君去りぬ
2018年夏頃に書いた短編習作。
妻がいなくなり、途方に暮れる作家の話。妻には大きな秘密があり――。
僕の妻だった女は、夏の終わりの夕暮れ時に、この世界からいなくなった。
ところどころ文字の消えたキーボードに指を置いたまま、僕は十年以上愛用しているノートパソコンの画面を見ていた。テキストを打つことしかできないオンボロマシンを相棒にしているのは、お金がもったいない、まだ使える、愛着がある、という理由の他に、執筆中にネットを見たりゲームをしたりせずに済む、という利点もあってのことだ。悲しいかな、僕はとんでもなく意志が弱い。
テキストエディターの中で点滅するカーソルは、もう長いこと動いていない。今日こそ原稿を書き終えなければ、僕は終わりだ。作家としての終焉だ。とにかく、もうめちゃくちゃやばいのだ――。
ひたすら言葉で自分を追い込んでみるものの、実際は締め切りまであと二日もある。まだ本気の焦りが襲ってこない。
必要なものをアウトプットできない空っぽの頭に、昔はよかったよな、と懐古主義の逃避が忍び込んでくる。僕の書くものはエンターテイメント性が薄く、かといって尖った文学性があるわけでもないのだが、そのどっちつかずの作風が一定の読者層に受けたようで、二十代のうちに出版した十二冊の本は、どれもそこそこ売れた。今でもたまに重版されて印税が入ってくるし、電子書籍の売り上げもいくらかはある。
絶好調だった二十代が嘘みたいに、三十を過ぎたあたりからびっくりするほど書けなくなった。いわゆるスランプだが、知らない街で迷った旅人みたいに、何を書けばいいのか急にわからなくなった。けれど職業作家である以上、生活のためにもとにかく書くしかない。
創作は井戸の水に似ている。汲み続けていれば水が湧くように、書き続けていればどうにかなる。多分。量産型の有名作家もそう言っていたから、信憑性は高い説のはずだ。
しかし、いいアイデアなんて簡単に湧きやしない。昔はこんこんと湧いた水も、今では出の悪いおしっこみたいな感じで、ほとほと情けなくなる。
最後に本が出たのは一年と二ヵ月前。今はWEB雑誌の連載一本で食いつないでいる。しかしその連載も行き詰まってばかりで、規定の枚数をクリアするのが至難の業である。
窓の外には夏の終わりの夕暮れ空が広がっていた。物悲しくなるほどの美しさだ。今年は九月に入っても暑い日が続いていたが、ようやく涼しくなってきた。今日は完全に気温も空も秋の気配だ。
朝、起きてリビングに行くと、妻の美帆子に「今日は寒いよ。そろそろ靴下はいたら?」と注意された。
僕は家では真冬以外、ずっと裸足生活者だ。冷え性の美帆子には、見ているだけで寒くなるからやめてほしいと何度も言われたが、「靴下は僕の魂を窮屈にするから無理」と取り合わなかった。とんでもない言い訳だ。
考えることに疲れ果て、きれいな空だなぁ、とぼんやり見上げていると、どうしても思い浮かばなかった主人公の次の台詞が、天啓のようにポロリと空から降ってきた。
「修ちゃん。出かけるね」
妻の美帆子が書斎のドアを開けて声をかけてきたが、僕は頭にひらめいた言葉を逃したくなくて、「んー」と生返事をしてキーボードを叩いた。待ちわびた言葉がするすると出てくる。僕は夢中で言葉を打ち込んだ。
よし、これだ、この流れがしっくりくる。わずかな水でも、上手く流せる水路さえ見つかれば、流れはどこかに行き着いてくれる。
「夕食の支度はもうできてるから。仕事、頑張ってね」
「うん。いってらっしゃい」
ドアの閉まる音がした。きっと買い忘れた明日の食パンとかバナナとか、そんなものを近くのスーパーまで買いにいくのだろうと、僕は信じて疑わなかった。だけど違った。笑えるほど違った。
僕はどうしようもない愚か者だ。なぜあのとき、振り返らなかったのだろう。振り返れば美帆子のふっくらしたすべすべの頬や、艶やかな癖のない黒髪や、黒縁眼鏡の奥にある一重まぶたの愛らしい瞳を、もう一度見ることができたのに。
あれは、あの一瞬こそが、僕の妻だった美帆子の姿を見られる、最後のチャンスだったのに。
***
「樫原さん。新作のほう、どんな感じです? プロットは無理でも、そろそろアイデアだけでも聞かせてくれませんか。ざっくりでいいんですよ。とりあえず、進めていきましょうよ」
担当編集者の溝口さんが、電話の向こうで言う。溜め息をつきたそうな様子だったが、僕だって溜め息をつきたい。もちろん許されるものならば。
「まだイメージが固まらないんですよ。もう少し待っていただけますか。来週までには必ず」
同じ言葉を前回の電話でも言ったが、忘れたふりで開き直ることにした。捨てるほどあった申し訳ないという気持ちは、二年前に底をついた。あえて補充しないのは、罪悪感に押し潰されていては神経がもたないからだ。豆腐メンタルを自衛するために、僕は嘘つきのひどい男になった。
もちろん心の奥底では溝口さんに対して、本当にすまないと思っている。スランプでぐだぐだになった僕を見放さず、今も依頼をくれる数少ない編集者だ。まさに恩人である。
実は、いつもの僕を支えてくれていた大事な妻が、先月いなくなったんです、と打ち明ければ、同情を得られるかもしれない。そんなずるい考えも浮かんだが、慌てて却下した。
