
「与えるからこそ受け取れる」コミュニティナースのお話。
こんにちは、aicafeです。
40代、人生時計で14:00頃に差し掛かったところです。
これからの人生の午後の時間の過ごし方を模索中です。
コテンラジオで、コミュニティナースの取り組みについて紹介されていた番外編を聴きました。
代表の矢田明子さんが仰っていた印象的な言葉があります。「与えないと、受け取れない」。
コミュニティナース(Community Nurse)とは、地域の人々とつながり、暮らしの中で健康や幸せを広げる活動のことで、特定の資格や職業ではなく、地域看護(コミュニティナーシング)の考え方に基づいたコンセプトやあり方のことです。
『人とつながり、まちを元気にする』コミュニティナースとは、「コミュニティナーシング」という看護の実践からヒントを得てCNCが独自に提唱・普及してきたコンセプトです(商標取得済み)。ナースという名称が入っていますが職業や資格ではなく、誰もが実践できる行為・あり方です。暮らしの身近なところで元気なうちから、『毎日の嬉しいや楽しい』を一緒につくり心身そして社会的な健康やウェルビーイングに寄与します。
コミュニティナースの取り組みはとても魅力的です。「支援」ではなく「相互扶助」の仕組みが、気付かぬうちに地域社会の中に自然とできあがるように仕掛けられるのです。専門的なトレーニングを受けたコミュニティナースが、本人だけでは気が付けない、その人が輝く瞬間を見逃さず、その輝きを地域社会に活かしていくことで、他の誰かの助けとしていくのです。「弱者を助ける」というスタンスではないのが、現代社会にフィットしていると思います。
地域コミュニティから距離を置きたい人たちや、「支援活動」などには拒否感・警戒感を覚える人たちは一定数いて、むしろそれが普通であるという前提のもとに活動が設計されていることにも、共感を持ちます。
というのも、わたしは、こういう取り組みからは一歩引いてしまうタチだからです。地域コミュニティ活動とか、正直、苦手です。地縁で繋がるというのは、なんとも面倒臭そうに感じてしまいます。
なんなら、誰かを頼るのも苦手です。誰かに「貸」を作るような気がするからです。それくらいなら、自分でやってしまえ、というタイプです。
そういう性質なので仕方ないや、と思っていたのですが、冒頭の矢田さんのお話を聞いた時、ピキーンときました。
そうではない。
わたしが誰かを頼ったり支援を受け入れられたりできないのは、わたしがこれまで誰かに《与えてこなかったから》かもしれないと。
これはかなり刺さりました。
わたしは地域コミュニティも、親族のことも、友人知人も、特に助けてはいません。
皆と等間隔の、適度な距離を保って、そつなくコミュニケーションは取っていますが、ある種の《介入》を必要とする助けは行いません。「お節介」と思われたら嫌だし、わたしの助けが必要とされているとも思わないからです。
そういう態度で全ての人と付き合ってきたことによって、わたしは誰かから助けられることをも拒む人間になっていたかもしれません。誰かを助けたことがないから、誰かに助けられることを自分に許してこなかったのです。これはかなり大きな気付きでした。
今はその必要性がなくとも、将来、「誰か」に助けて欲しいと思う日はきっと来るでしょう。そういう時に、「助けて欲しい」と素直に頼れなかったり、差し伸べられた助けを素直に受け入れることができなかったりすると、きっと事態は拗れます。でも、「誰か」を助けた経験があれば、心が強張ることはないだろうと、容易に想像がつきます。これは人間の本来的な性質なのかもしれません。
また、この「誰か」とは、家族のような運命共同体的存在や、職場の人のような利害関係者ではなく、普段は特段のつながりはなくとも同じ地域社会に属し生活している「誰か」をイメージしています。
その「誰か」を、わたしが助けられることはなんだろうか。凝り固まった自分の頭だけでは、それを考えつくのはなかなか難しい。コミュニティナースの方に探し当ててもらいたいです。
わたしが輝くなにかで、誰かの役に立つ瞬間に、さっとそれを差し出せたら、どんなに素敵だろうかと思います。
そして、いずれ誰かの助けを必要とする時に、「どうぞよろしく」と素直に助けを求められるようになっていたら、どんなに優しい循環だろうと思います。
「与えるからこそ、受け取れる。」
何ができるかは分かりませんが、まずは日常生活のなかで、自分の持てるなにかを提供していくことを意識していこうと思います。2025年初めの気づきでした。