ヒトリガ(後編)
<前編を読む>
「美香には口止めされていたんだけど、徳田くんが気の毒だから話しちゃうね」
電話の向こうで浅野佐緒里はそう前置きしてから、俺の知らなかった事実を明かした。
「杉元くんとは二か月前くらいから、ふたりきりで合ってるみたい。美香、徳田くんとは早く別れたいって思ってる」
佐緒里は美香の友人だが、自分より可愛くて異性にもてる美香を妬んでいる。俺と美香がいい雰囲気になり始めた頃、同じくテニスサークルの一員だった佐緒里は、「あの子、表裏のある性格だから気をつけてね」と告げ口してきたことがあった。そんな佐緒里なら美香が浮気しているかどうか教えてくれるに違いないと踏んで、電話をかけてみたのだ。
「信じられない。美香はいつも俺を励ましてくれてるのに」
「でも最近は会ってないんでしょ? 杉元くんとはしょっちゅうデートしてるよ」
黙り込んだ俺に、佐緒里は勝ち誇ったような口調で言い募った。
「だからあの子はやめたほうがいいって忠告したのに。徳田くん、女を見る目がないんだから」
佐緒里は「美香の日記、読む?」と言いだした。女友達だけで繋がっているSNSサイトがあり、美香はそこで日記を書いているというのだ。その日記をメールで送ってあげると持ちかけてきた。
俺は驚いた様子を装い、「それは駄目だ。できない」と断った。だがこの女は絶対に強く押してくると予想していた。案の定、佐緒里は誰にも言わないから大丈夫だと言い、電話を切ったあとで、添付ファイルつきメールを送りつけてきた。
パソコンでファイルを開くと、日記をコピーしたと思しき文章がずらずらと並んでいた。日付順に並んでいる。俺は夢中で美香の日記を読み始めた。
事故に遭うまでは一流企業への就職が決まった彼氏『Yくん』の自慢やのろけが目につき、事故後は失意のどん底にある恋人を自分がどんなふうに優しく励ましているか、どれほど親身になって支えているのかという内容が多かった。けなげな自分に酔っているとしか思えない文面だった。
しかし次第に俺のことは書かなくなり、だんだんと『Sくん』という杉元らしき男が登場するようになった。優しくていい人。なんでも相談できて頼り甲斐がある。一緒にいると安心する。そんな褒め言葉が並び、やがて告白されて迷ってるという決定的な一文が現れた。
──私って弱いから、隣にいて支えてくれる人が必要なのかも。Sくんは私の理想のタイプ。私のことずっと守るって言ってくれる。Yくんのことが嫌いになったわけじゃないけど、今の彼を支えていく強さは、私にはない気がする……。
本人はふたりの男の間で揺れ惑う複雑な女心を綴っているつもりかもしれないが、ひどい女と思われたくなくて、くどくど言い訳しているとしか思えない日記が何度も続いた。
やがて悩めるヒロインにも飽きたのか、最近の日記は杉元ののろけ話に終始して、俺のことなどこれっぽっちも触れていない。たまに出てきたかと思えば、「またYくんから電話があった。こんなに避けてるんだから、別れたがってるって気づいてくれたらいいのに。鈍すぎる」だの、「私から別れたいって言ったら、Yくんはショックで死んじゃうかも。あー女々しい男って面倒臭い(笑)」だの、歯に衣着せない言葉で俺への不満を吐き出すようになっていた。
マグマのように噴き出してくる怒りに、全身が熱くなった。電話やメールでは愛想よく接しているが、実際は俺のことを馬鹿にしていたのだ。なんて女だろう。大嘘つきで尻軽で最低じゃないか。可愛い顔と甘え上手な態度に、すっかり騙されてしまった。
こんな屈辱は生まれて初めてだ。許せない。あの女だけは、絶対に許すことができない。
***
俺の怒りは日増しに膨れあがっていった。