根掘り葉掘り聞かれては、たまったものではない。僕は他人にプライベートを話すのがとても嫌いだ。結婚したことも、半年ほど過ぎてから「そういえば」と電話で報告して、溝口さんにドン引きされた。
電話を切ったあと、コーヒーを淹れるためにキッチンに行った。裸足の踵が何かを踏んづけた。米粒だった。よく見ると他にも数粒落ちている。掃除機だけはちゃんとかけているつもりなのに。
美帆子がいた頃は、古いながらも手入れの行き届いた清潔なキッチンだったが、今は全体に薄汚れてほこりっぽい。僕は溜め息をつき、米粒を拾って捨てた。
郊外のそのまた端っこみたいな場所に、ひっそりと建つ築三十九年の平屋だ。近所に他の家はない。僕が生まれてすぐに、両親が中古で購入したと聞いている。父がこの家からいなくなり、大学に進学した僕も家を出てしまい、母はひとりになった。その母親も三年前に亡くなり、それを機に実家に帰った。嫌な思い出のある家だけど、スランプで収入が減った以上、背に腹は代えられない。
その頃、美帆子とはすでに交際しており、彼女は電車で三十分かけて、この家まで訪ねてくるようになった。家の裏には林があって、美帆子は初めてここに来たとき、「今にも林に呑み込まれそうだね」と笑った。
美帆子はどういうわけか、この家をいたく気に入った。つき合った当初から結婚は絶対にしないと断言していた彼女が、僕のしつこい求婚を受け入れてくれた一因は、もしかしたらこの家にあったのかもしれないと思えるほど、彼女はこの家が好きだった。
僕らは二年前、入籍した。僕は三十三歳、美帆子は三十二歳だった。美帆子の希望もあって結婚式は挙げなかった。ふたりとも結婚を祝ってほしい相手はいない。だから一緒に婚姻届を出しにいくだけで十分だった。
ただただ、幸せな二年間だった。些細な喧嘩はいくつかしたが、それすらも大事な日常だった。あの日々はもう戻らないのだろうか。
ダイニングテーブルでインスタントコーヒーを飲みながら、僕は恋しい気持ちを持てあまし、そこに置かれた便せんを手に取って眺めた。見るたび、一ヵ月前の衝撃が蘇ってきて泣きそうになる。
あの日、薄暗くなったリビングで、僕はこの手紙に気づいた。便せんと、印鑑を押した離婚届と、美帆子が持っていた家の鍵が、ダイニングテーブルの端に置いてあった。
鍵についた小さな手鞠のストラップは、美帆子が独身時代から持っていたと記憶している。
修ちゃんへ
突然いなくなってごめんなさい。どうしようもない事情があり、一緒に暮らせなくなりました。出会ってからずっと幸せでした。仕事、頑張ってね。ずっと応援してます。修ちゃんの小説は本当に素敵で大好きです。書くことだけはやめないでください。今までありがとう。さようなら。
いつもは感心するきれいな文字に、僕は恐怖した。だがすぐに笑った。いたずらだと思ったからだ。しかし美帆子が家を出てから、二時間近くが過ぎていた。買い物にしては遅すぎる。まさか、そんなわけは、いやいや、ははは。
誰もいないのに、僕は余裕のある態度を演じて寝室に向かった。美帆子の服や下着がいくつか消えていた。大きな旅行鞄と一緒に。
そこで僕は再び恐怖した。冗談でもいたずらでもなく、美帆子は決然たる気持ちで家を出ていったのだ。
テーブルの上には質素だが、品数は十分な夕食が準備されていた。今でもふと考える。あの夕食は美帆子の最後の優しさだったのではないか。哀れみや偽善や義理かもしれないが、僕は愛だと思いたかった。
僕らはとても仲のいい夫婦だった。よくある夫の独りよがりや思い込みではなく、本当に愛し合っていた。断言できる。なのに美帆子は愛している夫と、大好きなこの家を捨てて去ってしまった。
行き先はまったく思い浮かばなかった。妻のことを知らないからではなく、よく知っているからこそわからなかった。美帆子は僕以外に身寄りのいない専業主婦で、おまけに極端な人見知りで、親しい友人もいない。生い立ちのせいもあるが、とにかく他人との交流は皆無に等しかった。
結婚前は宅配会社の大きなコールセンターで、客からの問い合わせに応対する電話オペーレーターをしていた。会社に友達はいないと話していた。その言葉を裏づけるように、美帆子の携帯電話に知り合いの番号は入っていなかったし、メールの着信音が鳴ることもなかった。
孤独な女だったが、それでいて同情心を誘わなかったのは、おっとりして見えても心の内に、強い気持ちを持っていると感じられたせいだろう。自ら望んで孤独に生きる者は、寂しい人間だが決して不幸ではない。
彼女に共感を抱いたのは、美帆子に負けず劣らず、僕も孤独な男だったからだ。友人もつくらず、家にこもって小説を書く毎日。唯一の楽しみは近所にある小さな飲み屋で、安くて美味しい料理と冷えたビールを飲むことくらい。僕はその行きつけの店で美帆子と出会ったのだ。
よく見かける女性だから、存在はずっと認識していた。いつもひとりで来て、二、三品頼み、ビールはジョッキに一杯か二杯。静かにやってきて、静かに帰っていく。少しぽっちゃりした体形と丸みのある顔、さらに丸っぽい黒縁眼鏡のせいか、ちょっとタヌキみたいで可愛いな、と思った。僕はふっくらした女性が好きなのだ。
隣に座ったある日、思い切って話しかけてみたら、最初は警戒された。いつも僕ならそこで挫けるのだが、その日は珍しく頑張った。しつこくない程度に話かけているうち、美帆子も警戒を解いたのか、帰り際には笑顔を見せてくれた。
