誰のための秘密
2016年に書いた短編習作。秘密を抱える男の話。
披露宴が終わり、ロビーで親戚と雑談していた新郎の俺に、同僚の若松が「なあ、早川」と声をひそめて話しかけてきた。
「あそこにいるの、お前の妹だろ?」
若松の視線の先には、確かに妹の麻美が立っていた。ウエディングドレスに身を包んだ新婦の圭織と、楽しそうに話をしている。ふたりは以前から仲がよく、今も実の姉妹のように仲むつまじそうだ。
「麻美ちゃんだっけ? 可愛いよな。いくつ? 結婚してるの?」
「二十五で独身」
「よかった。お前と名字が違うから、てっきり既婚者かと思ったよ」
テーブルの上の座札を見たのだろう。目敏い奴だ。
「両親が離婚して俺は親父に、麻美はお袋に引き取られたからな
」
「そうだったのか。……なあ、麻美ちゃんに声かけてもいいか?」
若松は一見すると軽薄そうだが、根は真面目で信頼のできる男だ。俺は「いいけど、あいつは奥手だぞ」と忠告してやった。
「ガードが堅いから絶対に無理だと思う」
「いや、そういうの平気。麻美ちゃん、すげぇ好みなんだ。だから頑張るしっ」
兄の許可が下りて安堵したのか、若松は軽い足取りで麻美のほうに向かっていった。男嫌いの気がある麻美のことだから、きっと素っ気ない態度で応対するに違いない。
ふと視線を巡らせると、大学時代の友人たちが四人ほど集まっているのが見えた。礼を言うために近づいていくと、「磯崎もさ」という言葉が耳に届いて足が止まった。
「気の毒よな。生きていれば、今頃は圭織ちゃんの旦那になれていただろうに。あの世で早川のことを恨んでたりして」
「どうかな。あいつ遊び人だったから、結婚まで行かなかったんじゃないのか?」
「早川も上手いことやったよな。ちゃっかり磯崎の後釜に収まって羨ましいよ」
「っていうより、圭織ちゃんが早川を頼り切ってた感じだろ。まあ、彼氏があんな死に方をしちゃ、辛くて頼りたくもなるだろうけど」
俺は何も聞こえていないふりで、「みんな、今日はありがとうな」と明るく話しかけた。四人はギョッとした顔つきで俺を振り返ったが、すぐに取り繕ったような笑顔を浮かべて、口々に「よかったな」とか「圭織ちゃんと幸せにな」とか白々しい言葉を述べてきた。
別に何を言われても気にならない。卒業後はほとんどつき合いもなく、数合わせのためだけに呼んだ連中だ。
──あの世で早川のこと恨んでたりして。
そうだろうな、磯崎はきっと俺を恨んでいるだろうな、と他人事のように思う。
「昇さん。ぼんやりしてどうしたの? 疲れた?」
いつの間にか隣に圭織が立っていた。きれいな花嫁さんだとみんなが褒めていたが、本当に圭織は美しい。ほっそりした肢体は白鳥のように優美だし、優しげな美貌はどこか儚げにも見え、そのせいかこれほどの美人なのに嫌みがいっさいない。
「いや、大丈夫。昨日、あんまり寝られかったから、ちょっと眠気が襲ってきただけ」
「そう。二次会まで少し時間があるから、着替えたら部屋で休みましょう」
容姿だけでなく性格もいい。優しくて思いやりがある女性だ。自分のような凡庸な男には、もったいない。俺は思わず圭織の手を強く握っていた。
「……俺が守るから。絶対に幸せにする」
突然の言葉に圭織は驚いたような表情を浮かべたが、すぐに嬉しそうに頷いた。
「ありがとう。昇さんがいてくれたら大丈夫。これから先、何があっても怖くない」
怖くないという言葉に、圭織は今も恐れているのだと実感した。いや、きっとこれからも恐れ続けるに違いない。
可哀想に。あんな死んで当然の男を殺してしまった罪に、怯える必要なんてないのに。
磯崎の亡霊など寄せつけたりしない。俺が圭織を守る。生涯かけて守っていく。
***
バイト先が同じという理由で、大学二年になってから友人になった磯崎達也は、ひと言で言うと最低の男だった。
甘いルックスで愛想もいいので女性にはもてたが、飽きればすぐ捨てる。次から次に女を変える悪癖は一種の病気だった。
俺は真逆ともいえる性格で女の子とろくに話もできない男だった。磯崎は真面目な俺を都合よく使っていたが、そのことは気にならなかった。
俺は俺で磯崎という変わった男を観察したかったので、パシリみたいな真似をさせられても苦にならなかった。
電気製品に詳しかったせいか、携帯の調子が悪くて困ってるだの、パソコンが急に変になったから見てほしいのだ、いろいろ頼み事を持ち込まれたが、そのたびに対処してやった。