事故に遭ったのも、もとはと言えば美香のせいだ。あいつが俺と一緒に暮らしたいなんて言ったから。あの言葉さえなければ、あの日、出かけさえしなければ、俺は何事もなく一流企業に就職して、思いどおりの人生を満喫していたはずなのに。何もかもあの女のせいじゃないか。
自分の不運をすべて美香のせいにして、一心に彼女を憎んだ。今頃、杉元と一緒になって惨めな俺を嘲笑っているに違いない。嫌な女だ。あんな奴は生きている価値もない。死んでしまえばいいのに──。
美香の死を願ううち、俺はいつしか美香を殺す自分の姿を夢想するようになった。大学受験の頃も、人殺しの場面を想像してストレスを発散させたが、あの時とは比べようもないほどの強い殺意があった。
殺意はまるで甘い飴だった。美香を生かすも殺すも自分次第。あの女の命は俺の支配下にある。そう感じることで俺は満たされた。それは負け犬の逃避でしかなかったが、俺は認めたくない現実から目をそらし、甘美な殺意の味を夢中で舐めて味わった。
妄想の虜になった俺は、ついにはナイフを買った。ナイフを持ったことで万能感が芽生えた。本当に殺してやる。俺ならできる。
杖を使わなくても歩けるようになったら、このナイフで美香を刺し殺す。そう決めると痺れるような興奮に包まれた。毎晩、ナイフを握り締めて眠りについた。
年の瀬が迫り、街にクリスマスムードが高まってきた頃には、杖なしでも歩けるようになっていた。左足をやや引き摺るような歩き方になるが、小走りくらいならできる。
美香を何度も尾行して飲食店でのバイトのある夜は、帰りが十一時近くになることがわかった。美香の自宅近くには細い路地がある。片側は鬱蒼とした雑木林で、片側は潰れた工場の高い外壁。待ち伏せして襲うには格好の場所だった。
クリスマス・イブが三日後に迫った夜、美香がバイトに出ているのを確認した俺は、例の路地に原付バイクで先回りして、雑木林の茂みに身を潜めた。冷たい風が吹いていたが、高揚感のせいか寒さは感じなかった。興奮は高まる一方だった。コートのポケットの中で、ナイフを握る手もじっとりと汗ばんでいる。
予定の時刻になり、美香らしき人影が近づいてくるのを確認した。一本だけある街灯は頼りなく明滅して、今にも切れてしまいそうだった。
カツカツカツ。アスファルトに響く靴音。そこにドクドクドクと騒ぐ鼓動の音が重なっていく。茂みから覗いてみると、耳にイヤホンをつけた美香の横顔が見えた。俺に見られていることに気づかず通り過ぎていく。
背後から近づき、口を塞いでナイフを胸に突き刺す。何度も何度も刺してやる。そう決めていた。毎日、頭の中でシミュレーションもした。
なのに駄目だった。俺の足は動かなかった。地面に足首まで埋め込まれているかのように、一歩も動けなかったのだ。美香の背中がどんどん遠ざかっていく。やがて足音も聞こえなくなった。
俺はポケットから自分の手を出して見つめた。手はぶるぶると震えていた。
不様だと思ったら泣けてきた。女ひとり殺せなかった。とんだ腰抜け野郎じゃないか。俺は特別な人間なんかじゃない。無駄にプライドが高いだけの大馬鹿野郎だ。
実際はそんなこと、ずっと前からわかっていた。ただ認めたくなかった。認めてしまうのが怖かった。何者でもない俺。その他大勢の俺。そんな自分が嫌で嫌で、俺は必死で周囲を見下してきた。そうして得られるわずかな優越感が、俺の心を守る鎧だった。
だが鎧はもう消えた。俺はもう自分を特別な人間だとは思えない。
***
いっそのこと死んでしまおうかとも思ったが、その気力さえなかった。
酒を買い込んで家に帰り、一緒に飲もうと久志を呼びつけた。久志はすぐにやって来たが「車だし、帰ってまだ仕事もしなきゃいけないから」と言って酒は口にしなかった。
「美香ちゃんのことは、もう忘れたほうがいいよ」