以降、会えば一緒に飲んだ。仕事のことを聞かれ、作家だと打ち明けたら読みたいと言われ、本を持っていったら、ファンになったと真顔で言われて、すとんと恋に落ちた。不思議なものだ。普段、ファンだと言ってくる相手は苦手なのに。要するに、僕は最初から美帆子のことが好きだったのだろう。
大恋愛というわけではないが、僕らは僕らにちょうどいい熱量で愛し合い、深く満たされた。結婚してからもそれは同じだった。穏やかに幸せな日々を送ってきた。だから他に好きな男ができたとか、贅沢のできない暮らしに嫌気が差したとか、そういうことではないと確信している。
僕は毎日家にいたから、普段の美帆子の生活はよくわかっている。彼女に男の影はなかった。それに美帆子は僕以上に倹約家だった。そして倹約そのものを楽しめる女性だった。
スーパーの特売を狙い、自転車で何件も店を回り、帰宅するとその成果を僕に必ず報告した。あそこでは卵が九十八円で買えて、あの店では大根が一本百円だった、という話を、実に嬉しそうな顔でするのだ。
彼女にとって節約は仕方なくの我慢ではなく、宝探しにも似た日々の楽しみだったと思う。最初の頃は、稼ぎの少ない僕に気を遣わせまいとして、無理しているのではないかと考えたが、すぐに美帆子は主婦業を心から愛していると理解した。
しかし、それでも、売れない小説家が妻に捨てられたという悲しき事実は、歴然としてそこかしこにあった。
日に日に薄汚れてくるキッチン。使われなくなったピンクの歯ブラシ。
畳まれたままの美帆子の布団。主を失い、寂しく玄関に佇むクロックスサンダル。
それらを見るたび、僕は妻の不在に強く打ちのめされた。
警察に捜索願を出すことも考えたが、やめた。事件や事故に巻き込まれた可能性もなく、自分の意思でいなくなった成人女性を、警察が捜してくれるとも思えない。それに僕は警察が大嫌いだ。姿を見るだけで吐き気がする。
探偵を雇って居場所を探してもらうことも考えた。しかしそれもやめた。
たとえ美帆子の居場所がわかっても、彼女はきっと帰ってこない。美帆子は大人しい性格だが、こうと決めたら絶対にその気持ちを変えたりしない人だった。彼女がその鉄の意志を曲げたのは、一度きりだ。死ぬまで修ちゃんと一緒にいたいと言うくせに、頑なに結婚を嫌がった彼女を説得するのに、二年かかった。その一度だけが、美帆子の心変わりだった。
携帯電話を手に取り、美帆子の番号にかけてみる。結果はわかっているのにかけてみる。
「お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません」
聞き飽きたアナウンス。美帆子がいなくなった翌日には、もうこのアナウンスに切り替わっていた。携帯を解約したのだ。唯一の頼みだった一本の糸が切れた。美帆子がチョキンと断ち切った。私はあなたの元には二度と帰りません、という意思表示。一時的な家出でないことが証明された決定的瞬間だった。
再び美帆子の残した手紙を見つめながら、そんなに僕が嫌なら帰ってこなくていいんだよ、と心の中で彼女に語りかけた。帰ってこなくてもいいから、声が聞きたい。話がしたい。何より理由が知りたい。
ショックだし悲しいし怒りもあるけれど、それ以上に美帆子が心配だった。今、どうしているのだろう。頼れる相手はいるのだろうか。ちゃんと食べているのだろうか。お金に困っていないだろうか。
なあ、美帆子。君には僕しかいなかったんじゃないのか?
この広い世界で頼れる人間は僕しかいないはずだった。それは僕も同じで、ふたりで寄り添って助け合って生きていけると信じていた。君も同じ気持ちだと信じて疑わなかった。
なのに僕から離れて、君はどこに行ってしまったんだ。
***
美帆子が消えて二ヵ月が過ぎ、季節は秋を通り越して冬を迎えようとしていた。僕は例年より早く靴下をはいた。心が傷ついているせいか、やけに寒さがこたえて、冷えた足先がどうにも切なく疼いていけなかった。
新作長編のプロットは、どうにか書いて溝口さんに送ったものの、あまり芳しくない反応だった。僕としても何がなんでも書きたい内容ではなかったので、「再考します」と返事をしておいた。けれど新しいアイデアなんて浮かんでこない。
そうこうしているうちに、連載の締め切りも迫ってきた。今のところ、僕を作家たらしめる唯一の仕事なのだから、インフルエンザにかかろうが、妻に逃げられようが、とにかく執筆と向き合うしかない。
好きでしている仕事だけど、つくづく孤独な作業だと思った。嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も、問いかける相手は自分しかいない。人が楽しむものを生み出しているはずなのに、ちっとも楽しくない。
けれどそれでいいと思っている。苦しんだ分だけ、届いた場所で楽しんでもらえるはずだ。そうあってほしい。祈りにも似た願いに僕は励まされて、ひたすら言葉をたぐり寄せる。
日が暮れて、仕事を終えて、キッチンに立つ。僕の食べる量は昔から一定している。朝は食パンとコーヒーにバナナ一本。昼と夜はご飯をお茶碗一杯。おかずは美帆子がいなくなったので、このところは適当だ。その夜は鯖缶、野菜炒め、インスタントの味噌汁というメニューだった。寒くなってきたのでテーブルではなく、炬燵で食べた。外では風が強く吹き、建て付けの悪い窓がカタカタと鳴っている。
