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今日の1枚:ブラームス、弦楽五重奏曲第1,2番(グリンゴルツ四重奏団)

ブラームス:
弦楽五重奏曲第1番ヘ長調 Op.88
弦楽五重奏曲第2番ト長調 Op.111
BIS, BISSA2727
グリンゴルツ四重奏団
リッリ・マイヤラ(ヴィオラ)
録音時期:2023年6月5-9日


Brahms, Gringolts Quartet
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 評論家吉田秀和がヨハネス・ブラームスについて書いた文章をまとめた本が河出文庫から刊行されています(『ブラームス』、2020年)。そこでは「ブラームスには、すぐれた室内楽作品がいくつもある」とした上で、弦楽四重奏にヴィオラをひとつ追加するという、モーツァルトの弦楽五重奏曲と同じ編成で書かれた2曲の弦楽五重奏曲(作品88、作品111)について、それら2曲の前では「三曲の《弦楽四重奏曲》はみんな色あせて見える。それほど、これはブラームスの真髄を示した名作である、というのが、私の持論である」と述べています。弦楽器のみの編成による室内楽曲というのを、ブラームスは弦楽四重奏、五重奏、六重奏と書き遺していますが、そのうちでは作曲年代の遅い五重奏曲2編がもっとも優れているのではないか、というのは、吉田秀和ならずとも多くの人が感じるところではないでしょうか。ブラームスらしい思慮深さが、過度の低徊を伴うことなく気持ちよく表立っていると同時に、伸びやかな旋律が魅力的です。他方、フーガのような対位法的な書法もよくこなれていて、理の勝った印象がありません。そして何より、後年の作品であるにもかかわらず、2曲ともに覇気に満ちていて、溌剌とした躍動感は若々しくすらある。第2番ト長調作品111の作曲にブラームスはたいへん苦労をして、自らの創作力が衰えたと信じ、引退を公言した、というのは有名な話ですが、出来上がったこの曲からそうした苦労の跡や霊感の枯渇を読み取ることは難しいでしょう。
 さて、吉田秀和はこの2曲についてブダペスト四重奏団とヴィオラのワルター・トランプラーが共演した1958年の録音を挙げて、この演奏で「心から満足してきた」と語っています。じっさい、このステレオ録音は古典的な名盤として、例えばアマデウス四重奏団とセシル・アロノヴィッツ盤(DG)や、知名度ではだいぶ見劣りがしますがバルトーク四重奏団とジェルジ・コンラート盤(フンガロトン)などと並んで、いやそれら以上に親しまれてきた録音でした。私もこれらの曲を初めて聴いたのはブダペスト&トランプラー盤だったと記憶していますし、長い間刷り込みに近い演奏でした。
 今回新譜としてリリースされたのは、グリンゴルツ四重奏団による録音です。ヴァイオリニストのイリヤ・グリンゴルツはソリストとして多くの録音を作っている一方で、弦楽四重奏団を編成して活動しており、ソリストの余技には収まらないような充実した録音を世に問うています。その彼らが、ヴィオラのリッリ・マイヤラを招いて録音したのが当盤です。余談ですが、マイヤラは手許にある録音をあらためたかぎり、アムステルダム・ドゥドク四重奏団とも第2番を録音していました。
 当盤では、まず5人の繰り広げる響きの豊かさ・美しさに魅せられます。弱音もよく鳴らして音が痩せる瞬間を作らず、その一方で強奏では尖ったアクセントを嫌って、音符の長さを点ではなく線で感じることを優先している。加えて、和音の純度が高く、合奏が楽々と鳴り渡っているので、力みかえるところがない。その厚みがあって潤いをたっぷり含んだ、それでいてベトつくところのないサウンドには、それだけで抗しがたい魅力があります。
 そして、演奏そのものもなかなかに個性的です。まずチェロがどちらかというと軽量級で、機能性よく動き回っても弓さばきは十分に軽やかで、ブレンド感はあっても濁りがない。バランス的にもチェロは出しゃばりすぎず、ことさらに重厚感を誇張したりしません。だから全体からはシンフォニックというよりも、あくまで室内楽的な親密さや緻密さ、楽器間の距離感を大切にしている印象を受けます。そうした印象を強めるのは前述のようなアクセントの扱いや、さらにはリズムの感じ方です。アクセントは耳を脅かす刺激よりも響きとしての力強さが先立つし、トゥッティも慌てず騒がず、落ち着いた弾きぶりで聴き手を安心させてくれる。リズムは付点リズムなどの躍動感を抑制していて、角を立てない柔らかさを優先し、コツンとくる手応えをギリギリ残す程度に再現しているのも興味深いと言えます。
 こう書くと、この演奏が繊細さを誇って、軟弱で線の細い演奏になっているのかと思われる向きもあるかと思います。でもそんなことはありません。演奏の基盤にあるのは前述した響きの豊かさであって、音量がいかに推移しようとも、その豊かさを一貫させることには濃やかな注意が向けられている。その心地よい響きに乗った5人の合奏は含蓄深く、伸び伸びとしていて、聴き手を惹きつけます。
 なんだかそれこそブラームスの音楽のような、逡巡の多く前に進まない文章になってしまいました。仕方がないので敢えて簡単に言いますが、近年リリースされたこれら2曲の録音の中で、響きの美しさと味わいの豊かさにおいて、当盤は間違いなくトップ・クラスにあることでしょう。これら2曲を愛する方々はぜひ耳を傾けてみてください。

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