久志は同情するような目つきで俺を見ていた。なんでお前ごときに同情されなきゃいけないだと思ったが、何もかもぶちまけたのは俺だ。どうしても吐き出さずにはいられなかった。こんなみっともない話ができる相手は久志しかいない。久志なら笑うことも馬鹿にすることもなく、俺の話を聞いてくれる。そう信じて打ち明けたのだ。
「本当に殺してやりたいと思ったんだ。家の近くの路地で待ち伏せた。けど、勇気がなくてできなかった」
「勇気の問題じゃないよ。裕ちゃん優しい人だからできなかったんだ」
「俺は別に優しくなんかない」
「優しいよ。すごく優しい。僕を助けてくれたし、ありのままの僕を受け止めてくれた。裕ちゃんみたいな優しい人、他にはいないよ」
お世辞ではなく心からの賛辞だとわかり、思わず顔を背けた。久志の激しい思い込みが不快だった。時々、本気で気持ち悪くなる。これだけ長いつき合いなのだから、いい加減、俺の本性に気づいてもいいはずなのに、子供の頃から久志の態度は一貫して変わらない。
いつだって俺を理想化して崇めてくるのだ。その頑なな態度には、強固な信念のようなものを感じる。いや、信念というよりまるで信仰心のようだ。
「大袈裟な奴だな。子供の頃、お前を助けたのは、単に苛めが気に入らなかっただけだ」
「わかってる。でもそれだけじゃない。中二の時だって、あのことを誰も言わないでいてくれただろ」
「中二の時? なんの話だ?」
「……小坂先生の、リップクリームの件だよ」
恥ずかしそうに答える久志を見ながら、ああ、あれか、と遠い記憶を掘り起こした。
俺と久志は中学二年でも同じクラスになった。担任は小坂という三十代半ばの女教師で、真面目を絵に描いたような地味な女だった。久志はその小坂にひそかに想いを寄せていた。
そのことを知ったのは偶然だった。誰もいない放課後の教室で見てしまったのだ。小坂先生が忘れていった薬用リップクリームを、久志が自分の唇に塗っているところを。久志のうっとりした表情は、俺がいることに気づいた瞬間、絶望のそれへと変化した。
なんて気持ちの悪い奴なんだと呆れた。それが可愛い女子のものなら、少しは理解もしてやれただろう。けれど相手は不細工なおばさんの使っているリップクリームだ。趣味が悪すぎる。
久志は今にも泣きそうな顔で、呆然と俺を見ていた。なじるか、からかうか、黙って立ち去るか。
自分が示すべき反応を咄嗟に決めた俺は、久志に近づき「小坂先生が好きなのか? お前も趣味が悪いな」と笑いかけた。
「どうせならもらっちゃえよ。リップくらい別に構わないだろ」
共犯者を決め込んで軽いノリで言ってやると、久志は戸惑いながらも安堵したように肩の力を抜いた。
「で、でも、泥棒はよくないよ」
お前に使われたことを知らずに、先生が使うのはいいのかよ。そんなことを考えながら久志の手からリップクリームと蓋を奪い、奴の制服のポケットに突っ込んでやった。
「こんなの泥棒のうちに入らないって。先生もどこかで落としたって思うだけさ」
久志には徹底して恩を売っておこうと思った。自分の言いなりになる存在がいるのは、何かと便利だし都合もいい。結局、久志はリップクリームを持ち帰った。
「あの時のこと、裕ちゃんは誰にも言わないでくれた。今でも感謝してる。裕ちゃんだけが僕を理解して、ありのままの駄目な僕を受け入れてくれる。裕ちゃんと出会えてよかった。心の底からそう思って──」
「やめろよ」
どこか熱に浮かされたような久志の熱弁を、俺は遮った。
「俺はお前が思うような優しい人間じゃない。その証拠に、自分を裏切った美香を殺そうとしたんだ」
「でもしなかった。それでよかったんだよ。裕ちゃんには人殺しなんて似合わない。もう二度と馬鹿な真似はしないでほしい。約束してよ」
久志は本気で心配していた。友情と同時に危うい依存を感じるが、俺への好意は本物だとわかっている。仮に俺が美香を殺したとしても、久志ならその罪さえ許してくれそうだ。
