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好きだと言えるものについて

毎年ハリーポッターを全巻読み直している。今年もハリーはチョウ・チャンにフラれ、ハーマイオニーの前歯が伸び、ロンの杖が折れた。読めば読むほど速読に、着眼点はマニアックになる。マニアックになりすぎてこないだレイブンクローの寮監を答えまちがえた。レイブンクローの寮監はフリットウィック先生だ。天文学のシニストラ先生じゃない。誰だそれは。どうでもいいんだそんなことは。

ある日、渋谷の地下に9と4分の3番線を模したフォトスポットができていた。並んで嬉々として写真を撮る人たちのうち何人が天文学の先生を知っているのだろう。いや、そんなことどうでもいい。フォトスポットに並ぶ人たちよりも私の方がハリポタ通だなんて、そんな気持ちほんとうに馬鹿げている。心に住まうハーマイオニーにいいから並んできなさい!と急かされる。並ぶのか。渋谷の地下に並ぶのか。人類は2種類に分けられるという。ここで並ぶか、並ばないか、光一派か、剛派か。4種類だ。私は剛派だ!剛派の並ばない派だ!馬鹿なマグルども、誰が並ぶか、この、ハリボテの、ニセモノに!

。。。

なにを言ってるんだ私は。マグルだろうお前も。私はフォトスポットに並ぶことができなかった。そしてそこに並ぶ人たちを軽蔑し、ミーハーだにわかだと心の中で静かに一線を引いた。なにかを手放しで夢中で好きになりたいとき、いつもこの気持ちが妨げになる。職場でコナンが流行っていて、コナンカフェも応援上演も楽しそうで、爽やかで、とても良い。でもたとえハリーがコンサートをしてもカフェを開いても、私にはきっと追いかけられなかった。私の「好き」は、誰と共有するでもなく、実らぬ片思いのごとくジメジメしている。

オタクになれる人がいつも羨ましかった。フォトスポットに並ぶ人を羨望と嫉妬の目で見つめるのは虚しい。完結してしまった物語の海へ、ただ沈んでゆくだけだ。それでも毎年『賢者の石』を開くと兄弟に再会したときのように心がときめく。

去年の夏、ハリポタエリアができてからはじめてUSJへ行った。フォービドゥンジャーニーでハリーよりも先に守護霊の呪文をとなえた。写真はホグワーツの庭を走る私だ。ただ、絶対買うと宣言していた杖は買えなかった。オリバンダーの店でピーヒャラ騒ぐ女子高生を見て、すごく冷めてしまった。また一線を引いてしまった。

拗らせた重い愛を抱え、私は毎年海へ潜る。手放しで好きになるってどういうことなのか、いつも考えている。