#008ネガティブ思考というガソリンの話
新年早々に炎上したRedBullの広告表現
2021年1月11日(成人の日)にRed Bull Japanが読売新聞朝刊に掲載した広告が波紋を生んだ。
「くたばれ、正論」
これは、これから二十歳の人間として大人の世界に飛び込むことになる新成人に向けてRed Bull Japanからの贈る言葉。。
だけど残念なことに、このコピーは盛大に炎上した。
「コロナ禍での成人式でマスクを付けずに、暴れる新成人の出現を助長するのではないか」
「人種や性差別を無くそうと”正論”を持って戦い続けてきた人々を踏みにじっている」
「自分が良ければ、何をしてもいいのか。コロナ禍の今こそ、正論が重要だ」
SNSでは、この強い言葉で発せられたメッセージに対し、著名人の発信をきっかけに「正論」を否定することの危険性や「自分だけが良ければ良い」と言う「暴論」を振りかざす新成人が誕生することを懸念する声が溢れかえった。
さて、あなたはこの広告を読んで何を感じるだろうか?
「くたばれ正論」を叩く人達を見て感じた悲しさ
僕はこの炎上騒動、賛否両論が吹き荒れるSNSを見ながら、どこか悲しさのようなものを感じた。
もちろんこの広告に不快感を感じる人がいることも理解できる。一企業が自分たちの姿勢や思想を世に伝えようとするうえで、社会状況や時代背景、タイミング、そして言葉選びについてもっと議論をすべきだったのではないか、という意見も分かる。そしてこれが最終的に商品を売るための注目を集める“広告”というモノの価値を最大限高めようと狙って投下されたものだった可能性もあるのかもしれないと思う。
僕自身はこの広告に賛成でも反対でもない。悪い部分もあれば、いい部分もある。そもそも、広告のメッセージは受け手が「自分の価値基準」で捉え、受け止め方を決めればいいものだ。
では、僕が感じた悲しさとはなんだったのだろうか?
僕らは人々の心にある「善」をもう信じられないのか。
僕が感じた悲しさの正体はこれだ。
「音楽はお金にならないから辞めなさい」
「その類の企画提案は過去に一度も通ったことが無いから時間の無駄だ」
人はこの広告を見て、人の夢や情熱、感受性を奪う正論達と戦い、自分の信念を貫いて生きていこうというメッセージなんだと捉えることだってできたはずだし、自分の中でポジティブに前向きな感情を持って明日からを過ごしていこうと考えることだってできるはずなのだ。
だけど、コロナ禍でこれまでと大きく生活が変わるこの状況や目も当てられないような悲惨なニュースに晒され続けた社会は、人々は、この広告を見てネガティブな想像ばかりをしてしまう。
「コロナ禍での成人式でマスクを付けずに、暴れる新成人が増えてしまう」
「人種や性差別を無くそうと”正論”を持って戦い続けてきた人々の声がかき消される」
たった一枚の広告の力で、新成人たちは歯止めがきかないくらい暴れ回るのだろうか、世の中の人々が差別を無くそうと戦う火は消えてしまうのだろうか。
僕はそうは思いたくない。
たかが、一企業の広告の力で人の善や人間が積み上げてきた社会を良くしようとするパワーが失われてしまうと思うのは悲しすぎる。
安易な負の感情発信はウイルスのように感染していく
SNSはとても便利だし、社会を繋げ大きなパワーを生み出すものだからこそ、正しく使えばきっとこの社会をより良い方向に導いていく。SNSを媒介にそれぞれが自分の意見を発信することで、誰かに気づきや勇気を与えることも沢山ある。
だけど、人々が言葉を紡ぐときにそれを安易な感情表現を乗せて、エモーショナルに装飾することは、時として社会が人の善の部分やポジティブな側面を見出すことを抑制してしまうのではないかとも思う。
確かに、世の中の企業広告には目も当てられない酷い表現も多く存在する。
だけど、そんな表現の粗探しに没頭し、ネガティブな側面を見つけ鬼の首を取ったかのように騒ぎ立てることだけに僕らは時間を使うべきではない。今回、例としてあげたRedBullの広告を見て考えるきっかけを持った人々がすべきことは、”怒りで手を震わせながら”、”涙を流しながら“衝動的にTwitterをイジる”ことではなく、落ち着いて自分の感情と感情を揺さぶった表現やメッセージに向き合うこと、そしてポジティブな側面を見つけてあげることだ。
誰だって、無闇に人を傷つけたくないはず。
僕はきっとこのRedBullの広告を作った人たちも、最近で言えば人種差別やジェンダーに関する表現が賛否両論を呼んでいるNIKEの広告を作った人たちも、膝を付き合わせて話をすればきっと社会がより良い方向に進んでいくことを望んでいると信じたい。
※参考 NIKE CM
動かしつづける。自分を。未来を。 The Future Isn’t Waiting. | Nike
多種多様、千差万別の価値観を持った人々が暮らす複雑な社会を、より良い方向に進めるために最も重要なことが「対話」なのだとしたら、誰かが発した言葉の表面だけを捉え「責任」を持たせることだけではなく、その言葉を受け取る側は少しだけ心に余白を持ち、人の「善」を信じてみることで、僕たちはコロナ禍という特殊な日常を前向きに生きていけるんじゃないかなと思っている。