今まで散々馬鹿にしてきたが、俺も同じなのかもしれないな、とぼんやり思った。俺だって他には誰もいないのだ。上辺だけの友人はたくさんいたが、ありのままの俺を受け入れてくれ相手は久志だけ。俺の一番の見方。唯一の理解者。
これからはもう少し優しくしてやろうと思った。
***
正月は家族旅行につき合わされ、年が明けた三日の午後に帰宅した。
美香への殺意を手放した俺は、憑き物が落ちたように清々しい気持ちになっていた。
そもそも、あんなつまらない女にこだわることはなかったのだ。冷静になって振り返ると本気で美香を殺したかったのではなく、傷つけられたプライドを守るためのポーズとして、殺意を燃やしていたに過ぎないのではないか。自分自分に対するパフォーマンス。そんなふうにも思えてきた。
年始の挨拶がてら、旅行の土産を久志の家に持っていってやろうと思い、車に乗って家を出た。久志は仕事があるのでずっと家にいると言っていた。連絡なしに押しかけても平気だろう。
久しぶりに訪れた久志の家は、相変わらずのボロ屋だった。家の前の空き地に車を駐めた時、久志の祖母が玄関の掃き掃除をしていた。エンジンの音も聞こえないのか、ちらりとも視線を寄越さない。目も悪いはずだが、折れ曲がった腰で器用に三和土を掃いていた。
車を降りてドアをバタンと閉じても、祖母はこちらを見なかった。
「明けましておめでとうございます。久志くん、いますか?」
挨拶したが、祖母は気づかず家の中に入ってしまった。
「裕ちゃん? 庭にいるよ」
奥から声が聞こえてきたので、そのまま庭に回ると久志がいた。焚き火をしている。
「正月から焚き火かよ」
「燃やさないといけないものがあったから。旅行は楽しかった?」
「別に楽しくないよ。あちこち引っ張り回されて疲れた。これ土産。饅頭だからばあちゃんと食えよ」
久志は嬉しそうに礼を言い、受け取った袋を縁側に置いた。その時、室内から祖母の声がした。久志を呼んでいる。
「ごめん。座って待ってて」
久志がいなくなり、縁側に腰を下ろして焚き火を眺めていると携帯が鳴った。
電話をかけてきたのは佐緒里だった。年始の挨拶だろうと思ったが、それは思いもよらない知らせだった。衝撃を受けて、どう受け答えしたのか覚えていない。我に返った時には、すでに通話は切れていた。
「裕ちゃん、ごめんよ」
戻ってきた久志はサンダルを履いて、焚き火の中に新しい薪を入れた。よくよく見ると、ハンドバッグの持ち手らしき部分が焼け残っている。あのピンク色。見覚えがある。
「久志……」
「どうしたの? 変な顔して」
「……美香が死んだって。昨日の夜、家の近くで誰かに刺されたそうだ。バッグが盗まれているから、警察は強盗の仕業じゃないかって」
焚き火で焼かれているのは、美香が持っていたショルダーバッグだ。俺が一昨年のクリスマスにプレゼントしたコーチのバッグ。自分で選んだものだからよく覚えている。間違いない。
「お前なのか? お前が美香を殺したのか?」
なぜかわからない。俺は直感していた。美香はあの細い路地で殺されたのだ。俺が身を潜めた雑木林に、久志もまた同じように身を潜め、美香を襲った。その光景が頭の中にありありと浮かんでくる。
「そうだよ。僕がやった。裕ちゃんが二度と馬鹿な真似しないように、先手を打ったんだ」
久志はいつもと同じ調子で答えた。
「強盗に見せかけたほうがいいと思って、バッグを盗んだ。本当は夜のうちに焼きたかったんだけど、徹夜明けで美香ちゃんを殺しにいったからすごく眠くてさ。……あ、そうだ。これだけは残しておいたよ。いる?」
久志がズボンのポケットから出してきたのは、一本の口紅だった。
「それ、美香のものか……?」
「うん。いらないなら僕がもらってもいい? いつも戦利品にしてるんだ」
ぞわりと肌が粟立った。いつも? いつもってなんだ?
