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私の御在所岳

私がはじめて御在所岳の山頂に立ったのは、第2次大戦後数年たったある秋だった。
敗戦のショックと慢性的な一億総飢餓の時代。せっかく就職してみたが、満員電車での遠距離通勤と栄養不良で身体をこわし、家で療養する毎日であった。
ある日、窓から北のほうを見ると、緑濃い鈴鹿の山々の中に、ひときわ堂々としたある。青空は果てもなく拡がり、白い雲がほんの少し頂にかかっている。子供のときから山に入って遊んでいたので、山の姿は見慣れているはずなのに、その山はついぞ気がつかなかった。
びっくりして隣家の小父さんに聞くと
「あれが御在所岳さ」
あっさりと教えられ、そのとき以来“いつかは、あれに登るぞ”と思うようになった。

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病気が治り体力が回復するのを待ちかねて、山登りの知識を仕入れ、地図や食量を詰め込んだ。たまたま職場で白米の特別配給があったのも幸い、さっそく握り飯にして出発した。
満員列車で四日市まで行き電車に乗り換える。当時は諏訪駅から湯の山まで三重交通の電車で約50分もかかったものだ。
湯の山温泉バス停からは表道をたどった。いまではこの道も荒れていてクサリ場もあるが、当時はもっとも安全な一般登山道とされていた。戦前の記録をみると、温泉客が下駄ばきは登山したとある。
わたしの服装は旧日本陸軍の軍服上下に軍靴とゲートル、地下足袋、そして雑嚢と水筒。すべて崩壊した軍隊の放出品で固めている。病み上がりの身にムチ打ち、ゼイゼイ、ハアハア息をはずませて、そここそ難行苦行の山登り、“もう止めた、下りてやろうか…”何度も何度も考えたが、ここに来るまでの決心と準備の苦労を思うと、またこのつぎは何時になるか判らない。
やっぱり今日はどうしても登らねばならない。冷風に吹かれ百間滝を眺めて元気をつけ、少し色づき始めた紅葉に慰められる。


やっと頂上の一角にたどりついた。
午後2時頃だった。現在の御岳神社から三角点にかけてのカヤトの原に、白いガスが音も無く流れる。その晴れ間に振り返れば鎌ヶ岳、足元から切れ落ちる谷間、はるか向こうは伊勢平野と知多半島。初めて見る大自然の風景、ただもうびっくりして声も出ない。
少し先に行くと、いまの山上ホテル前あたりは開けた草原。チョロチョロ水の湿原が、白い秋の花を沢山咲かせていた。
その日は、山に入ってから誰ひとり人に逢わなかったのに、休んでいると親子づれが登ってくるではないか。
“こんな時代に物好きな”
「こんにちは、どこから来られたのですか?」
声をかけて話しかけてみると、その人もわたしを見て怪訝そう。
「四日市です驚きました。食うに困るこんな時代に山登りする人がいたとは…」

お互いにあきれるばかり、貴重な握り飯を交換しながら、山の話に夢中になった。そうか山登りとはこんなに素晴らしい。 私は山が好きになってしまっていた。


それから昭和25年の国体名古屋大会のとき、登山部門が鈴鹿で開催された。このとき御在所山頂に半地下式の山小屋が建設された。場所はカモシカセンター前広場のブランコあたりだ。 私たちや地元の人が小屋をよく利用したが、京都や大阪からの登山者もけっこう多かった。
また朝明渓谷には赤いトンガリ帽子のログハスの朝明ヒュッテが建設された。バス停の名前も「朝明ヒュッテ」だった。ヒュッテの宿泊名簿にはエーデルワイスクラブの坂倉登喜子、名著「樹林の山旅」の森本次男、俳人の山口聖子の名もあった。
山頂の小屋は頑丈な作りだったが、もう登山者のモラルはすでに悪く、冬季の暖をとるため小屋の板を燃やす者がいて、数年を経ずして完全に破壊された。私もよく京都や大阪からの登山者と同室したことがある。
その後、ロープウエイの工事が始まると大規模な破壊が起きる。いまの山頂駅の下あたりに花崗岩の大岩があり、そのバンドの上に登ると南鈴鹿の山々が一望だったが、この岩もダイナマイトで破壊された。いまの広場は湿地帯でサンショウウオが泳いでいたが、これも遊園地風に変貌してしまった。


北冷水も清冽な清水が咽喉をうるおしたが、いまは汚水と化してしまった。スキー場の開発も乱暴だった。三角点峰から国見峠へゲレンデを造成するため、樹木を完全に伐採したが資金不足で断念した。だがそれが原因で土砂崩壊が起きてしまい、いまでも回復していない。
いまのスキーゲレンデはアセビ、ドウダンツツジが斜面一面に広がって、花をつけていたものだ。
その頃はスキー板を下から担ぎ上げ、樹木を伐採することもないカヤトの原に積もった。戦前にはこの山頂にスキー小屋もあった。スキーヤーはわずかな雪を踏みつけ、速成のゲレンデを造成して滑ったものである。冬山の登山に加えてスキーを担ぎ上げる苦労、一般スキーヤーの世界ではなく、ほんの一握りの登山者だけの世界だった。


昭和34年秋の伊勢湾台風、あれで山も沢も大きな痛あとを残した。
あの直後、頂上にたって山波を見渡せば、あちらこちらに白いガレ場が引き掻き傷を作っていた。あまりの惨状に“もとの緑の山になるには50年か100年かかうなあ”と思ったのだが、自然の回復力は素晴らしい。いまではあの傷あとも殆ど癒えてしまった。

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しかし頭にくるのは人為的な破壊だ。金儲けのために貴重な自然を破壊する。
ロープウエイ、スカイライン、堰堤工事、温泉街の拡大、ゴルフ場、どれをとっても自然破壊のオンパレード。
毎年、毎月のように通いつめる登山道から眺める景観も、悲しさが先に立つ。

しかし、わたしの山である。わたの大好きな御在所岳だ。これからもますます観光化し、人が溢れ、自然破壊が進むだろうが、山の素晴らしさを教えてくれたこの山。

私は決して嫌いにはならない。

※タイトル画像@三重フォトギャラリーbyふがまるちゃん

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