テレビを見ていると、視聴者から情報を募る番組が放送されていた。生放送で殺人や失踪などの未解決事件を紹介して、司会者が視聴者に向かって「何かご存じの方はこちらまで!」とやるあれだ。司会者の背後には、電話オペーレーターとして集められた大勢の女性たちが座っている。
まれに犯人や行方不明者の確かな情報が寄せられたりして、普段なら面白がって見る番組だが、今は妻が失踪して心配していると訴える夫や子供の哀れな姿を、とてもではないが見ていられなくてチャンネルを変えた。
鯖の身を箸先で割っていて、ある記憶が蘇った。以前、美帆子と同じような番組を見ていたことがあった。すると美帆子が「この人、知ってる」と言い出したのだ。結婚してすぐの頃だったと思う。
僕は驚いて「え? この殺人犯のこと?」と聞き直した。星野玲香という名前の犯罪者だった。
美人ホステスが同棲していた恋人を絞め殺して逃げたという事件で、発生当時も世間をおおいに賑わせた。
その恋人というのが、東大卒のエリート会社員だったことから、水商売の女に誑かされた挙げ句、無惨に殺されたという論調一色で、殺人鬼の悪女は今どこに、と大騒ぎになった。昔からマスコミも世間も美人ナニナニという言葉に呆れるほど弱い。
事件当時、彼女は二十三歳で、放映時の年齢は三十歳。七年も逃亡している凶悪犯だ。公開されたいくつかの写真はすべてドレスに身を包んだホステス姿で、化粧の濃い派手な顔立ちの美人だった。僕はその顔を見て女狐みたいだと思った。
「どうして知ってるの?」
「玲香は私と同じ施設にいたんだ。私よりふたつ年下で姉妹にみたいに仲が良かったけど、玲香が里親に引き取られて、それっきり会ってない。昔はもっと地味な顔してたな」
「ふうん。整形したのかな」
美帆子は「化粧のせいじゃない?」と呟き、チャンネルを変えた。美帆子は幼い頃、駅のホームに置き去りにされ、地方の施設で育った。そこでの暮らしについては、あまり話したがらないので、僕も聞かないようにしていた。だからどんな子供時代を過ごしたのかよく知らないが、幸せでなかったことだけは確かだ。
身近にいた友達が殺人犯になって逃亡している。どんな気持ちでいるのか想像してみようとしたが、上手くいかなかった。同時に自分の子供時代を思い出して、重苦しい気分に陥った。
美帆子と同じで、僕も幸せな子供時代を過ごしていない。両親の夫婦仲は悪く、喧嘩の絶えない毎日だった。父は酔うと母によく暴力を振るった。けれど飲んでいないときは、優しい父親だった。僕はどうしても父を嫌いになれなかった。
それなのに父は僕を裏切った。僕が中学に上がってすぐの春、ある男性を刺し殺して逮捕されたのだ。その人は父の不倫相手の夫だった。関係がばれて喧嘩になり、勢いあまって刺してしまったらしい。
実刑判決を受けた父は刑務所に入り、母は離婚を選んだ。当然だろう。その後、父は不倫相手だった女性と獄中結婚し、出所後は一緒に暮らしていたそうだが、僕が作家として忙しくなった頃、病死した。父の親戚から連絡が来たが、僕も母も葬儀には参列しなかった。
人殺しの息子。犯罪者の家族。そういうレッテルを貼られ、ひどい誹謗中傷を受けた。警察は捜査のためと称し、横暴な態度で家の中に入り込んできたし、マスコミは母にコメントを求めて自分勝手に押し寄せた。罵倒の電話が鳴り続け、投石で窓が割れ、人殺しという塀の落書きは後を絶たず、当然、学校でも苛められ、数え切れないほど嫌な想いを味わった。
罪を犯した本人は塀の中で守られて、裏切られた母と僕だけがなぜ冷たい世間と戦わなくてはならないのか。理不尽という言葉の意味を実感として知った。
そういった話を、僕はどうしても美帆子にできず、最近になって打ち明けた。今年の春先のことだ。美帆子には聞いてもらいたい、いや言わなくてはいけないという気持ちになった。
「結婚前に話せなくてごめん。僕は人殺しの息子なんだ。どうしても嫌なら離婚してもいいよ」
最後にそう言ったら、美帆子は涙ぐんで僕の手を握った。言葉はなかったが、その温かい手だけで十分だった。話せてよかったと僕は心から安堵した。長年、背負ってきた重い荷物を、ようやく下ろせた気分だった。
食事を終え、食器を洗っていて、もうひとつ思い出したことがあった。例の捜索番組を見たあと、僕は「もしさ。玲香ちゃんから匿ってほしいって連絡がきたらどうする?」と尋ねた。
深い意味があっての質問ではなかった。美帆子は「匿うかも」と答えた。僕は美帆子は優しいからな、と嬉しく思った。きっと警察に通報すると答えても、美帆子はまっすぐだからな、と感心しただろう。
「匿ってもいいし、一緒に逃げてもいい。玲香ひとりじゃ不安で寂しいだろうし」
美帆子が言うと、殺人犯との逃亡もどこかロマンチックなものに感じられた。犯罪者が身近にいるリアルな苦しみを知らないからこその、無責任な発言だと思った。
「でも今は無理。今は修ちゃんがいるから」
そう言って微笑んだ美帆子の顔を思い出し、僕はふっと微笑んだ。だがすぐに笑みが消えた。僕の頭にとんでもない考えが芽生えた。
