繊細さのゆくえ
歳を重ねるほどに
自分の繊細さが、社会の中での
“ 生きづらさ ” になっているのを感じる.
繊細さは自分から人へも
そして人から自分へも氣をつかわせ
お互いに疲弊してしまう.
“ 氣にしすぎない方が良いよ ”
本当にそうだね、その方が生きやすいもの.
だけど、匂うものは匂うし
暑いものは暑い.
それを “ 感じなくする ” というのは
なかなかにむずかしい.
どうして食に対するアレルギーなどへは
社会的にも理解があるのに、
“ 感じやすい ” ことへの理解は
まだこんなに途上なのだろう.
そう、それは “ 見えないもの ” だからだ.
物理的に嘔吐する、発疹が出る…
などは “ 目に見える ” から、認知しやすい.
認知しやすいということは、理解しやすい.
“ 目に見えないもの ” は、わかりにくいから、
わからないものは “ こわい ” から.
だから社会の中では異質なものとして、
嫌悪されることも多いのだろう.
目に見えないものへの理解関心も
深まりを増して来ている現在の社会だから
きっと、もっと先の未来では
この繊細さへの嫌悪も減っていくと思う.
社会から見て、
極にある性質の数パーセントは
病氣 とされることが多いそうだ.
でもそれが才能と捉えられる例も
あるのだし、この繊細さという
生きづらさを愛おしさに変えられる日を
わたしは待っている…
いいえ、そこに自ら向かいたいと思っている.
いつか、この繊細さを才能って
思えるようになった わたしの姿で、
誰かを勇氣付けられるようになりたい.
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願いに氣付いたら、たくさんのものが崩れはじめた.