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ヒトリガ(前編)

2016年に書いた習作。特別な人間になりたかった男の敗北の物語。
ミステリっぽいけど、ちゃんとしたミステリではないような。


 人生は山あり谷ありと言うが、俺の人生に谷はなかった。
 俺、徳田裕一は挫折も苦労も知らず、いつだって山の高みだけを歩いてきた。生まれた時からそうだった。裕福な家庭で不自由なく育ち、たいして努力をしなくても成績はよく、運動神経もずば抜けていい。容姿にも恵まれていたから外見にコンプレックスを持ったこともない。

 その気になればいくらでも発揮できる社交性のおかげで、誰からも好かれた。だが好かれるだけでは足りない。集団の中でトップに立つには別の要素も必要だ。そのことを子供心に悟っていた俺は、生来の醒めた性質を効果的にちらつかせることで、人気者でありながらほんの少しだけ畏怖されるような、周囲から一目を置かれる存在になっていった。

 友人の古川久志は、俺とは対照的な子供だった。小柄で地味な風貌。笑えるほどの運動音痴。勉強はそこそこできたが、それでもせいぜい中の上。幼い頃に両親を亡くしており、見るからに小汚い平屋で年老いた祖母と暮らしていた。着ている服や持ち物を見れば貧困家庭なのは誰の目にも明らかで、言うなればクラスの最下層。

 久志が苛めに遭っていたのは、当然の成り行きとしか言いようがない。キモいだの臭いだのと笑われ、日常的に持ち物を隠されたり捨てられたりしていた。そんな久志と小学校4年生で同じクラスになった俺は、あいつに手を差し伸べた。正義感でもなければ同情でもなかった。俺が久志に優しくすることで、クラスメイトの態度が変わるかどうかを試してみたかったのだ。

 結果は予想したとおりだった。俺が久志を親友のように扱い始めると、陰湿な苛めはぴたりと止まった。それどころか、久志のご機嫌を取ろうとする奴まで出てきた。いつしか担任の教師までが俺の顔色を窺うようになっていた。俺は自分がクラスを支配していると実感した。

 俺の思惑など知りもしない久志は、すっかり俺に懐いてしまった。内心では久志を馬鹿にしながら、ペットを可愛がる程度の気持ちで優しくしてやった。図に乗って馴れ馴れしい態度を取ったりしたら、すぐ突き放してやろうと思っていたが、あいつはまるで俺を自分のヒーローのように崇めるようになった。おどおどした態度で、だけど眩しいものを見るような眼差しを向けてくる。

 憧れと卑屈さがない交ぜになった久志の視線は、不思議と俺の気に入った。こいつは俺の庇護を失えばまた苛めに遭う。中学に入ってもそれは同じだろう。久志の人生の明暗を分けるのは俺。久志にとって俺は神も同然だ。いや、神そのものじゃないか。

 くだらない優越感だとわかっていたが、それでも心地よかった。この毒にも薬にもならないような、笑えるほどつまらないちっぽけ人間でも、俺をいい気分にしてくれる。だったら少しは役に立っている。生きている価値がある。俺は自分自身の愉悦のために、久志をそばに置いておくことにした。


 久志に「裕ちゃんは特別な人なんだよ」と言われたことがある。
 あれは中学一年の夏休みに、久志の家に泊まりにいった時だった。町の外れにぽつんと建つカビ臭い古屋で、久志は耳と目が悪い陰気な祖母と暮らしていた。
 家の裏手には鬱蒼とした山林が広がっていた。キャンプ気分を味わいたくなった俺は、日が暮れたら焚き火をしようと持ちかけた。俺の言うことには決して逆らわない久志は、即座に「いいね」と頷いた。

 枯れ枝は久志が裏山に入ってひとりで集めてきた。俺は久志が飼っているカブトムシやクワガタなんかを、暇つぶしに眺めながら待っているだけでよかった。命令なんてしなくても、久志は俺のためになんでもする。嫌々ではなく嬉々として動くのだ。あの時もそうだった。

 久志は新聞紙で火種をつくり、自分で集めてきた木の枝を燃やした。手慣れたものだった。何度も経験があるのだろう。
 炎の明かりに引き寄せられたのか、一匹の蛾が近づいてきた。白と茶色のまだら模様の羽と、オレンジの後翅を持った蛾だった。蛾はくるくると旋回しながら炎の中に落ちてしまった。