美帆子はもしかして、玲香と一緒にいるのではないか。助けてほしいと連絡してきた玲香に同情して、美帆子は彼女のもとにいった。妹のように思っていた相手だ。放っておけない気持ちになったとしても不思議じゃない。美帆子は玲香と一緒に逃げている――。
突拍子もない考えだとわかっているのに、僕の妄想はどんどん膨らみ、手がつけられなくなった。布団に入る頃には、きっとそうに違いないという妄信的な確信に変わっていた。
妻が消えた理由はそれしか思いつかなかったのだから、夢中で縋るしかなかった。
***
なぜ僕に打ち明けてくれなかったのか、と考えてみて、それは僕が殺人犯の父を憎んでいるからではないか、という答えしか浮かばなかった。僕に殺人犯の玲香を受け入れる余地はないと、美帆子は判断したのかもしれない。
すべては妄想だ。けれど僕は『美帆子は玲香と一緒にいる説』を支持して、仮定の上にさらなる妄想を積み上げては、ああ、なぜ君は僕を信じてくれなかったんだ、僕はいつだって君の味方なのに、と益体もなく嘆いては溜め息をついた。
その日は一日中、仕事にも身が入らず、炬燵でぼんやり夕方のニュース番組を眺めていたが、そろそろ夕食のご飯を炊かなくては、と重い腰を上げた。米びつが空になっているはずだ。昨日、レバーを押したときの感触でわかっていた。
僕は買っておいた新しい米を補充するため、米びつの蓋を開けた。
妙なものが入っていた。白い封筒だ。なぜこんなところに、と驚きつつ手を伸ばし、表書きを見て鼓動が跳ね上がった。『修ちゃんへ』という美帆子のきれいな文字があったのだ。
封はのり付けされている。破りたい衝動を抑え、レターナイフを持ってきてダイニングテーブルの上で慎重に封を開けた。中には何枚もの便せんが入っていた。
指で摘まんで引っ張り出そうとした、そのとき。テレビからそれが聞こえてきた。
「報道フロアより速報です。九年前、交際相手の男性を殺害し、行方がわからなくなっていた星野玲香容疑者が、本日逮捕されました。S区の交番に自ら出頭したということです」
僕は慌てて手紙を炬燵の上に置き、リモコンを掴んで音量を上げた。
「もう間もなく星野容疑者の身柄はS署に移送されてくるということですが、現場の河野さん、S署前はどういった状況でしょうか?」
「はい、河野です。S署前にはたくさんの報道陣がつめかけています」
女性リポーターの背後に大きな警察署が見えている。マスコミは玄関前にいるようだ。
星野玲香が自首したと聞いて、僕が考えたことはひとつだった。やっぱり美帆子は彼女と一緒にいたのだ。この二ヵ月、玲香と暮らし、彼女を説得して出頭させたに違いない。
玲香が自首してしまえば、美帆子はひとりになる。もう彼女の役割は終わった。それならきっと僕のもとに戻ってくる。心配かけてごめんね、と済まなさそうな顔つきで、今夜にでもこの家に帰ってくるはずだ。
気の早い僕はすでに安堵しつつ、テレビを見続けた。
「警察の説明によると、あと数分で星野容疑者を乗せた護送車が到着するということです。長い逃亡劇に自ら幕を引いた星野容疑者、取り調べでは空白の九年間についてどのように――あっ、来ました! あの車だと思われます!」
リポーターが声を張り上げた。カメラのシャッターが激しく焚かれる中、赤色灯を回したワゴン車が警察署内へと入っていく。玄関前で護送車が止まり、中から私服の警察官に付き添われた女性が降りてきた。手には服がかけられ、手錠までは見えない。
俯いて歩く女は細かった。明るく染めた髪はパーマがかかり、肩でふわふわと揺れている。メイクは見るからに派手だ。大袈裟なつけまつげのせいで、彼女の存在そのものが安っぽく見える。
エナメルのハイヒールに、膝丈のタイトスカート。イメージ的にはホステス時代のままで、逆に違和感があった。ひっそりと生きる逃亡犯のイメージから、かなりかけ離れていたせいだろう。
玲香が不意に顔を上げた。何かを探すかのように、頼りない視線がさまよう。集まった報道陣を見たという感じでもなかったが、そのせいで一瞬カメラ目線になり、僕は彼女と目が合ったように錯覚した。
虚ろな表情の細面に、別の誰かの顔が重なった。その瞬間、指先から力が抜け、僕は持っていたリモコンを落とした。
「星野玲香容疑者です! 署内へと入っていく姿が、こちらからもはっきりと確認できますっ」
興奮したリポーターの声が遠くなる。僕は呆然と立ち尽くしながら、テレビに向かって「違う」と呟いていた。
星野玲香だって? そんなはずがない。テレビに映っていたのは玲香なんかじゃない。
あの女性は、あれは美帆子だ。僕の妻だ。
僕が美帆子を見間違えるはずがない。すっかり痩せてしまって別人のようだし、化粧が濃くて雰囲気もまったく違うけど、あれは絶対に美帆子だ。
美帆子は玲香と間違われて逮捕されたのか? いや、違う。ニュースでは自首したと言っていた。美保子は玲香になりきり、身代わりとして出頭した? けれどそんなことをしても指紋やDNAで、すぐに別人だとわかる。意味がない。
混乱する頭で、今すぐS署に行くべきだと考えたが、手紙の存在を思い出して飛びついた。手紙を封筒から引っ張り出すと、便せんとは違う紙が一枚だけ別に折られて入っていた。
最初にその紙を開き、僕は「え?」と声を漏らした。官報をコピーしたとおぼしき行旅死亡人(こうりょしぼうにん)の記事だった。