「他には何本、持ってるんだ?」
口が勝手に動いていた。久志は「四本だよ」と答えてから、「あ、小坂先生のを入れると五本だね」と笑った。
「高三の時、裕ちゃんに気づかれただろ? 俺が女性の連続殺人の犯人だって」
なんだ? なんの話をしているんだ? 俺は自分が犯人だと嘘をついただけだ。
「最初はどうして自分がやったなんて嘘をつくのかわからなくて、すごくびっくりした。きっと僕のしたことを責めているんだと思って、目の前が真っ暗になった。でもあとから気づいたんだ。あれは裕ちゃんなりの優しさだったって。小坂先生のリップの件みたいに、裕ちゃんは俺の罪を見逃して、そして許してくれた。裕ちゃんの友情にどれだけ感謝したかしれないよ。我慢できない自分の弱さが恥ずかしくなって、もう殺さないって決めたんだ」
頭の奥が鈍く痺れてきた。高三の時、立て続けに起きた三件の殺人事件。あれが久志の仕業だったなんて──。だが何より異様に思えたのは、リップを勝手に使った行為と複数の女性を殺した罪を、久志が同等に語っていることだった。
何かもが馬鹿げていた。白昼夢を見ているようだ。これは俺の妄想じゃないのか?
「でも、どうしても衝動を抑えきれなくて、またやってしまった。あの時は恥ずかしくて裕ちゃんの顔が見れなかった」
思い当たる場面があった。他院して間もない頃、ふたりで車に乗っていて、女性が殺されたというニュースがカーラジオから流れてきて、久志は怯えたように番組を変えた。あの時の泳ぐような目は、俺へのやましさの表れだったのか。
「美香ちゃんのことは自分で殺したかったと思うけど、裕ちゃんにはどうしてもさせたくなくて、俺が代わりにやった。勝手なことしてごめんよ。けど、怒らないでほしい。裕ちゃんは僕のヒーローなんだ。裕ちゃんの手が汚い血に染まるのは嫌なんだよ」
久志の言葉が耳をすり抜けていく。俺はどうすればいいのかわからなかった。何人もの女性を殺した恐ろしい殺人鬼が目の前にいる。すぐにでも通報すべきだ。
だが俺だって美香を殺そうとした。勇気がなくてできなかっただけで、ナイフを持って待ち伏せしたのだ。殺意という一点において比べれば、俺のほうが主体性があった。
頭の痺れはますます強くなり、思考が麻痺してきた。けれどひとつだけ、はっきりと感じていることあった。
久志が殺人犯なのはもちろんショックだが、無価値な人間だと思い、散々馬鹿にしてきたこの友人こそが、ある意味では誰よりも特別な人間だった。そのことに俺は強く打ちのめされていた。特別でありたいと願い続けた俺のほうが、ただの虫けらだったのだ。
「裕ちゃんは僕にとって特別な存在なんだよ。昔も今も、そしてこれからも」
まるで俺の心を読んだかのようなタイミングだった。
「僕は小さい頃から火を見るのが好きだった。なぜかすごく惹きつけられてしまう。上手くいえないけど、裕ちゃんは僕にとって、この火みたいな存在なんだ。……昔、火に飛び込んでいく蛾を一緒に見たよね? あれって僕みたいだなっていつも思ってる」
焚き火を見つめながら久志が言う。子供みたいに無邪気な顔をして。
あの蛾。なんだっけ。名前が思い出せない。久志が教えてくれた気がするんだが。
パチパチとはぜる炎を呆けたように見ていたら、その名前がふっと頭に浮かんだ。
──そうだ。ヒトリガ。火取蛾だ。
燃えさかる火の周りを、ひらひらと飛び回る火取蛾の姿が見えた。もちろん幻だ。けれど俺にははっきりと見えていた。そいつは逆らえない引力に吸い寄せられるように、自ら炎の中へと飛び込んでいった。
その蛾は果たして久志なのか自分なのか、俺にはわからなかった。
《終》
・2016年執筆
・嫌な奴を書いてみたかった
・久志がホラー