「なんだ、こいつ。自分から火に飛び込むなんて馬鹿だな」
 俺が笑うと久志は「しょうがないんだ。蛾は走光性を持ってるから」と言い出した。
「そうこうせい?」
「簡単に言うと光に向かっていく性質だよ。カブトムシやクワガタも同じ。みんな街灯なんかに寄っていくだろう? 実際は単純に光に向って進むんじゃなくて、保留走性の能力で行動しているんだけどね」

 久志は虫が好きだった。虫に関する知識は相当なもので、唯一俺が勝てない部分だった。もっとも、虫の知識で勝ちたいとはつゆほども思わなかったが。

 蛾を呑み込んで赤々と燃える炎を眺めながら、久志は「裕ちゃんは特別な人なんだよ」と不意に呟いた。どこかうっとりした表情に見えた。まるで蛾にとっての光と自分にとっての俺が、同じ存在だと言っているような気がした。
 あの言葉を聞いた時、そうだよ、俺は特別なんだ、と思った。俺はすべてにおいて皆より勝っている。特別な人間なのは間違いない。

   ***

 俺と久志が親友であることを、周囲はいつも不思議がっていた。中学二年の時、ある友人に「あんな奴とつき合っていたら、お前のレベルまで低いと思われるぞ」と忠告されたことがある。
「心配してくれるのは嬉しいけど、久志は俺の親友なんだ。あいつのことを悪く言うのはやめてくれないか」

 あえて悲しげな表情を浮かべて言い返すと、そいつは気まずそうに黙り込んだ。内心では馬鹿な奴だと思っていた。レベルの低い友人を持ったくらいで、俺のレベルは下がりようがない。むしろ苛めの対象にされて当然のような久志を親友にしていることで、女子の間で俺の株は上がっていた。見た目で人を判断しない誠実な男だと思われたのだろう。

 久志は猛勉強をして俺と同じ高校に進学した。俺の親友という立ち位置を死守したがっていた。当然といえば当然だろう。あいつから『俺の親友』というレッテルを取ってしまえば何も残らない。

 高校に入るとさすがに努力しなければ、上位の成績をキープするのは難しくなった。努力は嫌いな俺だったが必死で勉強した。それでも常にトップでいるのは無理だった。成績が下がると俺はひどく凶暴な気分になった。世の中のすべてが俺の敵のように思え、街を行き交う人たちを、片っ端から殴り殺してやりたいような衝動に見舞われた。

 通りを歩きながら心の中でよく想像した。あの太った中年男はハンマーで頭を割ってやりたい。あの化粧の派手な不細工な女の細い首は、ヒモで締め上げよう。ギャーギャーとうるさいあそこの小学生は、ナイフで胸をひと突きだ。
 皆殺しの夢想は最高のストレス解消法だった。頭の中で何人も殺した。殺しすぎて感覚が麻痺してきたのか、本当に自分が残忍な殺人鬼になった気がしていた。

 大学受験が迫ってきた三年の冬、俺の鬱屈は最高潮に達していた。狙う大学は地元の名門だ。受かると信じていたが不安は大きかった。万が一、不合格だったらどうする。この俺が不合格だなんてあり得ない。でも、もしそうなったら──。

 その頃、市内で連続して三人の女性が殺されるという事件が起きていた。殺害方法は刺殺、絞殺、撲殺、事件現場は自宅、公園、深夜の舗道、被害者も女子高生、OL、中年女性というふうに一貫性はないことから、同一犯の仕業ではないと思われていた。

 だが、それはまさに、俺の思い描いた殺人そのものだった。自分の分身が事件を起こしたような気分になり、新聞やニュースで事件に触れるたび強い高揚感を覚えた。あれは俺がやった。俺が三人とも殺した。俺の犯行なんだ。そう思うことで世界を支配しているような気分を味わえた。

 俺は次第に歪んだ幻想を誰かと共有したくなった。俺の言うことを素直に信じそうな相手。久志しかいなかった。敬虔な信者が神の言葉を決して疑わないように、あいつは俺の言うことはなんでも信じて受け入れる。
 俺は受験勉強の息抜きと称して久志の家に遊びに行き、思い詰めた表情で切り出した。

