい笑みを浮かべた。ポケットからスマートフォンを取り出し律に見せる。律の顔から血の気が引いた。

「警察に言うつもりか? そしたらお前だって……」

 律の言葉は途切れ、その目には不安と怒りが交錯していた。

 遥斗は夕暮れの空を見上げながら冷静に答えた。

「見殺しは不作為犯。現場で助ける義務は、法律上ないんだ。ネットで調べた。でも、お前の罪は立派な殺人未遂だってよ」

(蓮斗、ここまでやり遂げたぞ。喜んでくれるか?)

遥斗は心の中で弟に語りかけた。

(何? 神様が見ているって? ……そうだな)

 遥斗は律の震える背中を見つめながら、静かに歩み去った。この物語に、もはや救いはない。ただ二人の心の闇だけが、永遠に交差し続ける。

 神様は確かに見ていた。しかし、その目に映る光景は、ただの悲しい連鎖でしかなかったのかもしれない。


おまけ 2 
竹中先生視点の話

 職員室の窓から差し込む夕日が、机の上の書類を赤く染めていた。私は生徒指導記録を開きながら、あの日のことを思い出していた。

「竹中先生! 山岸 蓮斗くんが……」

 同僚からの一報を受けた時、私の脳裏には河合 律の姿が浮かんでいた。数日前、山岸 蓮斗が河合 律たちに囲まれている場面を目撃していたからだ。しかし、学校は事態を深刻に受け止めようとしなかった。

「竹中先生、これは単なる口論です。いじめと断定するのは早計ではないでしょうか」

 校長の言葉に、私は反論できなかった。目の前で起きている現実から目を背ける大人たちを、私は止められなかった。そして山崎 蓮斗は、私たちの無力さの犠牲になった。


 それから二年。今度は河合 律が川で溺れかけた。そして、山崎 遥斗が見殺しにしたという噂が広まった。

「山岸君、本当なの?」

 職員室で山崎 遥斗に問いかけた時、彼の目は何も感情を映していなかった。

「僕は泳げませんから」

 その言葉の裏に潜む闇の深さに、私は震えた。弟を失った少年の心の中で、何が育っていたのか。そして、それを育ててしまった私たち大人の責任は?

 机の引き出しには、あの時の報告書が眠っている。「いじめの事実なし」という結論に、私は今でも苦しんでいる。教壇に立つ者として、生徒を守れなかった私の罪は消えることはない。

 窓の外では、下校時間を告げるチャイムが鳴り響いていた。


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藍出 紡
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