磯崎とつるんでいると、「あいつが十股してるって噂、本当?」とか、「女子高生を弄んで、相手が自殺したって話、マジなの?」とか、やたらと聞かれるので閉口した。よくも悪くも目立つ男なので、直接関わりたくはないが関心はあるという人間は多かった。
俺はよく磯崎の部屋に遊びに行った。あいつが住んでいたマンションは老朽化で取り壊しが決まっていて、年内で退去することになっていた。他の住人はほとんどが引っ越し済みで、残っているのは磯崎の他に一軒だけという状態だった。マンションはひとけのなさと古さが相まって、いつもどこか不気味な様相を漂わせていた。
「早川って妹がいるんだろう? 一回会わせてくれよ」
ある日、ベッドに転がってエロ雑誌を見ていた磯崎が、思い出したように俺に言った。
「嫌だよ。お前みたいな悪い男に、大事な妹を紹介できるか。第一、お前には圭織ちゃんがいるじゃないか」
磯崎は三年の春から圭織とつき合い始めた。圭織は学内では有名な美人で磯崎が躍起になって口説き落としたのだ。なのに飽き性だから、半年でもう他の女が欲しくなってきたらしい。移り気にもほどがある。
「圭織か。あいつは美人だけど、真面目すぎてつまんないんだよなぁ」
「だったら別れたら?」
「それは惜しいっつーかさ。あれだけの女、なかなかいないだろ? 捨てるのはあいつ以上の女が見つかってからでいいや。それまでは、適当なのをつまみ食いして我慢する」
本当に最低な奴だと思ったが、こういう男がいいという女もいるのだから、男と女というものはつくづく摩訶不思議だ。
***
「磯崎くんが浮気してるみたいなんだ」
夕方、呼び出されたカフェに出向くと、圭織は開口一番にそう言った。悲しげというより、生気の感じられないやつれた顔をしていた。相当思い悩んでいるのがわかった。
この手の相談は実は初めてではない。これまでにも何度かされていて、俺はそのたび「あいつは病気だから」と正直な気持ちを告げていた。だからあの時も言ってやった。
「磯崎がそういう男だって、もうわかってるだろう? 別れたら?」
「別れられないから相談してるのに」
恨めしげに見つめられても、俺にはどうしようもなかった。
「磯崎の女好きは俺が注意したくらいで変わったりしない。あれは死ぬまで治らないと思うな。悪いことは言わないから、さっさと別れて新しい彼氏でも探したほうがいいよ。圭織ちゃんならいくらでもいい男が見つかるさ」
「いい男って誰? 早川くんみたいな人?」
俺の相談しがいのない態度に腹を立てたのか、どこか挑戦的な言い方だった。
「当たるなよ。俺がいい男じゃないのは、自分でもよくわかってる」
「……ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないの」
気まずそうに黙り込んだ圭織を見て、なんて馬鹿なんだろうと思った。自分自身に対しての呆れだった。
ひそかに思いを寄せている女の子に、なんだってこんな素っ気ない態度を取るのか。こういう時は優しく慰めてやればいいんだ。そうすれば圭織の気持ちも和らぐし、自分の株だって上がる。そんな簡単なことができない自分に腹が立った。
会話も途絶えてしまったので、どちらともなくカフェを出た。歩いていると、「お兄ちゃん?」と声をかけられ、振り向くと自転車に乗った麻美がいた。
「え? 嘘、もしかして彼女っ? お兄ちゃん、彼女いたんだっ?」
「馬鹿、違うよっ。友達の彼女だよ」
「うわ、友達の彼女に手を出してるの? それは駄目だよ。いけないことだよ」
勝手に話をつくるな、と怒る俺の隣で、圭織はクスクス笑っていた。
「妹なんだ。今、一緒に暮らしてる」
紹介すると圭織は「こんな可愛い妹さんがいたんだ」と笑った。お世辞に決まっているのに、麻美はすっかり気をよくしたらしい。
「友達の彼女さん、よかったらうちに遊びにきませんか? すぐそこなんです。一緒に晩ご飯、食べません?」
唐突な誘いに圭織は目をぱちくりさせていた。俺も驚いた。
「お、お前、急にそんなこと言ったら迷惑だろ」
「迷惑なんかじゃないけど、本当にお邪魔してもいいの?」
「ぜひぜひ。今日はお鍋だから、大勢で食べるほうが美味しいし」
自転車の籠にはスーパーのレジ袋が収まっていて、ネギや大根が飛び出している。去年から二人暮らしをしていて、夕食はいつも麻美がつくってくれていた。
