「バリキャリ」「ゆるキャリ」「フルキャリ派」。透けて見えるぜ、日本社会に蔓延る固定的性別役割認識よ!
こんにちは、aicafeです。
40代、人生時計で14:00頃に差し掛かったところです。
これからの人生の午後の時間の過ごし方を模索中です。
ふたつの記事
こちらは、最近目にした記事です。
働く女性の多様化、細分化。
「バリキャリ派」か「ゆるキャリ派」の二分化から、仕事もプライベートもどちらの充実も目指す「フルキャリ派」がトレンドに。
なるほど。
みんな大好きラベリング作業。
生きていると、知らぬ間に、たくさんのラベルを貼られることがあります。
もう慣れたし、別にそのラベルに大した意味はないこともわかりました。
社会を考察するのに一定の集団に名前を付けて呼ぶことは意味があるし、意義もある。
この記事も、細分化した呼び名を充てることで、働く女性たちに多様な志向があり、女性がただ働きアリのように働いているわけではないことを提示しているんだと思います。
ですが、この記事を読んで、わたしは、なんともいえない徒労感を覚えました。
細かくラベリングしないと「働く女性」は社会に理解され難い存在なのか。
「働いている女性」は、日本社会にとって、未だ特異な存在なのかと。
そこに性差はない。
そもそもこの話、男女関係なく、みな同じじゃないのかな?
ゆるキャリ派の男性も、フルキャリ派の男性もいるだろうよ。
性差のある話ではないはずです。
ですが、日本社会には性差が歴然とあるのが現実なのでしょう。
書かれているエピソード。
女性たちの声は、実感はこもっているのかもしれませんが、ややステレオタイプに映りました。
インタビューに答えた彼女たちは、自分のことを「バリキャリ」「フルキャリ」「ゆるキャリ」とラベリングされことについて、どのような感想を持ったのか興味があります。
また、「仕事」に対立する項目として書かれる「プライベート」。
わたしはてっきり余暇の時間ー習い事や趣味をしたり、資格を取ったり学び直したり、友人や家族と会食したりする時間のことを指すのかと思って読み進めましたが、どうもそういうことではなさそうでした。
定義はありませんが、一つ目の記事には「家族との時間」を意図されているようでしたし、二つ目の記事では「キャリア意識の多様化」により一人ひとりの意向に沿うコミュニケーションが大切で、なかでも「子育て中の女性」への対応に注意とあり、仕事以外の時間の過ごし方の筆頭として「子育て」が挙げられていました。
明示されていませんので、わたしの目線が穿っているのかもしれませんが、ここで言う「プライベート」とは、ほぼ「子育て」あるいは家庭運営の時間すなわち家事労働時間を意味しているように読めました。
「プライベート重視のゆるキャリ派」とは、仕事と子育てとの両立を図ろうとする女性を指し、相変わらず子育てや家庭運営は女性の仕事で、その両立のバランスに悩むのは女性であるという役割認識がうっすら透けて見えました。
まだそこなの?!
わたしが働き始めた20年前から何も変わっていないことに驚くとともに、働く女性を取り巻く環境についての言説や表現にすら変化がないことに、いささか不安を覚えました。
日本社会って、まだそこにいるの?!という感じです。
何度も言いますが、それでも、これが現実なのですね。
「働く男性のプライベートな時間」と聞いて想像される過ごし方のバリエーションと比較して、なんという乏しさなのでしょうか。悲しくなります。
令和の時代に入り、コロナ禍も経て、社会の多様性は広がって、様々な価値観が受容される社会になったように、わたしは感じていました。
「働く女性」なんて、受容される要素としてすら認識されないくらい一般化したと思っていました。
でも、この記事がAERAに紹介される以上、それは思い過ごしだったと言わざるを得ません。わたしは社会の一面しか見ていなかったのでしょう。
だから、未だ認識が不足している「働く女性」を細かく分類して分析し、その多様な声に応えるべく、組織はOBN(Old Boys Network)文化から脱却せよ、と発破をかけられているわけです。
うん、そうだね。
そうだよ、それがいいよ。
と思う一方で、今頃それなの?!とも思ってしまうのです。
「静かな働き方」が提唱される世の中になったかと思ったら、「フルキャリ派」ですか。
高騰するインバウンド価格に対して二重価格を設けることが検討されるニュースを見て感じる、現代日本社会へのやるせなさと同じような、世界から置いてけぼりにされている感覚を味わったのでした。
とはいえ、じゃあどうする。
現実は現実として受け止め、性差の無い役割認識の浸透、女性の社会進出と活躍を阻む障壁の突破を加速化させる必要があります。
それは、量の問題のように感じます。
なぜなら、この話は少なくともわたしが働き始めた頃にだってあった議論だからです。ずっとあるのに変わらないのは、量がまだ少なかったからなのかもしれない。圧倒的な量と圧がなければ、日本社会では議論が前に進まないのではと感じます。
男性雇用者と無業の妻から成る世帯、つまり専業主婦世帯を、共働き世帯(妻が35時間未満のパート就業者)の世帯が上回ったのが2015年。そして2021年に初めて、妻がフルタイムの共働き世帯が専業主婦世帯数を上回りました。働く女性の層のボリューム増大によって、世論は必然的に変わってくるはずです。
ボリュームに応じたサポート体制も整備していかなければ立ち行かなくなります。働く女性のパートナーが、働きたくとも育児や家事のために無職とならざるを得なかった、ということでは本末転倒ですから。
働こうと思う人が、みな働けるとよい。
その働き方も、複業化や在宅勤務、短時間勤務が需要され、同一労働同一賃金の価値観が浸透する等して、ますます多様化していけば、選択肢が広がるのではと期待します。
同時に、大事だと思うのは教育です。
女性も男性も、固定化された役割認識を持たずに生き、それを当たり前とする世の中が「自然」であるという観念は、教育段階でこそ伝わると思います。
誰が何を選択してもよい。
誰が専業で家事に従事しても、誰が企業でハイキャリアを追ってもよい。
また同時に、そこに優劣をつけないこと。
組織に所属してトップを目指して働き続けることだけが価値あることではない。
家事を担い、子どもを産み育てることだけが「是」なわけでもない。
仕事も家事育児も両立させることだけが素晴らしくてキラキラしているわけではない。
そこに貴賤はなく、全ては選択だということ。
その選択は、その人の人生の選択であり、尊重されるべきこと。
こうした感覚を、次代の人たちには基本的な感覚として育んでほしいです。