行旅死亡人とは本人の氏名や住所などが不明で、遺体の引き取り手が存在しない死者を差す法律用語だ。なぜこんなものを手紙に同封しているのかと戸惑いながらも、文面に目を走らせる。
行旅死亡人
本籍・住所・氏名・年齢不詳、推定年齢20代~30代の女性、身長155cm、中肉、セミロングヘア。
発見時、所持金品はなし。ネックレス、ピアス、服装は薄茶のダッフルコート、ジーンズ、青色トレーナー、白いスニーカー。
上記の者は平成2×年12月21日午後6時5分頃、石川県金沢市×町×丁目路上先において、倒れているところを通行人が発見し、救急搬送されたが同日午後6時50分、同病院で死亡確認された。状況を確認したところ交通事故に遭ったものと判明。死因は頭蓋底骨折に伴う脳挫傷である。
身元不明のため、ご遺体は火葬に付し、ご遺骨は保管してあります。心当たりのある方は、当市福祉事務所までお申し出下さい。
平成2×年2月18日 石川県 金沢市長
七年前の日付だった。意味のわかないこちらはひとまず横に置き、手紙を読むことにした。
修ちゃん、こんなところに手紙を隠してごめんなさい。すぐには見つけてほしくなくて、米びつに入れました。修ちゃんひとりだと、米びつのお米がなくなるまで、ふた月くらいかかるはずだから、ちょうどいいかなって。なんのことだけわからないよね。でも私には必要な時間なんです。
私は修ちゃんを騙していました。私は金井美帆子という人間ではありません。私は星野玲香です。恋人を殺して逃亡している殺人犯の、あの星野玲香です。以前、テレビを見ながら、知り合いだと話しましたよね。自分のことを他人のように話すのは、すごく変な感じでした。
「待ってくれ……。嘘だ。こんなの嘘に決まってる」
独り言が口をついて出る。僕は軽い目眩に襲われ、炬燵のそばに座り込んだ。テレビではリポーターがまだ何やら話している。
僕は浅い呼吸を繰り返し、再び手紙を読み始めた。知りたくない。知るのが恐ろしい。けれど知らなくてはいけない真実が、ここに書かれている。
***
私と美帆ちゃんが同じ施設で育ったのは事実です。面倒見のいい美帆ちゃんは、私にとって優しいお姉さんのような存在でした。私は中学に入る頃、里親に引き取られました。美帆ちゃんとのお別れが一番悲しかった。美帆ちゃんも泣いて悲しがってくれました。
引き取られた家でいい思い出はありません。詳しくは話したくありませんが、そこで私はひどい扱いを受けました。人としての尊厳を踏みにじられました。
必死で我慢して、私は十八歳になると寮のある工場に就職しました。そのうち大学に通いたいと思うようになり、学費を貯めるために東京に出て、ホステスになりました。そこで客として知り合った林田とつき合うようになったのです。私が殺した男です。
林田は残酷な男でした。エリート会社員でしたがギャンブルで借金をつくり、私の貯金にまで手を出してきました。殴る蹴るの暴力はいつものことで、別れ話にも応じてくれません。逃げたら必ず捜し出してお前を殺す、が口癖の男でした。キレやすい性格で、本当にいつか殺されると怯えていました。
そんな頃、美帆ちゃんと偶然再会しました。美帆ちゃんも幸せではありませんでした。高校を出たあと、事務職で働いていたけど、職場でひどく苛められて退職し、今は貯金と失業保険で生活していると教えてくれました。
私は美帆ちゃんの小さなアパートを、時々、訪ねるようになりました。林田が私の交流関係を常に見張っていたので、内緒でこっそりと会っていました。美帆ちゃんにだけは迷惑をかけたくなかった。
林田の暴力に耐えられなくなった私は、ある夜、酔っ払って寝込んだ彼の首に電気コードを巻いて、力一杯に絞めました。殺意というより、あの男から逃げたい一心でした。でも本当は逃げられたのです。いつも脅され、ずる賢いやり口で恐ろしいまでの執念深さを見せつけられてきたせいで、正常なものの考え方ができなくなっていた。殺す以外の方法では逃げられないと思い込んでいたのです。
死んでしまった林田を見て怖くなった私は、部屋を飛び出して美帆ちゃんの家に行きました。美帆ちゃんは、あんな男のために刑務所に行くことはない、私が匿ってあげると言ってくれました。
すぐにテレビや新聞で私の写真が出回りましたが、派手なホステス姿の写真ばかりです。修ちゃんも知ってのとおり、私の素顔は地味です。それらは変身メイクでつくった嘘の顔でした。自分の顔がコンプレックスで外に出るときは必ず化粧をしていたので、私の素顔を知っている人は林田くらいのものでした。
美帆ちゃんの部屋で身を潜めていた私はストレスから過食になり、あっという間に十キロも太りました。美帆ちゃんは「今の玲香なら誰にも気づかれないよ」と言い出し、複雑な気持ちになったことを覚えています。
でもそのとおりでした。丸くなった体を地味な服に包み、すっぴんに黒縁眼鏡をかけて街に出ると、誰も私のことなんて見向きもしませんでした。ホステス時代は周囲の視線を感じたものですが、そこにいるのは小太りの地味で平凡な女でした。
私は美帆ちゃんの負担になりたくないので、近所のカラオケ店で働くようになりました。そこでも誰にも星野玲香だと疑われませんでした。もしかしたら、このまま逃げおおせるのではないかという気持ちになってきました。