結局、圭織はうちに来て一緒に鍋を食べた。圭織と麻美は何か通じ合うものがあったのか、どちらも楽しそうだった。ふたりが笑っている姿を見て俺も嬉しくなった。だが胸の奥では、ふたりにはあまり親しくなってほしくないとも思っていた。
***
磯崎は相変わらず、つまみ食いを繰り返しているようだった。
ある時など、あいつの部屋から泣きながら飛び出してくる女の子を見かけた。乱れた服装をしていたので、まさか乱暴したんじゃないだろうなと問い詰めると、磯崎は「そういうプレイだよ」と開き直った。
「大体、女もさ、その気がないなら男の部屋になんて来ないだろ?」
「お前、いい加減にしろよ。いつか刺されるぞ」
俺が険しい態度で言い放つと、磯崎は「それ、いいな」と笑った。
「嫉妬した女に刺されて死ぬって、なんか格好いいじゃん」
そんな会話をかわした五日後、俺の言葉が現実になった。
その日、俺は麻美と喧嘩をして苛々していた。普段は仲のいい兄妹だが、麻美はまれに感情的になって後先を考えない行動に出ようとする。それが腹立たしかった。
麻美の気持ちもわかるが、まだその時ではない。辛抱強く待つしかないのだ。
冴えない気分でバイトを終えて携帯を見ると、磯崎から「実家から肉が送られてきた。食おうぜ」とメールが入っていた。
愛車の軽自動車であいつの部屋に向かい、到着してエンジンを切ったとき、携帯が鳴った。どうせ磯崎が遅いと文句の電話をかけてきたのだろうと思って着信を見たら、圭織からだった。電話に出ると、「どうしよう……」と震える声が耳に届いた。
「どうしよう、早川くん……っ。私、私、磯崎くんを刺しちゃった……!」
一瞬、意味がわからなかった。だが圭織のすすり泣く声を聞いた瞬間、俺は事態を理解した。今どこだと聞いたら、磯崎の部屋だと言う。俺は車を降りてマンションの階段を駆け上がった。
圭織は玄関にうずくまって泣いていた。手が血に濡れていたが、身体は血を浴びていない。もしかしたら少しは浴びていたのかもしれないが、黒いコートなのでわからなかった。
「は、話し合うつもりで来たの、でも、磯崎くん、全然聞いてくれなくて……、うるさい女は嫌いだって、他の女の子の話とかして、私、ついカッとなって、キッチンに置いてあった包丁で……っ。どうしよう、殺しちゃった、私、人殺しになってしまったっ」
取り乱している圭織に、俺は強く言い聞かせた。
「大丈夫だ。俺がなんとかするから。君は下に駐めてある俺の車に乗って待ってろ」
無理矢理のように俺は圭織を部屋から追い出した。部屋の中に入っていくと、磯崎はキッチンの床に倒れていた。真っ赤になった背中には包丁が刺さっている。
俺は素早く考え、自分のするべきことをした。我ながら落ち着いて迅速に行動できたと思う。三十分ほどで車に戻ると、圭織はぶるぶる震えながらまだ泣いていた。
「証拠は全部消してきた。物取りの犯行に見えるよう、部屋も荒らしてきた。今から俺の部屋に行こう。警察にはずっと俺の家にいたって話すんだ」
「駄目。すぐばれるわ」
「ばれない。このマンションには人がはいない。目撃者はいないんだ。部屋から俺や君の指紋や髪の毛が見つかっても、俺たちは普段からあいつの部屋に出入りしていたんだから、いくらでも言い逃れできる」
俺は車を発進させた。本音では警察を欺ける自信はなかった。だがやるしかなかった。
「大丈夫だ。逮捕なんかさせない。君が人殺しでも俺は君を守る。絶対に守ってみせる」
「どうして……?」
圭織が尋ねた。俺は彼女の濡れた頬を見ながら、「好きだから」と答えた。
嘘ではない。俺は圭織が好きだった。だからあんな嘘をついたのだ。
***
「あれ? 圭織さんは?」
ホテルの部屋にやってきた麻美が、きょろきょろと見回す。
「シャワーを使ってる。お前、二次会も来るんだろう?」
「参加するけど、若松さんって人が一緒に行こうってうるさいの。お兄ちゃんの許可は取ったって言うんだけど、どういうこと?」
文句を言いに来たらしい。俺は「いいじゃないか」と言ってやった。
「若松はいい奴だぞ。ちょっとくらい相手をしてやってくれよ」
「相手くらいするけどさ」
ぶつぶつ言ってから、麻美は「ねえ」と真面目な顔つきになった。
「圭織さん、じゃないや、お義姉さんのこと、これからも守ってあげてね」
「なんだよ、突然」
「だってお義姉さん、今でもたまに不安そうな顔になるんだもん。精神的にも不安定なところもあるし。まあ、あんなことがあったからしょうがないと思うけど。私とお兄ちゃんとで、これからも支えていこうね」