「最近、立て続けに女の人が殺される事件が起きてるだろう?」
「ああ、あれか。すごく怖いよね。全部違う犯人みたいだけど、それって殺人犯が三人もいるってことだろう? まだひとりのほうがましかも」
 怖がりな久志は声をひそめて話した。大きな声で話したら、犯人に聞かれてしまうとでも思っているかのように。

「俺さ、あの事件の犯人を知ってるんだ。っていうか、実は俺がやった」
 俺も声をひそめて告白した。久志はしばらく黙っていたが、「もう」と笑った。
「裕ちゃん、何言ってんだよ。そういう冗談やめなよ。全然笑えないから」
「お前、俺の言うことが信じられないのか?」
 真剣な表情と低い声で言い返したら、久志の顔から笑顔が消えた。

「俺がくだらない冗談は嫌いなこと、お前だってよく知ってるだろ?」
「だ、だけど、だけど裕ちゃんは人殺しなんてしないよ。そんなことができる人じゃない」
 人殺しもできない腰抜けだと言われた気がして、俺は久志の肩を強く突き飛ばした。
「痛いっ」

「あれは俺の仕業なんだよっ。三人とも俺が殺した。信じないなら絶交だ」
 舌打ちしたくなった。ベタな言葉を持ち出した自分に苛立った。殺人鬼に絶交なんてガキっぽい言葉は不似合いだ。

「し。信じるよ。信じるから絶交だなんて言わないでよっ」
 久志は床を這って俺に迫ってきた。これにはさすがの俺も引いた。たとえ俺が殺人鬼であっても親友の座は失いたくないという、その執着心が気持ち悪かった。

「お前、俺が犯人だって警察に言う? 言いたければ言ってもいいぞ」
「い、言わないよ。俺、裕ちゃんを裏切ったりしないっ」
 久志は頭を強く振った。指先が小刻みに震えている。血の気も引いて顔が真っ白だ。目ははっきりと潤んでいた。

 笑いそうになった。久志の味わっているショックや恐怖や困惑の大きさが、手に取るように伝わってくる。なんて馬鹿な奴。呆気なく信じやがった。
「そう言うと思った。俺たち親友だもんな。だからお前にだけは、俺の秘密を話しておきたかったんだ。帰るよ」
 こういうことはべらべら語らないほうが真実みが増す。俺は早々に引き上げた。

 帰り道、俺は笑いながら原付バイクを飛ばした。身を刺すような冷たい空気も、まったく苦にならなかった。
 久志のあの間抜けな顔。最高に笑える。
 もし久志が学校や警察に話したとしても、俺は痛くも痒くもない。くだらない冗談を真に受けた久志が悪い、という結果になるだけだ。

 俺は思いもしなかった。
 俺のくだらない嘘が、まさかあんな恐ろしい出来事を引き起こすなんて。

   ***

 俺が連続殺人犯だという嘘の告白に、久志はまんまと引っかかった。
 だがいくら俺の言うことを疑わない久志でも、あとになって騙されたことに気づいたようだ。その証拠に次に会った時、何も聞かなかったような態度で接してきた。きっとくだらない嘘を信じてしまったことが恥ずかしかったのだろう。

 受験が終わり、俺は大学に無事合格した。久志は経済的な理由もあって進学はせず、地元の食品加工会社に就職した。
 大学にはいろんな学生がいる。俺より頭のいい奴。俺より顔のいい奴。俺より運動神経のいい奴。俺よりリーダーシップに優れている奴。勝てそうにない奴らが大勢いた。

 それでも俺はまだ自分を特別な人間だと思っていた。他人を見下して優越感に浸る癖は、もはや俺の根幹を成すまでになってしまっている。そういう資質は簡単には変えられないものらしい。
 俺は自分が気持ちよく生きられる方法を考えた。答えは簡単に見つかった。大きな世界でトップになれないのなら、小さな世界のトップになればいい。

 得意のテニスを活かすためにテニスサークルに入った。明るく爽やかに振る舞い、すぐに仲間ができた。俺はみんなに好かれ、瞬く間に小さな世界で人気者になった。どいつもこいつもチョロいもんだと腹の中で笑った。