一緒に暮らしだして二年ほどが過ぎた頃、美帆ちゃんの病気が発覚しました。子宮ガンでした。手術をしてちゃんと治療すれば大丈夫だと先生に言われたのに、美帆ちゃんは思い詰めた顔で私に言いました。
「ねえ、玲香。もし私が死んだら、あんたが私になりなよ。私もあんたも身寄りがないし、友達だっていない。入れ替わってもばれないよ。私が死んだら遠い街に引っ越して、金井美帆子として生きていけばいい。私の分も生きて。玲香には幸せになってほしいから」
まったく現実的ではない勧めです。できるわけがないと私は笑いました。美帆ちゃんは昔から空想癖があって、とんでもないことを言い出すことがあったけど、このときほど変わっていると思ったことはありません。
私に笑われたせいか、美帆ちゃんは気恥ずかしそうに「やっぱ無理か」と舌を出しました。もう、美帆ちゃんたら、と笑いながら、私の目には涙がにじんでいました。
優しい美帆ちゃん。いつも私の心配ばかり。大病を患っているのに、もし自分に何かあったら私がどうなるのかを気にしている。
そのとき、もういいかな、と思いました。もうこれ以上、美帆ちゃんに迷惑はかけられない。自首しよう。それがいい。
そう思ったら、すーっと気が楽になりました。私は美帆ちゃんを旅行に誘いました。最後に思い出をつくりたかった。
行き先は金沢にしました。美帆ちゃんが以前、行ってみたいと話していたからです。冬の金沢で一泊しました。旅館の美味しいご飯と温泉。最高に楽しかった。翌日も観光をして、最後は日本海の夕暮れをふたりで眺めました。
駅に向かう途中で、それは起きました。美帆ちゃんが公園のトイレに入るというので、私は彼女の荷物をすべて預かりました。携帯電話も財布も預かったバッグに入っていました。私は待っている間、通りの向こうにある土産物屋を覗いていると伝えました。
お土産なんて買っても渡す相手はいません。美帆ちゃんへのプレゼントのつもりで、小さな加賀手鞠のストラップを買いました。
店を出ると暗くなった道路に、人だかりができていました。事故だとわかりました。
倒れていたのは美帆ちゃんでした。車に轢かれたのです。駆け寄ろうとしたそのとき、パトカーが急停止して警察官が降りてきました。私の足は石のように固まり、動けなくなりました。救急車が美帆ちゃんをどこかに連れ去ってから私は我に返り、消防本部に問い合わせて搬送先を教えてもらい、病院に向かいました。
美帆ちゃんはすでに亡くなっていました。看護師さんにご家族ですかと聞かれ、咄嗟に「知人が搬送されたので来てみたけど、人違いでした」と答えてしまいました。
ショックと悲しみで茫然自失だった私は、目の前の現実を受け止めきれなかったのです。美帆ちゃんの遺体を引き取り、死亡届を出し、葬儀会社を手配して葬儀を行い、最後に残った遺骨をどうにかする。そういう現実を、引き受けられなかった。今の自分では、逃亡犯の私では無理だと思った。だから逃げたのです。どこまでも卑怯な人間です。
病院を出た私は、自分もいっそ死んでしまおうかと考えました。でもできなかった。美帆ちゃんが言ってくれた「私の分も生きて。玲香には幸せになってほしいから」という言葉を思い出したからです。
いえ、それは都合のいい言い訳ですね。でもそのときは、美帆ちゃんのためにも生きなくちゃ、と思ったのです。
私は金井美帆子として生きることにしました。東京に戻ったあと、すぐに引っ越して、新しい仕事に就きました。誰とも交流せず、職場と家を往復するだけの日々が続き、近所の小さな飲み屋で修ちゃんと出会ったのです。
修ちゃんのことは、すぐ好きになりました。穏やかな性格で照れ屋さんで涙もろい。しかも小説を書いていた。世の中には膨大な本が溢れているけど、小説を書いているという人には一度も会ったことがなかった。
小説家を別世界の人種のように思っていたけど、修ちゃんは普通の人でした。こんな普通の人がこんな面白い小説を書くなんて、と感動したものです。とにかく私は修ちゃんが大好きになりました。だから交際できて幸せでした。
でも同時に修ちゃんを騙している自分を恥じて、何度も別れなければ、と考えました。なのに結局、結婚までしてしまった。
段々と私は幸せに慣れていきました。これは美帆ちゃんがくれた人生。美帆ちゃんが願ってくれたのだから、きっと幸せになってもいいのだ。傲慢にもそう思うようになっていました。けど、そうじゃなかった。こんなの間違っていた。
修ちゃんのお父さんの話を聞いて、私は観念しました。ああ、やっぱり悪いことはできないんだなって、深く悟ったのです。
お父さんが人を殺して苦しんだ修ちゃん。奧さんまで人殺しじゃ、可哀想すぎる。私さえ黙っていれば一生ばれないかもしれないけど、嘘も真実も自分がわかっている。間違いを正せるのは私しかいない。
私は自首することを決めました。ただ修ちゃんとの生活があまりに幸せで、もう少し、もう少し、そう思っているうち、春と夏が終わってしまいました。
でも今日は起きてみるとひどく肌寒い朝で、秋の到来を感じました。旅立ちに相応しい日です。だからこの手紙を書いています。もうすぐ修ちゃんが起きてくる頃なので、少し急いで書いています。あと少し。
修ちゃん、本当にごめんなさい。林田を殺したことには、正直それほど罪の意識はありませんが、修ちゃんを騙してしまったことは心から反省しています。この家で修ちゃんと死ぬまで暮らしたかった。許してもらえないと思うけど、本当にあなたが大好きでした。