圭織を思いやる麻美の優しい気持ちが伝わってきて、俺は嬉しくなった。
「もちろんだよ。覚悟はできてる。でなけりゃ、あの時、証拠を隠滅したりしなかった。警察が偽のアリバイを信じたのも、お前のおかけだ。感謝してる」
「当然だよ。あんな最低な男のために、圭織さんが刑務所なんかに行くことないもん」
警察には俺と圭織、それに麻美の三人は、ずっと一緒に部屋にいたと言い張った。いろんな偶然が俺たちに味方した。マンションに住人がいなかったこと。圭織が電話やメールをせずに磯崎の部屋を不意に訪ねたこと。俺のマンションに防犯カメラが設置されていなかったこと、等々。
今なら道路やいろんな場所に防犯カメラが設置されているので、本気で疑われれば俺たちの嘘はたやすく見抜かれたかもしれない。
「……圭織さんがやってなかったら、きっと私がやってた」
影が差した眼差しで圭織が呟く。
「それ、圭織には言うなよ。あいつはお前と磯崎のことを何も知らないだ」
「わかってる。絶対に言わない。これは私とお兄ちゃんだけの秘密だから」
麻美は磯崎に復讐をしたがっていた。高校三年生の時に磯崎と知り合い、つき合うようになったが、いいように遊ばれて最後は冷たく捨てられた。それだけならまだしも、磯崎は麻美との性行為を写真や動画で盗み撮りしていたのだ。
かろうじて顔はわからないようになっていたが、そのいくつかがネットにばらまかされ、それを知った麻美はショックで自殺未遂を起こした。
自殺に失敗したことが地元で噂になってしまったので、麻美は逃げるように俺の部屋に転がり込んできた。いつかネットに流出したものが自分の映像だと知られるのでは、と怯えて暮らすようになり、心療内科にも長く通うことになり、大学進学を諦めた。
俺は妹を傷つけた男が同じ大学の同級生と知り、磯崎のバイト先に潜り込んであいつと親しくなった。あいつの携帯に水をかけたり、パソコンにウイルスを侵入させたりして、怪しげな映像類はすべて駄目にしてやった。
殺してやりたい。あいつを知るほどに、その気持ちは強まっていった。
やるからには完全犯罪だと決めて、友人の皮を被ってずっとチャンスを窺っていたのに、圭織が突発的に磯崎を刺してしまった。
あの時は本当に驚いた。だがあれで決心できた。まだその時ではないと思っていたが、今こそがその時だと閃いたのだ。
七年が過ぎた今でも、あの光景はまざまざと脳裏によみがえってくる。
圭織を車に追いやり、俺は倒れている磯崎を見た。突き刺さった包丁が動いている。死んではいなかったのだ。
磯崎はうめきながら俺を見上げた。苦しげな表情だった。
「助けてくれ……、救急車を……はや、かわ……」
俺は磯崎のそばにしゃがみ込み、あいつの耳元でこう囁いた。
「よかったな。女に刺されて死ねるなら本能なんだろう?」
磯崎の血走った目が驚愕に見開かれる。その顔を見て笑いそうになった。
「でもそれっぽっちの傷じゃあ、まだ死ねないな」
キッチンの手ふきタオルで包丁の埋まった場所を抑え、刃を引き抜いた。しわがれたうめき声が聞こえ、タオルは吹き出した血で真っ赤に染まった。
「安心しろ。俺がちゃんと殺してやる。女じゃなくて悪いけどな」
「た、助けてくれ……っ」
俺は磯崎の身体を仰向けにして、腹部に何度も刃を突き立てた。なぜこんな目に遭うのか、最後まで磯崎にはわからなかっただろう。
磯崎が絶命したのを確認してから、俺は洗面所で血を洗い流した。指紋も可能な限り拭き取った。何度も来ている部屋だから、凶器にさえ残っていなければなんとかなると思っていた。実際そうなった。磯崎を殺した犯人は今もまだ見つかっていない。
浴室から聞こえてくる水音を聞きながら、俺は思った。
可哀想な圭織。磯崎を殺したのは自分だと思っている。
彼女が罪の重さに今も怯えているのは、俺だって知っている。できることなら楽にしてやりたいと思うが、どうしてもできないのだ。
圭織は証拠を消して自分を助けてくれた俺に感謝している。俺だけが罪を知ってなお、自分を守ってくれる男だと信じ切っている。
俺と圭織が共有する秘密。
俺と麻美が共有する秘密。
それぞれの秘密のおかげで俺たちは強く結束している。秘密は人と人を強固に結びつけるものだ。
だが本当の秘密は俺の胸の中にだけある。この秘密だけは、死ぬまで誰とも分かち合うつもりはなかった。
END