 いつも集団の中心にいる俺を見て、勝手に憧れる者も出てくる。いつしか俺はモテる男として、学内ではちょっとした有名人になった。上手くいかなかったことは都合よく忘れ去り、上手くいったことだけを数え上げ、やっぱり俺は特別だと思った。

   ***

 四年になって一流企業に就職が内定し、何もかもが順風満帆だった。
 社会人になったらひとり暮らしを始めるつもりだった俺に、倉持美香は「私も裕くんと一緒に住みたいな」と何度も可愛くせがんできた。

 美香は同じ大学に通う、一つ年下の恋人だった。テニスサークルで知り合い、交際して一年。色白で目が大きく、下手なアイドルなんかより可愛い。俺の一目惚れだった。

 それまで自分から女に言い寄ったことはなかったが、美香だけは必死で口説いた。何がなんでも自分のものにしたかった。過去に何人かの女とつき合ったが、本気で惹かれた相手は美香が初めてだった。ようやく自分に相応しい女と出会えたと思ったほどだ。

 猛アタックした結果、美香は俺の彼女になった。実は私も一目惚れだったんだ、と恥ずかしそうに告げる美香の愛らしさに舞い上がり、この子は俺の運命の相手に違いないと、柄にもなくロマンチックに感激さえした。
 同棲するなら一緒に部屋を探そうと持ちかけ、美香と市内のカフェで待ち合わせたのは、卒業が迫った二月の週末だった。忘れもしない人生の谷へと落ちた日だ。

 
 親に借りた車で国道を走っていた俺は、事故に遭った。信号無視で交差点に突っ込んできたトラックに激突されてしまったのだ。トラックは横転して運転手は死んだ。俺は全身の骨折と内蔵破裂でしばらく死の淵をさまよった末、どうにか一命を取り留めた。容態が安定してから「死なずに済んだのは奇跡です」と医者に言われた。

 そこまでの大怪我だから後遺症は避けられず、足に麻痺が残り車椅子での生活を余儀なくされた。頑張ってリハビリすれば歩けるようになると言われたが、気休めにしか聞こえなかった。

 非情にもと言うべきか、あるいは当然にもと言うべきか、就職が決まっていた会社からは内定を取り消された。親は元気になったら就職先なんていくらでも探せると俺を慰めたが、不景気の風が吹きまくる昨今、一流企業への就職は容易ではない。第一、それ以前に歩けるようになる保証もないのだ。

 俺はベッドの上で絶望した。なのに弱った姿を見せたくなくて、家族や友人の前では「必ず元気になるから」と笑い、悲劇にも負けない強い男を演じ続けた。だが美香の前でだけは「強がるのは疲れたよ」と弱音を吐いた。
 そんな時、美香はいつも涙ぐみ、俺を優しく励ましてくれた。

「裕くんのことは私が支えるから。リハビリも一緒に頑張ろう。元気になったら一緒に暮らそうね」
 美香の言葉だけが心に響いた。俺には美香がいる。彼女さえいてくれれば、俺は不幸な男じゃない。美香のためにも、早く元の身体に戻らなければ。

 必死でリハビリに励んだ。その甲斐あって、夏が来る頃には歩行補助杖を使えばどうにか歩けるまでに回復した。血の滲むようなリハビリの成果だ。
 けれど足が回復するにつれて、美香の見舞いの回数は減っていった。毎日だったのが一日置きになり、一週間に二度が一度になり、退院間際の頃は半月に一度程度の訪問になっていた。

 どこからも内定がもらえず、就職活動に追われているのだと疲れた顔で言われれば、なぜもっと来てくれないんだと責めることもできない。
 物分かりのいい男のふりをして、「無理して来なくてもいいからな」と言うのが精いっぱいだった。

   ***

「裕ちゃん、俺の車で映画でも見にいかない? いい気晴らしになると思う」
 退院してすぐの頃だった。ベッドに寝転んで携帯を弄っていたら、見舞いに来た久志がそんなことを言い出した。
「映画なんて見る気分じゃない。今日はリハビリに行ったから疲れてるんだ」
 実際は杖をついて映画館に行くのが嫌だった。不様すぎる。