私はしばらくたったら自首しますが、警察に美帆子だったことは言いません。修ちゃんの奧さんだったことも決して明かしません。だから出頭するまでに、昔のように痩せてみせます。プチ整形もして、ケバい女になってみせます。あの女、樫原さんの奧さんじゃないのって、誰にも言わせないように頑張ります。
だから修ちゃんも誰にも言わないでください。ふたりで過ごした日々を、私たちだけの秘密にしておいてください。こんなお願い、厚かましいとわかっていますが、最後のお願いをどうか聞き入れてほしい。
そしてもし、修ちゃんさえよければ、いつか私のことを小説に書いてください。私たちの事実とはまったく違うストーリーでいいから、修ちゃんの想いを書いてほしい。愛でも憎しみでも怒りでも構いません。修ちゃんから見た私という女を書いてほしい。
私はそれを、いつかどこかで読むでしょう。十年先か、二十年先か、もっと先になるのかわかりませんが、出所したあと、どこかの町で必ず読みます。
その日を楽しみにして、これから生きていこうと思います。とても勝手な楽しみですが、その日を想像することで、まだ生きていける気がします。
もう七時二十分です。今日はお寝坊ですね。この手紙を米びつの底に入れたら、修ちゃんを起こしにいきます。
そしたらいつもの一日が始まります。二度と戻らない、幸せすぎる平凡な一日が。
***
もし警察が来たらどうすればいいのだろうと考えていたが、美帆子が、いや、玲香が逮捕されて三週間以上が過ぎても、警察から連絡が来ることはなかった。
警察は逃亡中の足取りを明らかにするために、空白の九年間について厳しく取り調べたはずだ。それでも玲香は美帆子として生き、僕と結婚して暮らしていたことは話さなかったのだろう。そうすることで、裁判に悪い影響が出るかもしれないというのに。
自分が出頭して真実を明かすことは考えなかった。理由は単純で、僕と美帆子が慎ましく暮らした二年間の結婚生活を、偽物にしたくなかったからだ。美帆子は偽者だったが、僕が愛した女性は本物だった。間違いなく僕と一緒に、人生の一時期を生きていた。確かに存在していた。
警察に話せば、すべて否定されてしまうだろう。樫原さん、殺されなくてよかったですね、なんて言われた日には、僕は大声を上げて暴れてしまうかもしれない。
玲香のしたことはすべて間違いだ。殺人の罪からも、美帆子の死からも逃げるべきではなかった。僕も騙されていたことに怒りを覚える。けれど同時に彼女の気持ちもよく理解できた。理解しようと努力する必要もなく理解できた。理解こそが、この世に存在する最大の愛ではないだろうか。
何が言いたいかというと、僕はひどい目に遭ったわけでが、それでもまだ彼女を愛しているらしい。許せないが愛している。しかし僕らの人生は、もう交わることはないだろう。
携帯が鳴った。編集者の溝口さんからだった。昨日、メールで送った新作のプロットの返事だった。
「樫原さん、これいいですよ! すっごく読んでみたいです。ぜひ書いてください」
声のトーンからお世辞ではないとわかった。僕は「よかった」と静かに答えた。
「僕もどうしても書きたいと思った話なんです。ありがとうございます。頑張ります」
それは悲しく哀れで、だが強くしたたかで、ひたすらたくましく生きる女の話だ。不幸な生い立ちを背負った女は、ある男と出会う。愛し合うが、愛が深すぎたゆえに男を殺めてしまう。そこから破天荒な逃亡劇が始まる。
あるときは旅館の仲居になり、あるときは女だてらに漁船に乗り込み、あるときは金持ちの老人を介護して遺産を相続する。
そんな女の一生を描くのだが、実は男は死んでおらず、逃げてしまった女を追いかける。逃亡と追跡の体をなしながら、やがて物語はメビウスの輪のような様相へと変化していき、どちらが逃げてどちらが追っているのかわからなくなっていく。そんな混沌とした愛の物語だった。
「このヒロイン、すごく面白いですよね。ところで、奧さんは元気ですか?」
僕がいつもいい反応を示さないので、溝口さんが妻のことを聞くのは珍しい。どうしてこのタイミングなのかな、と内心で苦笑しつつ、僕は「わかりません」と答えた。
「九月の終わり頃、家を出ていってしまったので。どうやら愛想を尽かされたようです」
「えっ。そ、それはすみません。何も知らなくて」
「話してないんだから、知らなくて当然ですよ」
僕の声が明るいせいか、溝口さんは逆に心配になったようで、「大丈夫ですか?」と神妙な口調で尋ねてきた。
「大丈夫じゃないですけど、仕方がないです」
「そうですか。寂しいですね」
「はい、寂しいです」
寂しい。寂しくてたまらない。でも僕はここで小説を書いて生きていく。それが僕の妻だった人の遺言だから。
そうだ。僕の妻は死んでしまった。もうこの世界に存在しない。けれど僕の書いた小説を読みたがっている女性がいる。その人のために、この物語を大切に書いていこう。
「タイトルはもう考えていますか?」
「はい。決まっています。『逃げる女』です」
僕からも逃げてしまった君に、このラブレターがいつか届くといい。
END
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