なぜ嫌なのか言語化が難しい理由
「男の低身長の何が嫌なんだろう。理解ができない」
という趣旨のツイートが流れてきた。実はこれ、自分もやってる危ない思考な気がしたのでその旨をまとめてみる。
言語化はしたほうがよいか?
恋人間・夫婦間の言語化はしたほうがよい。可能な限り。もっと抽象度を高めると、コミュニケーションを取りながら目的を共にする人たちは、齟齬のない伝達ができたほうがよい。
そのためには、知識を取り入れ、自分がもやもやしている感情を知る必要がある。
言語化が難しいものもある
しかし、「言語化が難しいものも中にはあるのでは」ということを感じた。
例えば、「自分の子どもが欲しい」という願望がある。「なぜ欲しいのか? 養子ではダメなのか?」と聞かれたら難しい。絞り出した答えが「自分の遺伝子を残したいから」だったとしたら、「なぜ自分の遺伝子を残したいのか?」と聞かれたらもう答えられない。
リチャード・ドーキンスの言葉を借りるなら、「生物は遺伝子の乗り物」であるから。遺伝子が新しい乗り物を求めているから。とかなんとか言えるかもしれないが、ちょっと苦しい。
こんなように、「自分の子どもが欲しい」「高身長な人と結婚したい」などの願望や欲求は、実は言語化が難しいのではないかと思う。もちろん「本能がそう求めているから」とも答えられるが、それを確かめる術はない。
だから他人はこう問う。
「それって本当に必要? よく考えてみて」
この言葉が危ないと感じる。言語化に失敗したものを無理に納得させようとしたとき、きっと「もやもや」が残る。先のようなセリフを、パートナーに向けると一時的には「そうだね、必要ないかも」という回答が得られるかもしれない。しかし、実は相手にもやもやが残ったままになるケースがあるように思う。
言語化できないことに対する意思決定をどうするか
こういった言語化できないものに対して「必要ない」と切り捨てないほうがよい。では、どう納得すればよいか。
統計データを見て納得するのがよいだろう。
データを見れば「高身長じゃないと嫌だ」「自分の子どもが欲しい」という人は一定数いる。
そうやって、「理由は分からない」が「少なくともそういう人は一定数いる」という事実を認めるのである。
人はそもそも合理的に判断していない
例えば、「必ず時給2,000円がもらえる」のと「10分の1の確率で22,000円がもらえる」のとを比較すると、前者を選ぶ人が多くなる。しかし合理的に考えると、期待値が大きいのは後者である。その事実を理解したとしても、全員が後者を選ぶわけではない。
「なんとなく嫌」
その感情も時には大切にしてあげたほうがよいと感じた。自戒をこめて。
本能的なものなのかの見極めが難しい
ここまで書いといてあれだけど、本能的なものなのかの見極めが難しいと感じる。
先に取り上げた「低身長が嫌だ」も、本能的なものなのかは分からない。
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