「そ、そうか。ごめん、気が回らなくて。じゃあ、また今度にしよう」
「お前、徹夜したのか? 目の下にくまできてるぞ」
「え? あ、うん。締め切りだったからね」
 何が嬉しいんだかへらへら笑っている。ガキの頃から全然変わらないな、こいつ。そんなことを思いながら、また携帯に視線を戻した。

「そういやさ。お前が描いてる雑誌って、コンビニで売ってないんだな」
「マイナーな雑誌だからね。読みたいなら持ってくるよ」
 わざわざいいよ、と答えて寝返りを打った。久志の描く漫画は話が陰気だし絵柄も地味だし、正直まったく面白いと思えない。

 久志は二年前に会社を辞め、今は漫画を描いて暮らしている。売れている様子はいっさいないが、一応プロの端くれとしてやっているようだ。昔から絵を描くのが好きだったから、本人は今の生活に満足しているらしい。

 時間の融通が利くせいか、入院中は頻繁に見舞いにやって来た。退院した今も週に一、二度は訪ねてくる。大学に入ってから忙しくなり、久志の相手などしていられなかったが、まるで会えなかった時期の分を取り返すかのような勢いだ。

 それに引き替え、大学時代の友人たちは薄情なものだった。見舞いに来てくれたのは最初のうちだけで、今はメールさえ送ってこない。美香は就職活動に加えて卒論のほうも忙しいようで、もう一か月近く会っていない。やり取りはもっぱらメールとSNSだ。

 気がつけば夏が去り、秋を迎えようとしていた。自分だけが世間から置いてきぼりを食らっているみたいで、やり切れない気持ちになる。
「最近、美香ちゃんの話を聞かないけど、上手くいってるの?」
 舌打ちしたくなった。病院で何度か美香と鉢合わせして、紹介してやったら馴れ馴れしく美香ちゃんと呼ぶようになった。

「いってるよ。……映画は見ないけど、ドライブならつき合ってやってもいいぞ」
 気が腐ってしょうがなかった。足は少しずつよくなっているが、元通りの状態にはほど遠い。
「本当? じゃあドライブに行こう。裕ちゃんの行きたいところに行くから」
 久志は満面の笑みを浮かべて立ち上がった。漫画家になっても、相変わらず友達は俺しかいないようだ。

 中古で買ったという年季の入ったワンボックスカーに乗って、しばらく経った時だった。カーラジオからニュースが流れてきた。
「──昨夜未明、S区の路上で女性が何者かに襲われ、刃物で刺される事件が発生しました。重傷を負った女性は意識不明のまま搬送され、その後、病院で死亡が確認されました。警察は現場付近で目撃された不審な男の行方を追うと共に──」

 久志がラジオのチャンネルを変えた。途端に明るいポップスが車内に流れる。
「なんで変えた?」
「べ、別になんとなく。暗いニュースなんか聞いても面白くないし」
 どこか怯えたような態度に見えた。そんな久志を見て、そういえばと思い出した。

 高三の時、俺はこいつに連続殺人犯だと嘘をついたんだっけ。びびった久志の情けない泣き顔、最高だったな。
 あの頃はよかったと年寄りみたいなことを考えてから、もしかしてと思った。久志もニュースを聞いて、あの夜のことを思い出したのではないか。そして昔とは違う俺を憐れに思ったのではないか。

 考えすぎだと内心で苦笑したが、被害妄想は厄介だ。理性とは別の部分で働く。
 久志ごときに同情される俺。あまりにも惨めすぎる。
 気分転換どころか最悪の気分を味わいながら、俺は窓の外に視線を向けた。気がつけばいつの間にか、俺の通っていた大学の近くまで来ていた。

 赤信号で車が止まる。目の前には学生の頃、よく美香と通ったドーナツショップがある。
 懐かしい気持ちで眺めていると、ふたり連れの客が店から出てきた。俺の目はそのふたりに釘付けになった。どちらも知っている相手だった。

 ひとりはテニスサークルの後輩の杉元という男だった。甘いルックスの持ち主で、俺の次くらいに女の子から人気があった。
 その杉元と親しげに腕を組んで歩く女。
 美香だった。

後編に続く



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